卓話


ガバナー公式訪問

2010年7月21日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

国際ロータリー第2580地区ガバナー
上野操氏(東京江戸川RC)

 今年の1月に,ガバナーエレクトとしてサンディエゴの国際協議会に行ってまいりました。その時の全体会で,現在のRI会長レイ・クリンギンスミス氏は開口一番こうおっしゃいました。「貴方がたは,ロータリアン以外の方々から『ロータリーとは何か』と尋ねられた時に簡潔に答えることができますか」また「ロータリアンから同じ質問を受けた時に,ロータリーの原則について的確に答えることができますか」。

 クリンギンスミスRI会長は,この二つの問いに対して簡潔に答えるキーワードを考えた結果,「地域を育み,大陸をつなぐ」という言葉に至ったとおっしゃいました。
 私は,公式訪問にあたって,RI会長が出した宿題に答える気持ちで,「ロータリーとは何か」について,私なりの考え方をお話ししたいと思います。

 私がいつも援用している言葉は,ポール・ハリス氏の「ロータリーは決して宗教ではない。またそれに代わるべきものでもない。ロータリーは,古くから存在していた道徳観念を私たちの現代生活に,なかんずく実業的職業生活に適用実践することだ」と説明している言葉です。

 この言葉には三つの論点があります。一つは,「宗教ではない。道徳である」と,ロータリー運動と宗教の間に,一線を画している点です。もう一つは,「古くから存在する道徳観念とは何か」ということです。

 三つめは「現代社会の中で道徳概念を適応しなければならない分野が何故,実業的職業生活なのか」という点です。

 古くから存在する道徳観念の中身について,ハリス氏はいろいろと説明しています。そして,「ロータリーは宗教ではないけれども,概念する内容は宗教の教義と一致する」とも言っています。ハリス氏は,釈迦,キリスト,孔子,マホメットや古代の先哲の言葉を挙げ,二つのことを説いています。

 一つは,我々が社会生活をしている間に,「人からしてもらいたいと思うことを,先ず自ら人にしてあげなさい」ということです。これは,ご承知の,聖書のマタイ伝7章にある「黄金律」です。

 もう一つは,「人からしてほしくないと思うことを,人にしてはいけません」ということです。これも旧約聖書にある「銀の教訓」といわれている教えです。
 宗教と道徳の違いは何かを考えてみます。

 利他を発揮して自利を押さえることを究極まで高めると,宗教的次元に入ります。宗教的次元は自我を否定します。道徳は,どんなに宗教に近づいても自我を認める次元です。

 逆に,あまり自利ばかりを求めていくと,社会規範がそれを許しません。社会の秩序を維持するために国家権力がそれを罰します。これが法律の世界です。法律は最低限度の倫理だといわれる所以です。

 ハリス氏の言う道徳は「下は最低限度の倫理から,上は限りなく宗教に近づくが,自我は認める」という振幅のあるものです。

 古代ギリシャにカルネアデスという哲学者がいました。彼が弟子たちに,次のような問題を提起しました。『客船が嵐にあって転覆した。海に放り出された船客Aが懸命に泳いでいると,目の前に一枚の板が流れて来た。Aはそれにしがみついた。その板は大人一人を浮き上がらせるだけの浮力がある板だった。少しして向こうからBという船客が板を目がけて泳いで来た。そしてBとAが板を奪い合うことになった。』

 カルネアデスは弟子たちに問います。「Aが近づくBをはね除けて溺死させ,自分は板につかまって生き残るのは許されるか」また「BはAから板を奪い取って,Aを突き放して溺死させることは許されるか」という命題です。如何お考えですか。

 カルネアデスの結論は「法の次元では,AもBも許される」です。何故ならば「二者択一の極限状態においては,個別的に担わされている自己保存本能を素直に発揮した行為は許される」のが道徳倫理の次元だからです。実は2200年前のこの話が,現代の我が国の刑法の規定の中に生きています。Aの場合は正当防衛,Bの場合は緊急避難として,犯罪は成立しないことになっています。

 ポール・ハリス氏が「ロータリーの倫理運動は,宗教ではなく道徳である」と言った意味が分かるような気がします。自己滅却まで求める宗教では大多数の我々には実践できません。だから普遍的な運動にはなりません。

 もう一つ,我々の歴史を見ると,宗教が組織化し権力化し,時の政治権力と癒着すると大変なことをします。例えば十字軍の遠征は約200年続きました。そこで,どれだけの人間が殺戮されたか。ユダヤ教,キリスト教,イスラム教は同根の宗教ですが,排他的な一神教です。それらが権力と結びつくことは避けねばなりません。かくして,ポール・ハリス氏は,ロータリー運動と宗教は一線を画すべきだとの見解をとったのだと思います。

