卓話


「心が遺伝子をオンにする」

2010年5月26日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

筑波大学
名誉教授 村上 和雄氏 

 私は生命科学という分野に約50年関わり,そのうちの20数年は筑波大学に席を置いておりました。10数年前に,私は,アメリカのIBMにおられた江崎玲於奈氏を筑波大学の学長に迎えるべく奔走しました。アメリカ在住が長い民間の一学者を国立大学のトップに迎えるのは,それなりの苦労がありました。

 学長に就任した江崎氏の初舞台は入学式の挨拶でした。江崎氏の話はこうでした。
「あるアメリカの小さな大学で,ある先生がノーベル賞を受賞された。学長はたいへん喜んで,『我が大学もやっと世界に通用する学者が出た。めでたいことである。各地から講演の依頼がくるだろうから,大学の車と運転手を付けるから自由に使ってくれ』と言いました。先生はその車を使ってあちらこちらに行きました。そのうちに,同じ話をすることにも飽きてきた大先生が,ある小さな町で講演が始まる前に,『幸い,町の人は誰も俺の顔を知らない。今日は俺に替わって君がやってくれないか』と運転手に頼みました。運転手は後ろで何十遍も聞いていますから,大先生の話は丸暗記していました。『そうですか,では今日は私がやらせていただきましょう』と,堂々と講演しました。拍手喝采を受けて,演壇から降りようとすると,聴衆から質問が来ました。普通はそこでばれるのですが,運転手は胸を張りました。『すばらしい質問だ。感心した。但し,その程度の質問は後ろに寝ている運転手に答えさせよう』」

 新入生諸君はこの話に爆笑しました。何故こんな話をするかというと,実は,私はこの5年間程,吉本興業と組んで「笑いの研究」をやっているのです。「笑いによって,どの遺伝子がオンになり,どの遺伝子がオフになるか」という研究です。

 遺伝子とは一種のスイッチだと感じてください。スイッチ・オンとは遺伝子が働く,スイッチ・オフとは遺伝子が働かないということです。現在,人の遺伝子暗号は全部解読されました。その結果分かったことは「多くの遺伝子は眠っている」ということです。

 もし,健康な遺伝子や才能のある遺伝子をオンにして,病気になるための遺伝子をオフにすることができれば,我々の可能性は,まだまだ伸びると考えられます。

 遺伝子は親から子供に伝えられますが,もう一つの大切な働きは「すべての生き物の遺伝子は,一刻の休みもなくオンとオフを繰り返しながら正確に働いている」ことです。

 笑いの研究をして分かったことは「笑いによって血糖値が下がる」ということです。血糖値123mgの人が,漫才を聞いて笑った後に測ったら77 mgに下がりました。毎年,違う芸人さんに来てもらって実験を繰り返していますが,いずれも血糖値が下がるという結果が出ています。これからは「笑いセラピー」を医療に導入したいと思っています。

 私が遺伝子の研究を続けて25年以上が経ちました。遺伝子は運動によっても,食べ物によってもスイッチが入ります。では,人間の「心」の動きが遺伝子のオン・オフにどう関わるか,それを証明したいと考えています。

 私たちはたくさんの遺伝子の暗号を解読してきました。合計で1万6千個を越えます。一口に1万6千個と言いますが,これは大変な作業です。私はチームの業績を誇りに思っています。

 私は前から不思議に思っていました。遺伝子の暗号解読の技術がすごく進みました。解読技術の進歩もすごいですが,もっとすごいのは「遺伝子に書いてあった暗号」のすごさです。その暗号は誰が書いたのか。人間ではありません。しかも,この暗号は決して出鱈目ではありません。人の遺伝子暗号は万巻の書物に匹敵する情報です。それが,小さな小さな細胞に記録してある。誰が書いたか。自然が書いたとしか言いようがないのです。

 私たちが知っている自然は,目に見える自然です。太陽,月,水,空気など,測定できる自然です。

 すべての生き物の極微の世界の遺伝子暗号を書いたのが自然だとすると,その自然は私たちがよく知っている自然ではなくて,まだまだ知らないけれど,目に見えない不思議な自然があるのではないかと判断しました。

