卓話


江戸市政と人々の暮らし

2025年3月12日(水)

(大)東海国立大学機構 岐阜大学
名誉教授 森田晃一氏


 平成15年(2003年)に「江戸ブーム」が巻き起こりました。江戸開府400年、慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任官してから400年、都内各所で記念事業が行われ、様々な人びとがこれに参加しました。これを戦後の第2次江戸ブームと考えています。このブームは一過性に終わることなく、近世都市・江戸に関心を抱き続ける人びとが今も存在しています。

 近代化やグローバル化といった時代の荒波に揉まれ、閉塞感に包まれた現代を生きる私たちは、現代社会の基層ながら異なる価値観の下にあった江戸に関心を抱き、見直しを行っていると言えるのではないでしょうか。

 近世都市・江戸の実証的な歴史研究は、京都の歴史研究に刺激を受け、50年ほど前から西山松之助先生を中心に精力的に進められてきました。これは多くの人びとに影響を与え、これを機に第1次江戸ブームが起こりました。

 その後、三都(京都・大坂・江戸)と地方都市の研究が深化し、組織的、継続的かつ広範な歴史研究の下に、第2次江戸ブームが到来したと捉えています。

 今日は、積み重ねられた研究成果に学びつつ、近世都市・江戸の「環境保全」に関わる歴史的な事実のいくつかを紹介していきます。

 徳川家康は天正18年(1590年)江戸に入府しました(「江戸打ち入り」)。当時の江戸は太田道灌(扇谷上杉家の家老)が建設した江戸城(長禄元年〈1457年〉築城)が残り、城外は葦が生い茂って家が点在する寂れた漁村だったと考えられていましたが、近年は研究が進み、関東の中心に位置し、相応の発展をしていたと見解が改められています。

 上に述べたように慶長8年(1603年)、家康は将軍宣下を受けて江戸に幕府を開きましたが、その前後では城下町としての意味合いに変化が見られます。任官前は豊臣政権の一大名としての城下町建設でしたが、任官後は「天下普請」、全国の大名を動員した「天下の総城下町」づくりが行われていきます。

 江戸は臨海部に大規模な埋め立てを行ってきました。地形の特徴から山の手と下町(海手)に分けられます。山の手は武家、下町は町人の住む空間としてよく知られています。1つのブロックを京間60間四方とし、中央の20間四方の土地を会所地としています。道路を挟んだ両側町を基本とし、京都を模してプランが立てられたとされています。

 近世都市・江戸は、時代が下るに従い、巨大都市化していきました。例えば、寛永期(1624〜45年)の人口は推定約15万人で、これは町人の数になります。寛文期(1661〜73年)は約35万人、1657年の江戸最大の火事「明暦の大火」を経て、やがて「大江戸」が形成されていきます。享保期(1716〜36年)8代将軍徳川吉宗の時代になると約53万人になり、それ以後、農村の人口を保つ必要もあって、幕末まで人口はほとんど増加しませんでした。

 武家の場合は参勤交代があり、その都度人数が変わるため武士人口は正確には把握できませんが、町人に武士を合わせると100万人を超える世界最大の都市が形成されていき、その総町数は1678町を数えています。「大江戸八百八町」というのは大きな数という意味で、実数はこの2倍以上になっていました。

 この巨大な近世都市・江戸の町支配は、町方役人と町役人が担っていました。  町方役人は、町奉行所に町奉行―与力―同心、そして小者、これは岡っ引のことです。町奉行は北と南に1人ずつ、与力は25人、25騎ずつ。元は馬に乗る職だったため「騎」で表します。そして同心が北と南で100人ずつ、合わせて大体250人ぐらいで町人50万人を治めていました。改革政治の時には少し増員し、享保の改革の時には北町奉行所と南町奉行所の間に中町奉行所が設置されています。南町奉行で有名なのは、将軍吉宗の側近として活躍した大岡越前守忠相、その約100年後、北町奉行で有名なのは遠山左衛門尉景元です。

 奉行所の政策遂行は、私たちが想像するような一方的なものではありませんでした。町方から起こされる訴訟に関しては、北と南で綿密に連絡を取り合いながら判断していました。私が今、話題にしている古着・下肥(糞尿)やごみの処理などを含めて、町奉行所と町人たちが互いに方策を立て合いながら、仕組みを整えていったと捉えていいと思います。

 町役人は、徳川家康に縁のある町年寄が3人いて、その下に町名主が250〜300人いました。最大で1678もの町があったため、町名主は1町のみでなく、数か町を支配する専任の職でした。各町では家主(大家)が長屋に住む人びとの面倒を見ていました。この支配機構を、町支配の要である町触の伝達経路で見ると、町触は町奉行所から町年寄に伝えられ、それが町年寄の役所で町名主に、さらに町名主から各町の家主に伝えられました。こうして家主へ伝達された町触は、家主から地借・店借へ読み聞かせるなどして周知徹底が図られました。

