沿革


東京ロータリークラブの解散

1940年9月

 大陸での戦火拡大と対米関係の悪化に伴い、日本のロータリーに対する攻撃は一段と激しくなった。クラブの例会に憲兵や特高がしばしば臨席し、また、そこでのスピーチもあらかじめ警察に届け出なければならなくなった。新聞紙上でも、一部では「米国のスパイ」呼ばわりされたうえ、「解散すべし」と指弾される始末であった。

 そこで日満ロータリー連合会では、ロータリー組織を国家単位に改組することとし、もし、これが受け入れられなければRIから脱退する方針を定め、傘下の各RCに通告した。しかしながら世情の圧力は、ロータリアンの力ではすでに支えきれないところまできていた。遂に日満連合会会長の米山梅吉が軍当局に呼び出され、ロータリーの存在は「大日本帝国に対する反逆である」とまで極言されるに至った。

 1940年8月8日、まず、静岡RCが解散。わが東京RCでは8月14日の例会で解散問題がとりあげられたが、なお、賛否は分かれていた。8月19日の岡山、8月21日の京都、9月5日の神戸、今治、帯広と相次いで解散を決定。東京RCも遂に9月11日の例会で解散を決議した。

 この時、創立者の米山梅吉は重い足を引きずるようにして壇上に立ち、「奉仕の理想はあくまでも堅持したい」と最後の挨拶をした。東京RCが誕生して、ちょうど20年がたっていた。