卓話


新しい倫理 エコ・エティカ

1月28日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

哲学国際センター 所長 
東京大学 名誉教授
 今道 友信 氏 

20世紀と21世紀3年の103年を回顧しますと,この時代には,二つのすばらしいことがありました。

一つは科学技術の発達。テクノロジーの驚嘆すべき躍進がございました。かつては不治の病といわれたものが治るようになりましたし,月で人が歩くといったことまで起きました。テクノロジーの進歩は人々の生活を快適にさせているといってよろしいと思います。 二つ目は人権の確立です。奴隷解放が行われたのは,つい19世紀の半ばです,20世紀の始めころから労働者の解放が始まり,20世紀の半ばを過ぎて完全に行われるようになりました。婦人の解放,女性の学習権は認められ,参政権も与えられ,就職の差別もなくそうというふうなことになりまして,障害者の社会における権利も確認できてまいりました。 不思議なことは,テクノロジーの躍進によって日常生活は快適になり,病気も治るようになったのは確かなのですが,その科学技術の最高の力でもって,人権の基礎である人命を大量に殺戮した時代は,かつてなかったということを忘れてはなりません。有史から19世紀までの戦死者の数よりも,20世紀とこの3年の戦死者の方が圧倒的に多いという事実を忘れてはなりません。

過去103年は殺戮の世紀であった。時代としては,自己矛盾の時代,自己分裂の時代であったと言ってよろしいかと思います。

なぜ人々は,ピカソの絵を好むのでしょうか。ピカソの代表的な絵には,目が二つ,鼻が二つ,口も二つあります。1949年に『25時』という小説を出した,コンスタンティン・ゲオルギウという作家があります。…ゲオルギウはユダヤ人としてドイツの収容所に送られることになった経験をもった人なのですが…彼は「今こそわかった。ピカソは我々のことを描いているのだ」と書いています。

つまり,「私は今,もうこの国を出たら,二度と見ることのできない,懐かしい故郷の景色を見ている。手を振ってくれている友を見ているが,もう会えないだろう」だから,「私はいつまでも,進む方を見ないで,こちらを見ていたい」しかし,「私の行く先は収容所だ」と別な方も見ている…。戦争時代の私ども自身を考えても,多分,そういう経験をした方が非常に多かったと思います。

今の日本は,例えば,昼間でも電気をたくさん使います。ですから,どうしても原子力に頼らざるを得ません。しかし,放射性廃棄物などを土の中に埋めて,ほんとうに大丈夫なのでしょうか。100年先,200年先を考えて,新しいことを考えなければいけないのではないかと思いながらも,電力をどんどん使わざるを得ない。すべての日本人は,自己分裂をしているのだと言っていいと思います。

なぜ自己分裂が出てきたのだろうか。それは,人間の実存を,本当の意味で統一して,自分の考えと自分の行為とを何らかの意味で一致させる,その知恵…それが哲学ではないかと思います
…がなくなっているのではないか。哲学不在の時代になっていたのではないか。ですから,哲学ということを,もう少し考えてみましょう。

フィロソフィアという学問はソクラテスが創った学問です。そして,ソクラテスは「哲学」の最もわかりやすい,すべての人に聞いてもらいたい定義は「哲学とは,魂の世話」ということだと言いました。

「魂の世話」とは何でしょう。それを理解するためには,体の世話というものを考えてみましょう。体の世話は,意識するとしないとにかかわらず,誰もがなさっています。そういう世話はなぜできるのかというと,私たちは医学を勉強したことはなくても,医学的な常識があって,みんなが知っているからです。肉体の世話は真剣にしていて,それに関する知識,常識はもっているのです。

「魂の世話」はしたことがないという人の方が多い。たまには,なにかを反省するということはありますが,それはご自分がなさったこととか,技術のこととか,対人関係のしぐさとか,ご自分のしたことについての反省であって,どちらかというと,魂そのものの反省ではないのです。

