卓話


スポーツの可能性

2015年4月15日(水)

一般社団法人アスリートソサエティ
代表理事 為末 大氏


 最初に、ロンドン・パラリンピックの200m走の映像を見ていただきます。ブラジル代表のアラン・オリベイラ選手が優勝したレースです。現在、記録がどんどん上昇しています。もう一つはマークス・レーム選手、義足をつけたドイツの走り幅跳びの映像です。昨年のドイツ選手権大会で8m24を跳び、オリンピック選手を含めたなかで優勝しました。この記録はロンドン・パラリンピックの金メダル記録とオリンピックの銀メダルの記録に匹敵し、現在、パラリンピック選手がオリンピック選手を超える瞬間が目前に迫ってきています。

 今、私は義足を作るプロジェクトを進めており、世界で初めてパラリンピック選手がオリンピック選手を抜く瞬間に、その選手に履いていてもらうことを目指しています。MITのメディアラボで働いていた遠藤さんという人が開発しており、私は走るほうをサポートしています。遠藤さんはロボットの二足歩行を研究していたのですが、それがどの位人間の役に立つのかということに悩んでいました。そんな時、彼の友人が不幸にも病気になり足を切断しました。それを機に、「すべての人が歩けるようになる技術を開発しよう」とアメリカに渡りました。

 私達は、「最速、最高、最安」を目指しています。最速は、競技用の義足です。パラリンピック選手がオリンピック選手に勝つことで、2つメリットがあると考えています。一つは、パラリンピック選手が勝つ瞬間を見た時に、障害者に対する社会の意識が変わり、将来的には障害が単なる特徴として捉えられるようになるベンチマークになるのではないかということ。もう一つはF1と乗用車のような関係になること。パラリンピックに耐えられる義足の技術が日常用の義足に応用され、はきやすい義足になることです。歩くと勝手に対応するような、理想的には手術の翌日に歩き出せるようなものができないか。最安とは20ドル以下で買えるものです。世界で義足を必要としているのは多くが途上国の人ですから、高いとなかなか買えません。

 2020年の東京オリンピック・パラリンピックで何の変化を起こすかが大きなカギになると思います。成功したと言われるロンドン・パラリンピックでの最大の変化は、車いすに乗っている人への街の人々の対応だそうです。例えば、東京大会でバリアフリー化をし、障害を持った方も身体が少し不自由な方も生活しやすい街を創るコンセプトが掲げられれば、以前の大会で良かったものは継承されていますから、その後の開催都市はどんどんバリアフリー化されていき、すべての人が動きやすくなる街が出来るようになると思います。その後、何十年も続いていくようなものをサポートするのは非常にいいと思います。

 私が何をスポーツからもらい、どのように社会に還元しようとしているかをお話しします。

 陸上競技では、1920年代に1600mレースで、イギリスのロジャー・バニスター選手が人類で初めて4分を切りました。4分を切ると身体に問題が起きるため不可能と言われ、それまで世界記録はずっと止まっていました。興味深いのはその後で、彼は1年もしないうちに世界記録保持者ではなくなりました。23人の選手が4分を切ったのです。人間がいかに自分達の限界を社会の常識で縛っているのかということです。つまり、誰かがクリアすると、自分もやれるのではないかと次の人がチャレンジし、限界が突破されます。日本のスポーツ界でわかりやすいのは、野茂英雄さんのメジャーリーグ挑戦後の日本人メジャーリーガー数です。日本の野球選手の能力が向上しているわけではなく、野茂さんが限界を破ったのを見て自分もやれるのではないかと思ったのではないかと思います。私は、限界を破ることをみんなが共有することがスポーツの持つ最も大きい力、価値だと思います。

 スポーツの世界でもう一つ私達を縛っているものが、十進法です。今週末に桐生祥秀君が100mで10秒を切るかどうかというレースを迎えます。日本記録を調べると、10.0から始まり、10.08までほとんど、0.01秒おきに記録が並んでいますが、9秒台は一人も出ていない。10という数字の前に世界記録が止まる現象で、かなりのスポーツで見られます。切りのよい数字を私達は目標にしやすく、それを目標にしてしまったがゆえに緊張してしまい、うまく成績が出なくなり、そのうち記録が止まる人が増えると、本当に10秒が壁に見えるということが起きると言われています。

