書の社会性への模索
2025年7月9日(水)
書家・立正大学文学部
特任教授 根本 知氏
書道が世の中にどのような貢献ができるのか、もしくは意味のあるものなのか、悩みながら活動をしています。
去年のNHKの大河ドラマ、吉高由里子さんが紫式部を演じた「光る君へ」の題字を書きました。はじめは書の時代考証としての参加でした。平安時代の巻物や写本にある変体仮名の知識を必要としたためでした。
今のひらがなは、安の字から「あ」が成り立っていますが、当時は、阿、愛、悪など、“あ”から始まる言葉のどれを使って表記してもよく、書体が様々変わるため変体仮名といいます。江戸時代までそれを使っていたのは、自分の思いを一つに絞ることなく様々な文字で呼吸や歌などを表記したかったからです。
日本書道の博士号を持ち、教育者で俳優への指導ができ、そして書の時代考証ができるということで私に連絡が来ました。平安時代の文房具について聞かれ、そして「吉高由里子さんを紫式部にしてくれ」と言われました。
困ったのは、専門ではない源氏物語を理解しなければならないことでした。
吉高さんは、興味を感じたらとても熱心になる方で、2年間、毎週、仮名を教えました。疲れている時には稽古はやめて源氏物語の話をすると面白がってくれました。
私が「仮名文字は実はニッチな分野で、書道家の中でも選択する人がいないんだよ」と話すと、「じゃあ伝えたいんだね。私が書いたほうがより視聴者に伝わるだろうから」と、左利きなのに右に筆を持ち替えて書くことを頑張ってくれたのです。
私がひたすら吉高さんに平安の美について話す様子を見た広報プロデューサーが「あなたはとても話せるんだね。来年、放送が始まったら講演会などをしてみたらどうか。時代考証だけでは外に引っ張り出しにくいため、題字を書けるかどうか上に掛け合ってみましょう」と話してくれました。
そして、脚本家の大石静先生とチーフ監督の中島由貴さんが力を添えてくれ、大河ドラマ史上初めて、外部の作家ではなく、ドラマスタッフが題字を書くことになったのです。脚本を読み、一生懸命、書道指導に取り組んだことが報われました。
題字は、縦組みと横組みで同じ書風を使い、吉高さんの映像に組み合わせる形で書きました。
本来の仕事では、例えば一条天皇が古今和歌集の巻物を見るシーンで1.5秒映る巻物を3時間かけて書きました。藤原行成という平安時代きっての能書家の字をたくさん真似て型を自分に下ろして書きます。古今和歌集は残っているものの脚本に出てくる場所は散逸されて残っていないため、他の部分の文字を集めたりして復元し、自分で一気呵成に書く。越前和紙は貴重ですし、「明後日までにお願いします」と平気で言われるため、ほとんど寝れませんでした。書くシーンや巻物などを見るシーンの撮影では、仮名文字の向きや書き順をカメラ前で指示する仕事もしました。
漢字も書きました。当時の漢字は、今の習字で習うような書き方ではありません。横線はスー、トン、ぬるっと入って右で止まり、陽と陰を表すと言われています。中国は起承転結で始めと終わりで止まり、コントラスト的な陰と陽を重んじますが、日本はスートンという間を重んじます。ちょっと柔らかいもちっとした書風が特徴です。
ここに漢字の書家を招くと中国書法で書かれる危惧があり、プロデューサーと脚本家は日本の書法の専門家を探したのです。
京都には仮名の書家が多くいますが、東京までの交通費がかかりますし、団体書道の方しかいません。「上下関係がしっかりとした組織の方を選ぶと、人選や依頼を内部でその都度確認をとったりするため時間がかかりドラマの現場は動かなくなる。フリーでかつ博士号を持っていて書道指導ができる人はあなたしかいない」という話でした。
私の専門分野にそれほど人材がいない理由は、見映えが大きくない、派手ではないためパフォーマンスに向かないからです。私はチャンスを得たとともに、これをどうやって世の中に伝えていけばよいのだろうと悩みました。
私は片親で育ち、母はスナックを経営しており、ほとんど祖母に育てられました。祖母は与謝野晶子が現代語訳した源氏物語をよく読んでいました。源氏物語は訳す人によってずいぶん物語が変わります。古文は、例えば「花は咲いたか」という言葉があれば、「花は咲いたのでしょうか」と疑問形で終わってもいいのですが、「いや、咲かない」と反語で捉えることもできるのです。そうすると、物語の流れ上、「これは否定しておくべきか。否定しているけれど、心は否定していないのではないか」という訳が広がります。作家によって、そのまま訳すと無機質になるところをロマンチックに描いたりするのです。与謝野源氏は情緒豊かなのだと、祖母はよく言っていました。
