タクトは踊る−風雲児・小澤征爾の世界
2025年12月3日(水)
ノンフィクション・伝記作家
中丸美繪氏
私が小澤征爾(以下、小澤)と会ったきっかけは、彼の恩師、音楽家・斎藤秀雄(以下、斎藤)の評伝のための取材でした。約30年前、没後10年にもなるのに、なぜ小澤は「斎藤先生、斎藤先生」と言い、また世界一流オーケストラやソリストとして活躍する音楽家が先生のために手弁当で世界中から集まってオーケストラを作ったのかが疑問で、伝記の執筆を始め『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』を著しました。その後、指揮者朝比奈隆、斎藤と共に桐朋学園を作ったピアニストの井口基成などの評伝も刊行、そうした中で小澤のエピソードが溜まり、資料を手渡されることもあり、日本人音楽家のトップランナーとしての生涯を、周りから書くように定められた運命と感じるようになりました。小澤の生き方そのものを描いてみたいと思うようになったのです。
私が小澤と出会った頃の演奏を聴いていただきます。小澤が初代音楽監督の水戸室内管弦楽団の演奏で、メンバーはほぼサイトウ・キネン・オーケストラです。創立には茨城県出身の三井不動産の社長、会長を務めた江戸英雄が関わっていました。
江戸は小澤の運命を握った一人で、三人の娘は、桐朋学園音楽科卒業、長女・京子は小澤と同じ一期生でした。江戸を斎藤伝のために訪ねると、学園運営には「保護者として関わった」「芸術家というのははかり知れないものだ」と言っていました。
1957年の桐朋の夏合宿で指揮をする小澤の写真があります。この時22歳で、オーケストラのメンバーは、小澤よりずっと年下の小学生から高校生がいました。
先ほど聴いていただいた水戸室内管弦楽団演奏の『ディヴェルティメント』は、元はモーツァルト作曲の弦楽四重曲ですが、斎藤が学生オーケストラのために編曲をし、徹底的に仕込み、歴代の桐朋オーケストラで演奏された曲です。小澤がサイトウ・キネン・オーケストラを作った時、この思い出の曲をテーマソングといい、繰り返し演奏していました。
当時、音楽学校に行くのは裕福な家の子供がほとんどで、自分より年下の子たちが次々と公費・私費留学をし、国際コンクールで優勝・入賞していました。小澤だけ定職もなく置いてきぼりです。
一期生指揮科唯一の生徒だった小澤は、斎藤の助手として編曲された楽譜をオーケストラのために写譜したり雑用をこなしたりで、「自分は斎藤の丁稚だった」と言っていました。
斎藤は芸術主義で妥協を許しません。「音楽家は消防士と同じだ」「月月火水木金金だ」と、休日もなく学校と自宅で教え、編曲し、音楽漬けの一生を送りました。一方、若い小澤は決して禁欲的でなく、明るくスポーツが大好き、お酒も好き、そして恋愛もする若者でしたから、斎藤に拘束されているようにも感じました。
さて、小澤が音楽的に評価されたのは、日本人離れしている素晴らしいリズム感を持っていることで、大編成のオーケストラを振らせたら右に出る者はいないと言われました。
そして、指揮のテクニックは斎藤直伝です。斎藤は、ドイツ人指揮者の動きから、指揮には基本的な七つの動きがあると分析して、例えば瞬間的に腕を振り下ろす動きは強い音というように、言葉で説明しなくても指揮者の意図を伝えるメソッドを確立しました。
実は小澤は語学の才能には恵まれませんでした。「もし自分がイタリア語かドイツ語か、もう少し語学ができたら違ったキャリアを歩んでいた」と話しています。これはオペラのことを指していると思いますが、そんな小澤が世界で武器としたのが斎藤メソッドでした。
小澤は桐朋を卒業しても、友人たちの留学を見送る側でした。1935年に満州で生まれて北京でも暮らし、中国大陸から引き揚げてくると、小澤家は戦後、貧困のただ中にありました。小澤はフランス政府給費の留学試験を受けるものの不合格となり、焦りを募らせます。1ドル360円の時代、外国は庶民からは遠い夢でした。
諦めきれない小澤は、江戸を頼り、財界、友人、親戚から金をかき集め、斎藤からもドル紙幣の束を餞別としてもらい、フランス行きを模索しました。
それにしても、なぜフランスなのか。桐朋の一期生は50人で男性は4人。そのうちの1人が「あの頃、指揮者は留学するなら大教授がいるウィーンを目指した」と言います。ウィーンには、後にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(ベルリン・フィル)の指揮者になるクラウディオ・アバドらを指導したハンス・スワロフスキーという大教授がいたからです。その男性は「江戸京子ちゃんがいたからだ」と証言しました。
江戸英雄は「小澤がパリに行ったら困ることになる」と予感していたものの、助け、金銭的だけでなく三井船舶の貨物船も手配しました。受け入れ学校があるわけでもなく、観光ビザでの物見遊山でした。
小澤は欧州のオケを一度は振りたいと思って受けたブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、カラヤンのコンクール、アメリカのタングルウッド音楽祭でも優勝し、レナード・バーンスタインが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルハーモニックの補助指揮者となりました。
