卓話


歌舞伎がユネスコ無形遺産になるまで

2026年7月29日(水)

松竹(株)
顧問 岡崎哲也氏


 我が国の古典的芸能である歌舞伎は1603年、京都で出雲の阿国という女性によって始まりました。ようやく平和な江戸時代が訪れ、エンターテインメントをお客様が楽しむという時期に、阿国が木戸銭をいただいて踊ったのが初めと言われています。

 その後、女性の出演が禁じられて女形が生まれ、元禄の頃になると、江戸ではスーパーマンのような荒事、上方では和事という心中・恋愛物という異なるスタイルができました。18世紀になって東西の様々な要素がミックスされて、1713年、有名な市川團十郎による「助六」が初演され豪華絢爛たる最大のエンターテインメントになりました。

 18世紀には「京鹿子娘道成寺」など、女形の絢爛たる美しい舞踊が発展し、19世紀には、歌舞伎十八番の「勧進帳」、「白浪五人男」、「弁天小僧」などが生まれて大変ポピュラーな演目になっております。

 明治になり歌舞伎にとって最大のプラスは、明治新政府が歌舞伎を大事にしてくれたことです。江戸っ子に大変冷ややかな目で見られていた薩長土肥の皆様に、歌舞伎を国劇にしてしまえば江戸っ子も収まるだろうという精神性がありました。

 1879年、第18代アメリカ合衆国大統領グラント将軍が東京で歌舞伎を観ています。グラント将軍の南北戦争の武勲を平安から桃山の時代に直して芝居にしたもので、渋沢栄一が外交のために企画したものでした。

 そして歌舞伎が一気に国劇になるのが1887年、史上初の天覧歌舞伎です。伊藤博文の盟友・井上馨邸で、初めて天皇陛下が歌舞伎をご覧になり、今と同じ場所に第一期の歌舞伎座が誕生しました。

 さて、外国との関わりといえば、1911年の帝国劇場の開場です。フランス式の外観の初の西洋劇場で、渋沢栄一が会長、福沢諭吉の娘婿である福沢桃介が取締役という陣容でした。1922年には、国際的なバレリーナ、アンナ・パヴロワが来日して「瀕死の白鳥」を舞い、当時花形最高の人気者だった6代目尾上菊五郎が自分の芝の屋敷へ招いてお茶などを振る舞っています。

 そして、歌舞伎が初めて海外公演を行ったのは1928年のソ連で、建国10周年記念で、2代目佐團次が歌舞伎十八番の「鳴神」や「仮名手本忠臣蔵」を演じ絶賛されました。映画監督のエイゼンシュテイン監督が観劇し、歌舞伎の見得(ストップモーション)に感銘を受け、「戦艦ポチョムキン」、「イワン雷帝」などで大群衆を動かしておきながら、パッと次の瞬間に人の顔のクローズアップになる映像手法を着想しました。

 1932年、人気者のチャップリンが初来日で歌舞伎座に来て、6代目菊五郎、初代中村吉右衛門の「忠臣蔵」などを見ています。また1936年にも歌舞伎座を訪れ、15代目市村羽左衛門、7代目松本幸四郎らと交流しています。

 1936年には、ジャン・コクトーが慶應大学教授・堀口大学の案内で6代目尾上菊五郎の「鏡獅子」を観ています。ジャン・コクトーは楽屋を訪れて大変感銘を受けたと言い、握手をしようと菊五郎が手を出すと、「いや、あなたが白粉を塗っている間は獅子であるから、私は触れない」と言って、写真を撮るために握手をするふりだけはしたようですが、名人、名人を識るでした。ジャン・コクトーは映画「美女と野獣」を、この鏡獅子から着想したと言われています。この頃はヨーロッパやアメリカと歌舞伎の文化交流が盛んでした。

 ただ、残念なことに戦争になってしまいました。これを何とか戦争にしまいと思ったのが、外務省高官だった、後の首相吉田茂です。吉田茂は当時の内閣、特に陸軍とぶつかって、昭和11年に駐イギリス大使としてロンドンへ追い払われました。しかし、ただでは引っ込まない人物で、松竹の社長・大谷竹次郎、6代目菊五郎に「この天下の鏡獅子をロンドンへ持っていきたい。そしてこれをイギリスの皇室に見せて、日英同盟以来のイギリスとは戦争をしない形に持っていきたい。平和外交に使いたいので、宣伝用のフィルムを撮ってくれ」となりました。昭和10年6月、鏡獅子を菊五郎が歌舞伎座でひと月踊っている時の2日間、深夜11時から翌朝にかけて撮りました。松竹の看板監督、小津安二郎が撮ったこの映画は六代目菊五郎の舞踊を今日に伝えるただ一つの大変貴重なものとなりました。

   残念ながら、吉田大使の願いもむなしく、公演は実現しませんでした。その代わり、1990年に中村勘九郎(当時)がロンドン公演を行い、祖父の念願だった鏡獅子を踊っています。

 1939年、日本では2代目市川猿之助の舞踊劇「黒塚」の振りにロシアのバレエの動きが入ります。3代目市川猿之助がスーパー歌舞伎を作ってもう30年になりますが、そのルーツは祖父の2代目猿之助にあり、この人は明治末年に左團次とヨーロッパへ演劇視察に行っています。この頃は音楽や振り付けにヨーロッパの要素が入ってきました。

