卓話


忘れられた国策とパラグアイ移住の物語

2025年2月5日(水)

上田八木短資(株)
特別顧問 上田善久君


 東京ロータリーの皆さんは戦後の発展に深く関わられた方々ばかりなので、本日のスピーチのテーマ選びに悩みました。そこで少し意外なテーマ、戦後日本が国を挙げて取り組んだにもかかわらず現在では忘れ去られてしまった「海外への集団移民政策」についてお話しすることにします。

 「移民」と聞くと、昨今の海外からの移民受け入れ論議や、戦前の満州開拓移民が思い浮かびますが、戦後の日本は国内農家の集団での海外移住を強力に推進しました。農村部の過剰人口を解消し海外で新たな生活基盤を築くことを目的としたこの政策には、多くの挑戦や努力の物語があります。

 私は昭和30年代、神戸港から次々と移住者が旅立っていた時代に阪神間で育ち、その後、神戸税関長在職中には神戸港で船の出入りを日々窓越しに眺め、さらに南米の地パラグアイに大使として赴任した際には、移住者の方々が現地に根付き、現地社会の一員として活躍している姿を目の当たりにしました。こうした経験を持つ私にとって移住の物語には特別な思いがあります。

 日本の海外移民は明治維新前後のハワイ労働移民に始まり、北米移民が増えていきます。しかし20世紀に入り移民排斥運動が激化、日本政府は新たな移住先としてブラジルを選び、明治41年に最初の移民船「笠戸丸」が神戸港を出航、移住者たちは現地での過酷な労働環境に耐えながらも次第に自営農家や商業の分野で成功を収め、しっかりした日系社会が形成されました。ちなみに昭和5年第一回芥川賞受賞作の石川達三『蒼氓』はこの時代のブラジル移民が主題で、神戸港出航前の研修で数日を過ごした神戸国立移民収容所の風景から始まっています。

 昭和11年にブラジルが日本人移民を禁止したため隣国パラグアイが新たな移住先になり、首都アスンシオンから南東130キロの土地にブラジル入植経験を持つ4家族が農業指導者として入ります。その後の移民たちの勤勉さや現地の人々の協力により原生林は大豆や小麦が実る農地へと変貌しました。

 この移住事業は戦争勃発で中断されましたが、敗戦後、農村部の過剰人口が深刻な問題となる中で1952年の独立回復を契機に政府は本格的に移住政策を開始し、昭和30年代には年間5,000人、総計7万人もの移住者が夢を抱いて新天地を目指しました。移民船が続々と出航する神戸港や横浜港の波止場での盛大な見送り風景を当時のニュース映画で見た方もおられるかと思います。

 この政策を推進した政府は移民社会への経済的・技術的支援を惜しまず、パラグアイの入植地も増え、農業以外の商業や金融といった分野でも成功を収めて両国の架け橋となりました。

 2016年は「日本人移住80周年」、私自身も記念事業に関わり、パラグアイ大統領や各界の著名人が参加した記念式典には眞子内親王殿下をお迎えしました。また移民を迎え入れたパラグアイへの感謝を込めて日本文化紹介の各種イベントを開催しました。この一連の事業を通じて日系社会の存在感や現地社会から受けている敬意を改めて実感しました。

 移住政策には影の部分もありました。ドミニカ移住では「カリブの楽園」と信じた土地が不毛の荒地で多くの移住者が苦難を味わい、現在でもその傷が癒えていません。パラグアイでの成功例と合わせて、政策の光と影の両面をしっかりと記憶に留めることが、移住者を送り出した私たちの責務だと思います。

 この壮大な移住事業の全貌を知るには、横浜の「JICA海外移住資料館」や神戸の「海外移住と文化交流センター」(旧国立移民収容所ビル)の訪問をお勧めします。展示されている当時の文書や道具類、写真・映像記録などを通じて移住政策の歴史を詳しく学び、その壮大な事業を実感することができます。

 来年2026年はパラグアイ移住90周年。この機会に現地を訪れて日系社会が築いてきた奇跡の物語を自ら体感してみてください。この政策の成功と失敗の両面を学び、未来の日本と世界との関わりを考えるきっかけにしていただければ幸いです。