では,魂の世話のための常識というものはあるのだろうか。魂の世話のために,いちばんだいじなことは「ただ生きるのか,よく生きるのか」ということです。

大昔から,孔子にしてもプラトンにしても,人間は,生きるだけではなくて,よく生きなければいけないと言っています。
「枢要徳」という言葉がありますが,枢要とは物事を動かすいちばん重要な所という意味です。枢要徳のなかに「正義」「勇気」があります。
 「正義」の基礎的な定義は「物質が公平に分配されることができる」です。これで正義のいちばん低い段階が実現されていることになります。
 「勇気」はどうでしょう。「勇気」とは戦場で背中を向けないということではありません。「自分が是と信じていることをためらわずに発言する」ことです。

だいじな徳の数も定義も知らないで,魂の世話をしようとしても,これは無理です。ですから,お互いに謙虚になって,魂の世話をするために,もう少し,論語などの古典を読んでみるのがよいと思います。

では,その伝統的な古い倫理を学べば,それでいいのかというと,そうではない。 今,私どもの生きている世界は,自然の中で都会を造りつつあった時代と違って,自然と同時に科学技術もあります。私たちは,機械技術の中で生きています。

機械技術の使い方に倫理はあるのでしょうか。それはまだできていないと思います。人間は他者を意識しないでは生活できません。しかし,機械には他者はありません。別の機械があるだけです。そういう機械に頼って生きているうちに,人間は,他者をないがしろにするようになりました。

恐ろしい話があります。ある小学校で,子どもに「お友達とペットのどちらがだいじか」と聞いたら「ペットの方がだいじだ」と答えました。友達は学校の中での他者で,ペットが子どもにとって他者と意識する者になりつつあります。そういうときに,新しい道徳教育をしていかなければなりません。しかし,その前に,私どもも機械を倫理的に使うということを本気で考えなければなりません。

例えば,自宅へ電話がかってきます。商品取引の電話です。断って電話をきっても、又かかってきます。これは,個人の所有物である「時間」倫理に対する侵害です。

チリ紙交換の声は一時ほどうるさくなくなりましたが,こういう音の倫理とか時の倫理とかいうのは今までの倫理にはありませんので,これから考えていかねばなりません。そういう身近なところにも,新しい倫理が必要で,21世紀の仕事として,みんなで努力していかなければならないものだと思います。

しかも,新しい倫理は,国家が倫理を台無しにするような弱い倫理ではだめです。人を殺すなと言っていて,戦争になれば,殺せば殺すほど有名になるというのは,とんでもない話でしょう。ですから,本当に人類の次元にたって,本当の人の道を考えていかなければなりません。

今は国家があるのですから,国家を無視して生活できません。しかし,昔とちがって,多国籍企業とか,いろんな宗教の人が共在するような世界になりつつあるのですから,本当に,人類の倫理というものをつくっていかなければなりません。標題のエコ・エティカのエコは人間の生きている広がりです。それは,広くは,星の世界,重力のない世界の倫理も必要な時代になってくることでしょう。
「魂の世話」をするのは,体の世話をするのと同じです。皆さまは,それぞれの場面で,魂の世話をする人を育てていくようにしていかなければならないし,ご自身も,聖書でもいい,仏典でもいい,論語でもいい。そういうものを毛嫌いせずに読んで,魂にも栄養を攝ることが大切です。

それは,古い古典に帰るということではなくて,21世紀にほんとうに妥当する力のある倫理をつくっていくことになります。

Responsibilityというと徳があります。責任です。この言葉は1780年代にできました。誰かが作った言葉というのではなく,市民が努力して,お互いにResponseし合うという言葉が,物々交換から貨幣経済に替わって,目に見えるものではない約束をお互いに守り合うということで,できてきた言葉です。哲学の用語として認められたのは20世紀になってからです。だから,本当に我々が意識すれば,21世紀にふさわしい徳目が出てくるかもしれません。そういう希望と責任をもって,よい徳目ができるようにしたいと思います。