 その後、戦争になり、1945年、第三期の立派な歌舞伎座は空襲で焼失しました。ようやく1949年に地鎮祭を行い、51年に復興新開場できました。

 昭和30年代になると、ようやく国際交流が復活し、1959年に、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン夫妻が6世中村歌右衛門の楽屋を訪れています。この時の「桜姫」という芝居は、監修が三島由紀夫、演出が久保田万太郎という当時最高のスタッフが作った舞台でした。

 その翌1960年、歌舞伎は初めてアメリカへ行きました。ようやく平和時のアメリカへ行ったのですが、1960年、安保の年です。アイゼンハワー大統領が来日できないなど政治的に大変ぎくしゃくしたなか、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコで公演しました。

 歌舞伎はアメリカでは初めてですから、全く知られていませんし、シティセンターという中規模の劇場での上演でした。しかもブロードウェイはストライキで、お客様が来るか危ぶまれましたが、初日が開いた時にニューヨークタイムズのアトキンソン――当時アトキンソンがバツと書いたら3日でブロードウェイミュージカルも不入りになるというほど怖い力を持った劇評家が、「暗黒の中に一筋の光を示すもの、それは日本から初めて来た歌舞伎である。必ずアメリカ人は歌舞伎を見なければいけない。歌舞伎を見ると日本が理解できる」と劇評を書いてくれ、翌日から大入りになりました。

 ゲーリー・クーパーやグレイス・ケリーのような大スターも絶賛し、これが戦後、歌舞伎が欧米に本格的に打って出た第一歩となりました。

 その翌36年、ソビエト公演です。歌舞伎は劇場内に花道がなければできないのですが、花道を作る前に全部切符を売ってしまっていたため、切符を回収して細い花道を仮設で作り、「連獅子」を上演しました。

 1969年、ヒッピー全盛の頃のアメリカでも公演しています。「熊谷陣屋」という源平戦記の悲劇的な話がベトナム反戦運動と非常にリンクし、若いお客さまが沢山この歌舞伎を見に来て、話題となりました。

 中国には1979年、国交回復後の中国公演もとてもうまく行きました。

1 982年にはアメリカのメトロポリタン歌劇場に4000人の観客を一週間集め、大成功しました。6世歌右衛門と17世勘三郎が座頭をし、ホワイトハウスにレーガン大統領を表敬訪問しています。

 以後、ソ連、アメリカ、カナダ、フランス、東西ドイツ、オーストラリア、イタリアなどで公演しています。

 無形遺産へのスタートになったのは、1997年のボルドー、パリ公演です。当時77歳の4世中村雀右衛門、68歳の5世中村富十郎の「二人椀久」という舞踊が絶賛されました。ボルドーの初日に、アラン・ジュペ元首相、当時駐フランス大使だった松浦晃一郎氏をお招きすると、松浦大使は大変感動したと話されました。その後、ユネスコの事務局長になられると、日本の人間国宝、重要無形文化財制度から発想した、ユネスコ世界無形文化遺産を創設されました。

 そして2005年、歌舞伎はユネスコの「人類の口承及び無形遺産に関する傑作」(世界無形遺産)に登録されたのです。翌2006年に満員御礼の歌舞伎座の幕間の舞台上で、松竹会長の永山に松浦事務局長から認定証が渡され、俳優代表として7世中村芝翫さん、4世中村雀右衛門さんが列席しました。雀右衛門さんは特にボルドー、パリで松浦さんにお目に掛かっており、感無量だったと思います。

 それに前後して海外公演が行われていきます。2004年の18世勘三郎のテント仕立ての平成中村座でのニューヨーク公演、2007年海老蔵時代の團十郎がパリオペラ座公演、2009年の「NINAGAWA12夜」のロンドン公演、これは蜷川幸雄氏演出のシェイクスピアの十二夜を歌舞伎にしたものをロンドンへ逆輸入するという手の込んだものでした。

 2015年にラスベガスでは、新作歌舞伎「鯉つかみ」を公演しました。ベラッジョという300メートルの大噴水が出る池で夜、プロジェクションマッピングを使い、鯉の化け物と殿様が格闘する芝居を5日間無料で行いました。一日2万人、5日間で10万人のお客様が集まり、大変な評判でした。デジタルテクノロジーと組んだ歌舞伎の海外公演の第一弾です。

 歌舞伎の海外公演は基本的には国際交流基金、外務省、財務省等政府の援助、いろいろな力添えをいただいて行ってきましたが、この時はパナソニック様やセイコー様、翌年はNTT様などにも協賛をいただいた民活公演でした。

 これまで、指揮者・作曲家バーンスタイン氏、世界的ピアニストのポリーニ氏をはじめ、最近はバイエルン放送交響楽団の常任指揮者サー・サイモン・ラットル氏や、私が理事長をしている東京交響楽団の前音楽監督のジョナサン・ノット氏も歌舞伎座へ来ました。コロナ禍もあってしばらく間が空きましたが、今後は各国からいろいろなアーティストの方をお迎えし、また日本がライズアップするように歌舞伎も海外で大きな公演をしたいと思っています。

 明治にグランド将軍をお迎えしてから150年、歌舞伎は世界の歌舞伎になりました。いつの世も皆様にご愛顧いただけるように、今後も努力をしてまいります。


    ※2026年7月29日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。