ロータリーの友月間例会
地下鉄サリン事件での聖路加国際病院の対応
2024年10月16日(水)
聖路加国際病院 院長 石松伸一氏
来年3月に地下鉄サリン事件から30年になります。この事件で最も多くの被害者を受け入れた当院でさえ、当時働いていた人は今1割もおらず、事件を知らない人が多くなりました。あの時、救急医として対応した経験を話します。
1995年3月20日月曜日の朝、地下鉄3路線の5つの列車内でサリンが散布されました。オウム真理教の一部の信徒が教団内への強制捜査をかく乱させるために起こし、最終的に死者14名、重軽傷者6300名以上の大惨事となりました。
この日、私は救急外来で勤務しており、8時16分頃に東京消防庁からホットラインの電話で第一報がありました。「地下鉄日比谷線の茅場町駅で爆発火災が発生したらしい。重傷者は何人ぐらい引き受けてもらえますか」。
救急医としては、爆発で吹き飛ばされたり火傷したりした重症の外傷患者が多数発生したイメージを持ち、茅場町駅は当院が一番近いため、「4-5人は大丈夫」と伝えました。重症の外傷患者が5人も来ると実際は大変ですが、その時は思わずそう言っていました。その後、搬送される傷病者の数や年齢、性別などの連絡があるはずが、なかなか来ません。
8時25分頃、「歩いてきた患者が3人いる」と救急外来の受付スタッフが告げに来て、「3人とも目が痛いと言ってます」。歩いて来られたぐらいだから重症ではないだろうと、「今から怪我の重症な患者が来るから、ちょっと待ってもらってください」と言いました。これがこの日犯した最初の判断ミスで、目が痛い人が同時に3人来ることを全くおかしいと思っていませんでした。後にこの3人が被害者の第1、2、3号だとわかります。
ようやく8時40分に救急車で1名が搬送されました。乗っていた中年男性は息が苦しく目が痛いと訴えているだけでした。救急隊員に「爆発火災じゃなかったんですか」と聞くと、「我々はわかりません。駅の外で大勢の患者さんが倒れているのでその中で一番重症な人を連れてきました」と言われました。
私は、「電車の中で催涙スプレーがまかれたのかもしれない。であれば命に影響を及ぼすことはない」と思っていると、3分後に現場を通りかかった自家用車で1人目の心肺停止状態の患者が運ばれてきたため、すぐに蘇生に取りかかりました。すると、まもなく2人目の心肺停止の患者が搬送されてきて、同様の患者が何人来るかわからないと非常に不安を覚えました。
全館放送を行い救急外来に医師、看護師を非常召集しました。8時55分頃には患者を寝かせる場所がなくなったため空いているストレッチャーを全て持ってきてもらい、病室もいっぱいになったため院内にある礼拝堂に中等症の患者を収容しました。
9時30分、当時の日野原重明院長が全ての通常診療と手術を中止しました。英断でした。手術室にいた麻酔科の医師や看護師が手伝ってくれ、手術室のベッドや麻酔から回復するための経過観察のベッドも入院病床として使うことができました。この頃、事件現場の一つ築地駅に当院から医師8名と看護師を2名派遣しました。
消防庁からは「原因物質はアセトニトリルらしい」という情報が入りましたが、アセトニトリルは有機溶媒で、どう見ても自分たちが見てきた溶媒中毒の患者の症状とは違いました。私が以前勤めていた地方の救命救急センターによく運ばれる農薬中毒、中でも有機リン中毒に非常に似ていることから症状緩和のため硫酸アトロピンの投与を開始しました。
10時30分頃、自衛隊中央病院から応援の医師と看護師が到着。11時頃には院長と副院長による1回目の記者会見を行いました。
11時過ぎ、前年に松本サリン事件で多くの傷病者を収容した信州大学医学部附属病院長の柳沢先生から日野原先生にサリン中毒の疑いがあるとの電話が入りました。
11時半過ぎ、警視庁の「原因はサリンと推測される」という報道がありました。サリンであれば二次被害が予測されるため、院内の軽症患者に上着を脱いでもらい、上着に染み込んだものがそれ以上拡散しないようビニール袋に入れ密封してもらいました。
午後0時、病院幹部と診療担当スタッフで今後の治療方針、帰宅可能な患者の判別方法などを検討し、午後2時過ぎ、再診察を行い、症状が軽く歩いて帰れる患者は帰宅してもらい、その日帰れなかった患者には入院してもらいました。
問題は、受付手続きなしで多数の患者が入って来たため、患者の名前もわかっていないことでした。私と医事課のスタッフが順番に回って名前と住所と家族の連絡先を聞きました。当時はまだ携帯電話が普及しておらず家族への連絡は固定電話でするしかありませんでした。
当日640名が来て、528名は経過観察後に帰り、107名が中等症で入院しました。心臓が止まった方、呼吸が止まった方はICUに入院し、残念ながら心肺停止で来られた最初の患者は救急外来で亡くなりました。