小澤がバーンスタインに肩を組まれて凱旋帰国すると、一挙に成功者と騒がれ、日本で最も伝統のあるNHK交響楽団(N響)で指揮をしたいと考え始めて翌年それが実現するのです。
名だたるドイツ系の指揮者を迎えてきたN響ですから、問題が起こらないはずはありません。この頃のN響は、世界一周ツアーを成功裏に終え、イタリアから歌劇団を呼び伴奏するという楽団始まって以来、一番演奏能力を高めていた時期で誇りに満ちていました。
小澤をN響の指揮者に抜擢させたのは、フジサンケイグループの基礎を作り、日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)を創立した水野成夫だと私は考えています。渡仏前に小澤は日本フィルで仕事をし、日本フィルと文化放送からも餞別をもらっています。水野は「男が憧れる仕事は、連合艦隊の司令官と野球の監督と指揮者だ」という名言を吐いた人で、小澤を息子のように可愛がりました。
小澤はN響を振りたいと水野に訴え、一方で小澤のマネージャーは「小澤のキャリアだったら、政治の介入がなければあり得ない」と言ったのです。
私はこれがN響事件(1962年に、遅刻・ふり間違いで小澤批判が展開されN響との確執が起きた)の背後にあるのではないかと考えて取材を始め、出版ギリギリまで手を入れました。
水野は学生時代、共産党員で『赤旗』初代編集長、逮捕されると獄中で転向し、セゾングループ社長の堤清が芸妓を後妻に迎える時には、まず水野家の養女とし水野家から嫁がせたような親分肌の人間でした。
小澤について、「いつも次の戦略を考えている」とあるコンサートマスターが言っていますが、N響デビューの時には、すでに江戸の義理の息子となっていました。その結婚は、年末年始に帰国して、その間に披露宴を挙げたいという性急なものでしたが、江戸の尽力で小説家・井上靖を仲人に、披露宴には当時の池田勇人首相、政財界、文化界から数百人が集まりました。
小澤は一流志向で、自分が一番でなければという意識もありました。江戸は披露宴で芸術家同士の結婚を憂うスピーチをしましたが、二人の新婚生活は三井不動産開発の原宿の高級マンションから始まり、週刊誌は若き令嬢と成功者・小澤の記事を特集しました。
著書『タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯』出版にあたっては、「小澤征爾の事件簿」「嵐を呼ぶ指揮者」などというタイトルも考えたほど、N響事件以降、小澤が向かうところ何かが起こりました。
N響事件では最初、小澤は悪者にされていましたが、浅利慶太や石原慎太郎の演出が入って週刊文春に「東京文化会館の舞台に一人ぼっちで立つ写真」が掲載されると、一転して世論は小澤の味方になり、若い世代のヒーローとなりました。安保闘争の時代で若者はエネルギーに溢れていました。
そして、何と言ってもヘルベルト・フォン・カラヤンがいなければ、小澤はオペラに向かわなかったでしょう。毎年、ベルリン・フィルに呼ばれ、「たとえ酷評されても、先生は気にせず毎年呼んでくれた」と話していました。
小澤が入江美樹と再婚したのは、サンフランシスコ交響楽団音楽監督就任と重なり、その時、水野はご祝儀のように、それまで日本フィル指揮者だった渡邉暁雄を排除し、小澤を迎えました。
そしてボストン交響楽団音楽監督となった時と新日本フィルハーモニー交響楽団(新日本フィル)創立のタイミングも一致します。
日本フィルがストライキをやったために、水野に替わりフジサンケイグループの実権を握った鹿内信隆が組合運動を許さず、楽団は解散、自主運営となりました。そして、その発表2週間後に小澤は新日本フィルを創立したのです。
小澤が、ボストン交響楽団に29年間も君臨できたのは、日本企業の大きな援護射撃があったからでした。
小澤はオペラに突き進み、松本市で新しく建設された県民文化会館を軸にサイトウ・キネン・フェスティバルを始めましたが、さらにオペラ劇場を望みました。ここでも問題がおきますが、ぜひ本を読んでいただきたく思います。
その芸術館の建設は、ウィーン国立歌劇場音楽監督として音楽界のトップに上り詰めたことが後押しして決定しました。小澤は、カラヤン同様にウィーン国立歌劇場でワーグナーの『ニーベルングの指輪』全曲振ることを望んだものの、叶いませんでした。
最終的に小澤は帰国すると、松本のフェスティバルの総監督として、最後は車椅子に座ってまで指揮することにこだわり、生涯を閉じました。
日本人として頂点を極めたその活躍は、高市首相の言う「世界の真ん中で輝く日本」があった昭和という時代が後押ししたと思っています。これから小澤に続く新しい世代がそうであるよう、財界の方々の援護射撃をお願いできればと思います。
※2025年12月3日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。