重要文化財 氷川丸
〜その歴史、船を動かす人々、そして文化財としての将来〜
2025年4月23日(水)
日本郵船(株)
取締役 日暮 豊氏
氷川丸は1930年、横浜で建造され、生涯に太平洋を254回横断した貨客船で、4月25日に95歳になります。戦前の日本で建造された大型船の中で唯一現存する貨客船で、2016年には国の重要文化財の指定をいただきました。
日本郵船にある取得船リストによれば、氷川丸は257番です。1885年の創業時に三菱会社と共同運輸からそれぞれ29隻を継承した船はいずれも米国、英国などが建造地で、木造船も含まれます。当社が国内造船所に発注した本格的な鋼鉄製の船は明治31年(1898年)の常陸丸で、これが105番、氷川丸より少し小さい貨客船でした。
船を語る上での基本は、ジェネラル・アレンジメント(一般配置図)と呼ばれるものです。煙突をファンネルと言い、船底にエンジン、その上に客室、 前方にブリッジ(操舵室)、客室を挟んで前後に貨物室があります。現在、氷川丸をご覧頂くと客船の側面が中心になっていますが、多くの貨物もまた積み込んでいました。
氷川丸は1930年から1941年までの11年間、延べ1万人を乗せました。北米太平洋航路は、米国・英国の海運会社が航路を持っており、当社は参入に当り、サンフランシスコではなく、当時は小さな港町であったシアトルに寄港し、そこからグレートノーザン鉄道と提携してニューヨーク方面に貨物を届ける航路を開きました。シアトルヘの最短ルートは北極圏に近く、暴風雨が吹き荒れる事で有名な海域のため、氷川丸は通常より厚い外板を用いて、頑丈に作られています。
多くの著名人も乗船されました。チャップリンの乗船は争奪戦で、氷川丸の料理のおいしさが決め手になったそうです。秩父宮親王ご夫妻は英国王ジョージ6世の戴冠式からの帰路にご乗船されました。
我が国の外航航路ですが、明治初年(1868年)合計843隻の外国船が入港しています。英国がその半数強、次に米国船でした。創業当初は沿岸航路と上海、天津、仁川、ウラジオストク等への近海航路から出発した当社ですが、明治26年(1893年)に初の遠洋航路をボンベイとの間で開設。その3年後の明治29年(1896年)、欧州、シアトル、豪州との航路を設置しました。氷川丸は30年余りの外航サービスの歴史の中で投入されたことになります。
日中戦争、太平洋戦争を受けて、多くの航路が休止に追い込まれます。氷川丸も1941年7月最終航海となり、シアトル航路は休止となりました。その後、10月には引揚げ船として、往航は日本在留の外国人を復航は海外在留の日本人を乗せて、横浜/シアトルを往復しました。
その後、海軍の特設病院船として戦地と日本を往復し、終戦までの3年半、 24航海、約3万人の戦傷病兵を輸送。任務中に戦闘機の機銃掃射や急降下爆撃機の空爆や機雷への接触等に遭遇しましたが、他船に比較し、厚い銅板で頑丈に出来ていたお蔭で、沈没を免れました。
舞鶴で終戦を迎えると、9月15日より翌1946年8月15日まで旧海軍である第二復員省に傭船され、2万人の復員兵を運びました。その後、大陸から一般邦人の引き揚げの輸送に従事して4航海で8000人を運び、1947年1月12日に任務を終えました。
1953年7月28日に、12年ぶりにシアトル航路を復帰し、初出航しました。その後、年間7航海し、フルブライト留学生等、多くの方々が氷川丸で海を渡りました。しかし、飛行機の発達や氷川丸も船齢30歳を迎え、引退する日を迎えました。1960年8月27日、最終航海の横浜出帆には大勢の人が氷川丸の最後の雄姿を見ようと横浜港に駆けつけました。
氷川丸は、素晴らしい客船であると同時にたくさんの貨物も積み、我が国と海外諸国の交易にも貢献しました。私自身、この貨物艙を初めて見た時に、貨客船であることが圧倒的な現実感を持って迫ってきました。客船の側面だけでなく、この貨物艙も一般にご覧いただけるようにしたい。それでこそ、当社の現在につながる氷川丸の正しい展示であり、また未来に残していく意味がある。そのように感じました。
次に、氷川丸を動かしてきた船員についてお話しします。船は船長以下、航海と貨物を管理する航海士と、エンジンと機器類の取り扱いと整備を行う機関長、機関士、通信業務を担う通信士がおり、その下で部員と呼ばれる船員が乗っています。
氷川丸は乗船乗客対応の船員も乗っていましたが、そうではない荷物だけを運ぶ場合、運航、貨物管理の船員が乗員となります。貨物船への乗り組み人数の変遷を見ると、氷川丸が現役を引退した1960年頃は約45名で、1980年頃までには20名強という現在と同じ人数となりました。コンテナ化、専用船化、機器の自動化、昔は荷物と共に船で届けていた船荷証券が荷物の到着前に航空郵便で送られ、陸上業務に移った事等様々な要因があります。