 私たちは,目に見えるもの,測定できるものに価値を求めています。しかし,人間にとって本当に大切にものは,目に見えないのではないかと思いはじめました。

 「心」は目に見えません。「命」も目に見えません。全ての遺伝子暗号を書き込んで,しかも,それを間違いなく休みなく動かしている大きな力も目に見えません。

 金子みすずさんという詩人が「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」と詩に詠っています。

 私は,その存在を「Something Great」という言葉で表現したいと思います。

 欧米に行くと,Something Greatとはどういう意味だ,Godとどう違うのだと問われます。私なりに定義すると「すべての生き物の元の親のようなもの」です。

 私たちは,大腸菌を使っていろいろな薬を作っています。それは,全ての生き物や微生物,昆虫,植物,人を含めた全ての動物,今生きているものだけでなく,38億年の間に生まれた過去の全ての生き物と,将来に生まれるであろう全ての生き物は,全く同じ遺伝子暗号で作られることが分かったからです。だから大腸菌の遺伝子暗号を解読して,人のホルモンや酵素を作ることができるのです。これは遺伝子工学に応用されていますが,これの意味するところは,生き物に対する考え方の変更を迫りつつあることと考えています。

 即ち,全ての生き物はDNAで繋がっています。ご先祖様が親戚か兄弟なわけです。この考えは,これからの環境問題の解決に大切な事実を示しているように思います。

 大腸菌について,世界中で多くの研究がなされてきました。しかし,世界の富や知識の全てをつぎ込んでも,コピーはできても,オリジナルの大腸菌を作ることはできません。

 最近,人工生命ができたという発表がありましたが,大きな誤解です。生命,生き物を作ったのではないのです。今の科学では,生き物は作れないのです。

 私たちは材料についてはかなりよく知っています。しかし,材料を集めても生き物は生まれません。細胞一個が偶然に生まれる確率は,計算できない程困難な数値です。しかも人間の細胞の数は60兆あります。大人の体重1kgあたり約1兆個と推計しての話です。

 60兆の細胞は全て同じ遺伝子のコピーをもっています。受精卵のコピーだから当然です。60兆の細胞が毎日新しく入れかわっています。時間単位で見事に入れ替わっています。生と死を繰り返しています。生と死はペアーなのです。

 細胞は自分の役割を果たしながら,他の細胞を助けています。助け合わねば臓器の働きはできません。心臓は都合で休むというわけにはいきません。どうして,こう見事にその役割を果たすのでしょう。お医者さんは自律神経のお陰だと答えるでしょう。

 では自律神経を動かしているものは何かというと,まだ何も分かっていません。いったい,この見事な助け合い情報がどこに入っているのでしょう。私は遺伝子の中でしかないと思っています。この「助け合いネットワーク」の遺伝子情報が21世紀には見つかると思います。できれば私たちで見つけたいと思っています。

 これが見つかると,和の精神とか,慈悲とか愛といった,宗教的大天才が直感で掴んだ生き方の心理が一部遺伝子の言葉で語れる時代が来る。これが21世紀の大きな目標です。

 私たちは「子供をつくる」と言いますが,その言い方は傲慢です。人間の胎児は,一個の受精卵から十月十日という38週の間に,38億年の生き物の進化の歴史を再現するのです。お母さんの38週は,胎児の38億年なのです。お母さんの1週間は,胎児の1億年に相当します。そういう意味で命は尊いのです。

 宇宙ができてから137億年経ちました。ですから,宇宙生命で言うと私たちの命は137億歳です。その進化の歴史が全部,私たちの体の中に残っています。人間は誰でも,宇宙生命137億歳,地球生命38億歳の進化の歴史が凝集されて,今ここにあると思います。その意味での命の尊さを,私は生命科学の現場から唱えたいと思います。

 私は「Something Great」のメッセンジャーになりたいと思っています。21世紀には,日本の出番が来ると思います。日本は科学技術力も経済力も持っています。加えて,日本人は伝統的に「Something Great」を感じています。大自然の恵みに感謝し,共感して生きてきました。眠っている遺伝子をオンにすれば,日本は世界に役立つ国になれると思っています。