中学時代、塾をサボっていたら、母が家庭教師を連れてきました。実は書道家で家庭教師はアルバイトでした。書道を教えてもらうようになり、中学3年の時、仮名文字で日本武道館会長賞をいただきました。先生の勧めで書道学科を新設する大学の附属高校に進学し、書道部で3年間過ごし、仮名書道にどんどんハマっていきました。そして、大学の書道学科に進みました。
書道学科に行くと、悩みが1つできます。自分の先生に褒められた作品を学校に持っていくと派閥が違うために全部バツがつけられる。学校で褒められたものを先生に持っていくと、「お前、染まりやがって」とバツをつけられる。正しい書道とは何なんだろうかと悩み、辛くて辞めたくなりました。
そんな時に声をかけてくれたのが、東京国立博物館の元美術課長・古谷稔先生でした。
研究室に行くと、床の間に一休宗純の墨跡(僧侶の書)の複製が掛けてあり、どう思うかと聞かれ、「下手すぎて、足でも書けそうですね」と言いました。古谷先生は笑いながら「だよね。これ本物だったら国宝だよ。下手でも国宝、つまり日本における美とは、見た目だけではないからな」と言われました。「書は時代を映す鏡であって、書を見れば、その時代はどのような美意識を持っていたか、どういう政治が動いていたかがわかる。お前、美学をやらないか」と誘われました。
すっかり陶酔し、風神雷神図を描いた俵屋宗達を育てた日蓮法華宗の大芸術家・本阿弥光悦に出会い、光悦にどんどん片思いをして、最終的には博士号を取りました。書は人であり競い合うものではないことを明治以前の書道から学びました。
では、なぜ今競い合っているのか。戦後、アメリカやフランスから言われた「アートという概念に行かなければならない、先進国にならなければいけない、賞レースにしなければならない」という枠組みがあるからです。私は大学で技術を学んだためこれを否定できませんが、私がやりたいことは日本文化なのだと思い、博士号を取った年、お世話になった先生に「賞レースを辞めます」と言いました。書道団体からいただいていた仕事を全部返納することになり、30歳でニートになりました。
そこから、本阿弥光悦が愛していた茶道に向かい、様々なご縁が紡がれて、今ここにいるわけです。
茶道の方々に、本当にお世話になりました。その折も、今までの書道界とは違う知識が欲しいという受注が多かったため、仏教や歴史の本を読み、書道ではない勉強をたくさんし、皆様に感化しながら、手で文字を書くことの大切さについて話してきました。そして仮名文字とはお別れしたつもりでいたのにNHKから電話があり、今までのマニアっぷりが使われることになりました。
題字揮毫にあたっては、広報プロデューサーからアドバイスをもらいました。「あなたが勉強していたことは専門的で話が難しい。時代には潮流があり、その流れにうまく乗れるものは売れます。軽いから上に上がってくるからです。しかし軽いだけではいなくなる。長く自分の専門を持ってメディアとも関わっていきたいなら、海底に重たいものを持って沈み、そして、一つだけ軽いものを持って時代の潮流に出てきなさい。錨が下ろされているため、ぐるぐる動きながら消えることなくずっと活動できる。重たいものを軽くすることが大事だ」
そして、「あなたは仮名をやっていて、一番伝えたい甘露の一滴は何ですか」と聞かれました。「細い線のピーンと張ったような、筆先『命毛』を使う表現です」と答えました。そして「光」という字の最終画に命毛を使った仮名の線を入れる試みをしたのです。メディアのトップで活躍された方が、私みたいなマニアな専門家を表に出すために考えてくれた文字です。
仮名は音楽です。「和歌ですから、歌を歌うように書くんですよ」「楽譜みたいなものですよ」と吉高さんにも言いました。私はちあきなおみさんが大好きで、題字も『伝わりますか』という曲を聴きながら書きました。ちあきなおみさんには、いつまでも声が聞こえるような雰囲気があります。それは筆の毛先一本だけで表現する仮名の線の理想ではないかと思います。
私は平安の仮名だけではなくて、安土桃山、本阿弥光悦が専門ですが、去年は軽やかさで活動し、平安につながりたいという思いで私の作品を求めてくださる方向けに、展覧会『源氏物語を書く』、『私の仕事展』を行いました。今年の神田祭の題字も書かせていただきました。これが社会性だと思います。
先日は、銀座三越で『flow』という展示をしました。平安の心の形はひも状です。ほつれるし、乱れるし、結ばれる。仮名文字を読んでもらうのではなく、恋の歌に代わって絡まり合うことを感じてもらう作品としてニューヨークで発表したものを展示しました。私は仮名の重たいものを持っていますが、日本の文化、社会と手を携えながら、その魅力を伝えていきたいと思っています。
※2025年7月9日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。