それと共に、日本人船員を巡る外部環境に大きな影響を与えたのが、1985年のプラザ合意です。1ドル=250円が、lドル=150円になり、日本人船員の国際競争力に大きな変化が生じました。1974年に日本の外航船員は5万9000人だったのが、1985年には3万人、1990年には1万人、2021年には2000人となっています。
当社は、日本人船員の国際競争力低下という問題に対応するため、フィリピン・マニラ近郊に商船大学を作りました。2007年に開校し、2024年7月までに累計1551名が卒業しました。彼らが、そして3年後からは女性も加わり、日本郵船グループの安全品質を支えてもらうことになっています。
船員を語る時に触れなければならない事は太平洋戦争での戦没船員です。全国で6万人で、その戦死者比率は非常に高く43%です。世界のほとんどの軍隊で海上輸送を担うのは海軍ですが、我が国では「陸軍の兵隊は陸軍が自力で運ぶべきであり、その間に海上で戦闘が発生するならば、護衛は吝かではない」という整理で、多くの民間の船が徴用され戦地に向かいました。毎年、観音崎にある殉職船員の碑で、追悼行事が日本殉職船員顕彰会により行われています。
当社は、『日本郵船戦時船史』を昭和46年に纏め、戦没した船一隻一隻について、その最後と、乗船されていた船員のお名前、殉職された方について記録しています。太平洋戦争中に181隻の船を失い、社員・派遣者、合計4717名を失いました。氷川丸の姉妹船・日枝丸の沈没前に、乗員は当社の豪華客船であった新田丸を改装した航空母艦「沖鷹」に移り帰国を目指しましたが、「沖鷹」もその後轟沈、お一人を除き、全員が戦死をされた事等が記載されています。
船員は陸上の業務とは異なる環境で働くために、陸の労働基準法に相対する船員法が制定されています。その船員法は、国際的な船員の安全等、様々な国際条約の国内法の位置づけです。ここで触れたいのは、海上警察法的性質です。
船員法の第二章 紀律 第21条(船内秩序)がありその中に「船から物品を持ち出さない、乱酔その他粗暴な行為をしない」といった条文を書く必要はなぜあるのでしょう。この条文は、明治12年に英国のMerchant Shipping Act 1854年(MSA1854)の規程を輸入しています。開国と富国強兵の中で、当時は様々な人を集めて船員にした歴史があると思われます。その後、幾度か見直しの機会があったようですが、現在にいたるまでこの条文が残っています。
当社は、近い将来、何等かの船員法の見直しの機会に、この問題を取り上げるべく、学者・弁護士に入って頂き、歴史の確認と法律の建て付けの観点から、最近、整理を行いました。
範を取ったMSA1854では船員の品性・資質に対する悪評を背景として非違行為の多数を列挙し、それらに罰則を科す形で取り締まっていましたが、英国では1995年にこの列挙の方式が完全に廃止され、職務上の義務への違反、アルコール等の影響下で船舶や人命を危険にさらす行為、他の船員と共同しての命令不服従等のみに罰則が科される形に整理され、それにより船員に対する長年の偏見が除去されたと考えられています。この問題を日本で実際に世に問う時が来た際には、ご賛同を頂ければと思います。
さて、数奇な運命をたどった氷川丸に現役引退後の役割が生まれました。神奈川県と横浜市の要望により、氷川丸を横浜のシンボルとして山下公園に係留し、海事、海洋思想普及のための海の教室と宿泊施設を兼ねた観光船にするものです。プロペラと舵を横浜造船所で外しましたが、現在に至るまで氷川丸は海に浮いている船として存在しています。
重要文化財への指定を含め、実に多くの方々の努力、経費、そして幅広い社会のご支援の賜物です。現在、当社では氷川丸が100歳を超える2030年以降の保存の在り方について、抜本的な検討に入っています。古船を残す技術は国内のみならず世界に様々に存在しているため、これを調査しています。
最後に、船と英語について触れます。
船のことをよくSheと呼びます。Sheが船の上で使われる用例として、『海の英語』著者の佐波宣平氏は、太平洋戦争でのアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官であるNimitz氏の説明を紹介しています。
“A ship is always referred to as “she” because it costs so much to keep one in paint and powder” (紅、おしろいにたくさんカネをかけて、いつも飾り立てておかなくてはならぬ点で、船と婦人とは共通しているからだ)
真偽はともかく、当時は簡単に連絡も取れない大切な人を思って仕事をしていた、誇り高いSeamanが英語に残した伝統なのだろうと思います。
※2025年4月23日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。