 次に,何故,道徳概念を実業的職業生活に優先的に適用させるとしたかを考えます。
 1930年代に,ポール・ハリス氏は中国に向かう途中に日本に寄ったことがあります。日本での会合で,「何故あなたはロータリーを作ったのですか」という問いに,ハリス氏は即座に「さびしかったからだ」と答えました。

 ポール・ハリス氏は1905年にロータリーを作りました。その5年前からシカゴで弁護士として開業していました。法律事務所は繁盛しました。しかしハリス氏は,「知人はたくさんできたが,友人はできなかった」と言ったそうです。当時のシカゴは,激烈な生存競争の拝金主義社会でした。商道徳も低下し人心は荒廃していました。

 これでは本当の豊かさは得られないと悟ったハリス氏は,異業種の人達を集め,一業一会員の同志を例会に集め,親睦を深め,人間性を回復させました。その結果,「破壊しつつある経済生活に我々が積極的に参加して人間関係を改善しよう」と呼びかけ,「商道徳を誠実に守り,相手の立場に立って考え商売をしよう。そうすれば,必ず信頼され,信用もつく。自然に利益が上がり継続的に企業は発展するだろう」ということを確認し合ったのだろうと思います。

 こうして「みんなでやろうよ」と始めたのが職業奉仕でした。「なかんずく職業生活に適用・実践すべきだ」と説いた所以でした。
 我々の先輩たちが「ロータリーの金看板は職業奉仕である」と強調しているのは,そこだと思います。

 各クラブは自主性を発揮しつつ,ロータリーの本質といわれている職業奉仕を「アイ サーブ」の実践を通して,地域社会を育むことが急務です。育まれた力は,自ずから大陸と大陸の懸け橋となるでしょう。

 もう少し話を敷衍させて,日本のロータリアンは,決議23-24のセントルイス宣言が好きです。特に共感しているのは,宣言の冒頭,第1条です。経済人の人生哲学である実践倫理の原理を凝結しているという点です。

 宣言は「ロータリーは一つの人生哲学だ。我々は一方において,自分の欲望を満足させようとする自利の心と,他方においては,社会に貢献しなければならないという利他の心を同居させている。何か行動を起こそうとすると,この二つが葛藤する。葛藤を調整する物差しが欲しくなる。それが人生哲学だ。ロータリーでの人生哲学の物差しは”Service above Self”だ」と言っています。

 「超我の奉仕」と訳しますが,私は「自己に優先する奉仕」と訳す方がぴったりすると思っています。「自己に優先して奉仕をしよう」「自利に優先して利他の行為をしよう」がロータリーの哲学だというわけです。

 以上が,セントルイス宣言を日本人が好むというところです。
 経済人として活動する際に,もう少し具体的になるのが「最もよく奉仕する者は最も多く報われる」というアーサー・シェルドンの標語です。

 ところで,ロータリアン以外の人に,ロータリーを説明するのに,どんな話をするのがよいかを考えました。

 私は昔から伝わる日本の諺を引用します。先ず「情けは人のためならず」です。親切なことをすれば,巡り巡って必ず自分のところに帰ってくるという教えです。この諺を信ずることができる日本人のDNAは「社会は関係的な存在だ」という思想です。

 もう一つ「最もよく奉仕する者は最も多く報われる」に相当する諺は,近江商人が使う「三方よし」という言い伝えです。「売り手よし,買い手よし,世間よし」という商法をしなさいとの口伝です。売り手は買い手の事を考えて商売しなさい。そうすれば信用される。それを繰り返しているうちに世間の信用も得られるということです。

 余談になりますが,最近,企業の社会的責任,CSRがよく言われます。その論拠が,企業も関係的な存在の中に成り立っているという自覚から出発しないと,本当の責任は自覚できないと思います。コンプライアンス,法令遵守も同じです。最低限度の倫理を守るというのは当たり前のことです。

 ロータリーのできた百年前はオーナー的社長が多かった時代でした。比べて今は株主と経営者が分離してきています。中小企業のオーナー経営者も親会社の意向を汲んだ経営を求められます。いずれにしても,主体的に職業倫理を実践することが難しくなってきています。職業奉仕が形骸化している所以です。

 しかし,ロータリーの根本に立ち返って,草の根運動的に職業奉仕をすれば,まだまだ世の中を改善していく余地があります。もう一度,我々は職業奉仕から出発すべき時だと思います。