 自分の限界を一体何が縛っているのだろうか、そうした限界をどのように突破するのかということをずっと現役時代に考えていました。私が競技人生で大きく感じた限界がオリンピックです。最初に出たのは2000年のシドニー大会で、400mハードルの予選でした。この試合と引退試合の2つで転倒しました。

 シドニー大会では9台目のハードルで転倒しました。覚えているのは、跳んだ瞬間に「何かいつもと違う」と感じたことです。それが自分の中ではよくわからない。ハードルを一つ超えると3.6秒後に次のハードルが来て、跳ぶとやはりいつもと何かが違う。これを繰り返していくうち最初は小さかった違和感がどんどん大きくなり、最後の9台目を迎えた時に自分とハードルとの距離感がわからなくなってぶつかって転倒し、予選を敗退しました。初めての挫折でした。

 帰国後一ヶ月位練習を休んだ後、グラウンドに行くようになりました。技術に問題はないので、ハードルを跳ぶことができ、練習できるようになりました。ようやくそこでオリンピックの映像を見てわかったことは、とても風が強い競技場だったことです。ハードル間の距離は35mで、私は13歩で走るのですが、前から2mの風が吹くと1歩につき歩幅が2、3センチ縮んでしまいます。そのまま何も考えずに走っていくと、9台目では30cmいつもより後ろになってしまい、そこで踏み切ると、放物線が落ちるあたりでハードルを迎えるためバランスを崩します。同様に、後ろから風が吹くと、ハードルに近づきすぎて、高く跳びすぎるか、もしくは足がぶつかってしまいます。シドニーではこれが起き、ハードルに近づき過ぎて足をひっかけて転倒したことがわかりました。

 日本国内は風の影響が少なくなるよう競技場が作られていて走りやすいため、いろいろな環境にある海外の競技場に行こうと決意しました。大阪で開催されるグランプリ大会に選手と試合を結びつけるエージェントが来ることがわかり、たどたどしい英語でノートの切れ端に名前と電話とメールアドレスを書いたものを渡して回りました。3週間後ぐらいに1本の英語の電話がかかってきて、3日後にイタリアのローマの試合に出られるというので、初めて一人で海外に行きました。

 誰が電話してきたのかもわからない状態でしたが、ローマに着くと迎えがきていて、試合に出られました。この大会で3位になり、勝った選手の一人がオリンピックの決勝進出者だったので、それに勝った喜びと、世界でやっていけるかもしれないことを感じました。ガッツポーズしていたら、一人の外国人が来て、「よくやった。明日の朝、ホテルのロビーに来られるか」と言ってきました。翌日、そこに行くと選手がたくさんいて、そのままバスと飛行機に乗せられ、クロアチアのザグレブまで連れて行かれ、走り、優勝しました。アジア人が少ない上に、背の小さい選手が優勝したと会場が沸いて、「ウィニングランに行け」と国旗を渡されたら、中国の国旗でした(笑)。この後、ローザンヌ、パリにも行きました。8日間で4試合、移動するか走るかの繰り返しでした。

 オリンピック後、9台目のハードルのことをずっと考えるようになり、無意識のうちに9台目のハードルの前で構えてしまう。安全には跳べてもスピードが落ち、その間に一気に抜かれてしまう。考えれば考えるほど意識してしまっていました。しかし、この4試合の時はそれどころではなく、最後のパリの時、気がついたら何も考えずに9台目を超えていて、克服できたことがわかりました。私にとって大きなことでした。これは2001年のことで、同じ年に、世界陸上で日本人として初めてトラック競技で銅メダルを獲りました。

 限界をどうやって突破するか、それに挑戦する、無我夢中になって向かうエネルギー自体が、スポーツがもたらす大きな力だと私は思っています。自分が失敗した問題に向かって一直線に向かった精神性、そうしようと頑張っていたプロセス自体が私の人生の最も大きな財産になっていると思っています。

 義足の他にも、途上国の子供達にスポーツを教え、自力で東京オリンピックに来てもらおう、参加者数最大を目指そうとアジアの国々にスポーツを広げる活動をしています。

 2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは、参加する、見る、サポートするなど一人でも多くの方がその瞬間を共有し、可能であれば、ここに何か良いことをするという倫理観を足し、自らの限界を突破していくことがぜひ起きてほしいと思っています。


       ※2015年4月15日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。