これはテロですが、もし最初からサリンとわかっていれば、除染してから病院に搬入する、呼吸が停止していれば人工呼吸を、必要があれば蘇生術を行うことができますが、本当に何も情報がなかったためにできませんでした。
サリンには解毒薬があります。農薬中毒の際に使う薬で、東京都内は農薬中毒が非常に少ないため備蓄している病院はほとんどありません。ただ、東京都はこのテロ事件をきっかけに備蓄を進めています。
また、災害等が起こった場合に患者を医療機関に運ぶ優先度を決めるためのトリアージのタグが地下鉄サリン事件の時は統一されたものはありませんでしたが、今は全国統一され、いろいろな災害に備えられています。
この事件に対応して、いくつかの問題点がはっきりしました。
まず情報伝達の困難です。とにかく発生現場の情報が病院に全くもたらされず、実際にはテレ ビから入手していました。今、災害拠点病院には広域災害救急情報システムがあり、日本国内で災害が起こるとアラームが鳴り、助けに行く、あるいは傷病者受け入れ可能かをオンラインで登録できます。また、当時、自治体と警察・消防と自衛隊、医療機関の連携が十分にはなされていませんでした。
院内の情報伝達もポケットベルしかない時代で、内線電話もどこにかけても話中でした。例えば、サリンと思われると情報を得てもすぐに伝えられず、解毒薬を使う際も使ったことのない内科・外科の医師に量や投与方法を教えるために瓦版とよばれるものを作りコピーして院内に配りました。
それから、困った情報がありました。当院には最も近い築地駅からの傷病者が一番多く来たと思われていましたが、実はそうではなかったのです。後で患者へのアンケート調査を行ってみると、約3キロ離れた小伝馬町駅から来た患者が一番多かったのです。いろいろ聞いてみると、小伝馬町駅で事件に遭った傷病者の中に「聖路加に行け」と聞いたという方がいて、たどってみると、当時の医師会の先生が小伝馬町駅の救護に出向いており、そこで言ったらしいのです。
実は先日、本人に会う機会があり、「先生、本当に言ったんですか」と聞くと、「言った。聖路加に解毒剤があると思った」ということでした。事件現場で目が痛い、目が見えない、頭が痛いという患者は、決して悪気なくされたその話にわらにもすがる思いで反応することがわかりました。
また、今やろうとしている治療を止めるような怪しい FAXも来ましたが、惑わされずに続けました。
「犯人が紛れ込んだらしい」と警察からの連絡もありました。目撃者がいるという情報で、犯人が残ったサリンを病院の中で撒かれたらかなわないと心配しましたが、幸い該当者がいませんでした。
次の問題点が分析です。こうした化学物質のテロや中毒の時には、原因物質の特定が必要ですが、当時こうした化学兵器が民間に使われることは想定されておらず、消防庁・警察・自衛隊が持っていた分析器のデータベースに入っていませんでした。治療法の情報は自衛隊中央病院の先生や信州大から教えてもらいました。現在は中毒情報センターが大阪と筑波にあり、「こんな傷病者がいる」と連絡すれば想定される中毒物質や治療法を教えてくれます。
3つ目が二次被害です。病院の職員は手袋さえしていない時代でした。院内でこの事件に関与した職員に調査を行ったところ、窓がなく換気が悪い礼拝堂で働いた人の45.8%が何らかの体調不良を訴えていました。幸い軽症でしたが、こうしたガスの場合、空気中によどむため、今後、化学テロの対応に礼拝堂は使えないとなりました。現在は、除染設備の配備がいろいろな病院で進みつつあり、初動する警察・消防でも配備が進んでいます。
教訓も得ました。
教訓1:先入観は持たない
最初の情報は爆発火災ということでしたし、本当の患者第一号は目の痛みを訴えた3人でした。毒物に関する情報もアセトニトリルは違っていました。
教訓2:自分の身は自分で守る
自分の身の安全があってこそ傷病者を救助できる。除染装置がなくても、例えば上着を脱がせるだけでも除染は可能で、知恵を絞ればある程度なんとかなります。
教訓3:患者の身元把握は重要
軽症の患者は病院の中を移動し、1人の患者にいろいろな医療者が関与します。最終的に誰が今病院に残っているのか身元調査が必要です。
しかも、他の病院に行った方や病院に行かなかった被害者の住所はわからず、この事件の被害者の全体像がわからなくなったままです。公的な調査、治療介入などはなされず情報不足の中、取り残され苦しむ被災者が数多く見られました。
もし明日の朝、30年前と同じサリン事件が起こったら、今度は少しでも傷病者を減らすことができるでしょうか。我々は二次被害にならずに済むでしょうか。そして、被害者の家族に一刻も早くこの病院にいることを伝えられるのでしょうか。常に我々は自問自答を続けています。
※2024年10月16日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。