 それではリサイクルに関して、古着を取り上げてみます。江戸時代の衣類は耐久消費財の扱いでした。絹の他に木綿もあり、木綿の場合でも洗い張りや仕立て直し、繕いを繰り返し、さらに布団に再利用し、最後は雑巾になってごみとなりました。『守貞謾稿』には、富沢町と橘町の古着屋に関する記事があり、毎朝、晴天の日には道路にむしろを敷いて古着を並べ、店も開けて午前10時過ぎには閉店すると記されています。夜中から営業が始まっていました。

 富沢町・橘町の2町の他、筋違橋から浅草橋にいたる神田川南岸の土手に柳の木が植えられている場所も有名で、「柳原物」と言えば古着を意味したそうです。

 古着商に対し、万治2年(1659年)、天和4年(1684年)、元禄14年(1701年)、享保8年(1723年)と町触が出されています。古着は財産の1つでもあったため、盗まれると詳細な記録が町奉行所などに提出されました。古着商の統制や、盗品・遺失品が商品に混じることを防ぐため、特に未明に取引が行われて盗品が流通することを防ごうと、こうした法令が整備されていきました。

 リサイクル商全体の数は1万人を超えています。江戸の町人人口を50万人とすると約2%が質屋・古着・古道具・古鉄関係を商う人びとだったということで、いかにリサイクルが生活の基盤にあった社会かがわかります。

 次に、下肥は近郊農村で使用する有用な肥料でした。大名や旗本の屋敷、大店や長屋の共同便所などから汲み取っていました。武家方では特定の農民、その武家と特別な関係にある農民が掃除権を得て汲み取りを独占していました。

 町方では有力農民が個別契約で汲み取っていました。町方の場合には下肥が家主の収入だったことも注目すべき点です。重要な肥料だった下肥は商品化し、流通組織が整えられ、問屋も出現しました。そして下肥値段が上昇したりしていました。寛政元年(1789年)には、下総・武蔵の1000を超える村々が幕府に下肥値段の引き下げを求めて訴願運動をしたこともあります。

 最後に、江戸の塵芥処理と「環境保全」、そして景観へとつなげます。
 塵芥とはごみのことです。17世紀中頃の江戸のごみは現在とは異なるものの、道路の補修、川や下水、空き地に捨てられるなど問題化していました。

 順次法令が整備され、収集し、運搬し、処分するという基本的な処理方法が確立していきます。具体的には、�‖腓瓦澆燭瓩鮴瀉屬垢襦↓�特定の請負人が運搬・投棄する、�1並綸隋覆里舛鳳枌翕腓乏搬隋砲房里討襦↓つ�が請負人への支払いを負担する、こうしたルールが決まっていきます。

 そして株仲間も結成され、市中のごみを独占処分していきます。また近世都市・江戸には裏店にしか、ごみ溜めがありませんでした。表通りには美観を損ねるようなものは設置しないということです。将軍の日光社参、朝鮮通信使の来日、東叡山主の浅草寺御成など特別な場合には、道筋の清掃と風の吹く日の水打ち等々が命じられ、民衆の意識・行動として定着していきます。

 近世都市・江戸の景観の美しさについて触れます。「鎖国」の時代に江戸を訪れた外国人は限られますが、外国人としての視点から日本を評価し、街路の清らかさ、景観の素晴らしさを指摘しています。1609年上総に漂着したスペインのフィリピン臨時総督ドン・ロドリゴは「街路は清潔で、誰もまだ歩いていないようにきれいである」、幕末の駐日イギリス公使オールコックは「きわめて清潔であって…わたしがかつて訪れたアジア各地やヨーロッパの多くの都市と、…気持ちのよい対照をなしている」(1859年)、同じくイギリス人プラントハンターのロバート・フォーチュンは「城に近い丘から展望した風景は、ヨーロッパや諸外国のどの都市と比較しても、優るとも決して劣りはしないだろう。それらの谷間や樹木の茂る丘、亭々とした木木で縁取られた静かな道や常緑樹の生垣などの美しさは、世界のどこの都市も及ばないであろう」(1863年)と感嘆しています。

 近世都市・江戸は時代に規定された様々な制約の下(例えば、近代化やグローバル化への本格的な歩みは明治以後のこと)、幕府と民衆がそれぞれの立場から対応を試みながら、今日でいう「環境保全」の仕組みを作り上げてきました。その結果が一例として、外国人たちが称賛する景観の美に実を結んでいるのだろうと思います。

 タイパ・コスパに重点を置きがちな現代、少し立ち止まって、私たちの歩みを振り返ってみることは、別の観点を加えて未来へと踏み出す良い契機になるのではないでしょうか。


    ※2025年3月12日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。