卓話


世界遺産制度の課題と将来 

9月29日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

筑波大学 芸術学系 
教授
 日高 健一郎 氏

 第4026会例会

 私どもは,基本的な考え方として「人間は時間のなかで自分とともに変わらないものを求めるものだ」という前提にたっております。
 自分が出た小学校を訪ねて,小さいころ遊んだ木が大きくなっているのを見たり,思い出のある校舎や場所が残っていて,時間のなかで生きてきた姿を見ると,懐かしく思い,変わらぬ環境に馴染みを感じます。逆に,思い出となるものが消えてしまった場合には寂しさを感じるでしょう。ものを新しく作るということは,人間の社会にとって重要ですけれども,一方で,変わらないものを残していくということも,人間の生存に基本的な役割を残すのではないかと思います。

 「世界遺産」という言葉が派手に躍る時代になってきましたけれども,かけがえのない文化や自然を人類共通の遺産として守っていこうという試みはつい最近始まったわけではありません。

 1907年に「陸戦の法規慣例に関する条約・規則」が生まれました。日清戦争・日露戦争が終わった時代です。この条約には「攻囲及砲撃ヲ為スニ当タリ宗教,技芸,学術及慈善ノ用ニ供セラルル建物,歴史的ノ紀念建造物,病院並病者ノ収容所ハ同時ニ軍事上ノ目的ニ使用セラレサル限リ之ヲシテ成ルヘク損害ヲ免レシム為必要ナル一切ノ手段ヲ執ルヘキモノトス(27条)」という条文があります。

 また「歴史的ノ紀念建造物,技芸及学芸上ノ製作品ヲ故意ニ押収,破壊,又ハ毀損スルコトハ総テ禁セラレ且追訴サラレルヘキモノトス(56条)」という条項もあり、 これらが守られれば,戦争や狂信的なグループによる文化の破壊はないわけですが,なかなかそうはいきませんでした。

 第一次世界大戦では,中部ヨーロッパで数多くの歴史的建築物が被災しました。その直後,各国で戦災復興が進みますが,ここで3つの立場が生まれます。
 第1「戦争を記憶にとどめるため被災建築をそのまま残して保存する。」
 第2「新しい都市計画で未来に向かって便利な都市を建築する。」
 第3「破壊される前の状況に,できる限り復元する。」という3つの立場です。
 2番目の立場については保存にはならないわけですけれども,1番目と3番目についてはいろいろな状況で議論がなされます。

 第一次世界大戦後では,第3の立場がとられる場合が多く,ベルギーのイープルでは爆撃前の状況に忠実に復元する形で行われました。同時に,文化財を登録するという作業も意識されるようになります。歴史的な遺産が失われて,人々は,どれくらい失われたか,いったい何があったのかを記録しておかなければいけないということに気づくわけです。
第一次世界大戦という大きな戦争を経て,世界で共通した,文化を守る約束を作っていこうという動きが始まりまして,これがいまの世界遺産条約の核となる理念になります。1922年に国際連盟に「知的協力に関する国際委員会」が設置されます。この委員会が後のユネスコになります。1926年に「国際博物館事務局」が設置されました。1930〜31年にはローマやアテネで,芸術作品・建築作品の保存に関する国際会議が開かれました。

 しかし,第一次世界大戦はヨーロッパを中心とする戦争で、その復興もヨーロッパの課題でした。このことが,後々,建築や文化を保存する運動や活動がヨーロッパを中心にして回っていくという流れを生む結果にもなりました。

 新しいものを作る建築家,都市計画家からも,やはり,文化や古い建築を保存していこうという動きが起こってきまして,1941年にフランスの20世紀を代表する建築家ル・コルビュジェが「アテネ憲章」をまとめて,新たに都市を造るだけではなく,歴史的なものを残していこうと宣言します。

 1939年から45年にかけて,第二次世界大戦が起こります。ロンドン,ベルリン,ドレスデン,ワルシャワといった都市にある歴史的な建物が崩れ落ちてしまいます。攻撃の手段は第一次大戦に比べて一層進歩しており,破壊力も大きかったわけです。

 しかし,ワルシャワは,残っていた古い資料実測図によって,1945年に,破壊前の状態に忠実に復元されました。この復元した市街は1978年に世界遺産に登録されました。一方,ロッテルダムでは新市街が建設されました。

 二度にわたる大戦の後,生命については言うまでもありませんが,人類共通の遺産としての文化を守らねばならないということが強く意識され、国連教育科学文化機構(UNESCO)と国際博物館会議(ICOM・イコム)が活動を始めます。 1907年のハーグ条約は,その後何回も改正され,1954年には,文化財を世界共通の財産として尊重し,国際的協力のもとに守るという精神で「武力紛争に対して文化財を守ろう」という動きになります。アラブ諸国対イスラエルの中東戦争で,シナイ半島の聖カテリーナ修道院は,この条約が適用されて保護されました。

 1950年代以降の戦争は,ゲリラ戦,内戦,大国の複雑な介入などで,戦局が複雑になります。また,ヨーロッパの価値観を基盤にした理想主義的な遺産保護条約は,紛争地域の現実を反映していないなど、UNESCOやICOMの活動に新たな課題が生じました。

 北アフリカのチュニジアには,ローマ時代の遺跡があります。しかしチュニジアは,いま,イスラム教を中心とする国家です。トルコの人口の大半はイスラム教ですが,キリスト教の遺跡があったり記念物があったりします。イスラム教とキリスト教の二つをとってみても,このような複雑な状況があります。

 1956年に,文化財の保存修理に関する国際センター(ICCROM・イクロム)が設置されました。1965年に,ワルシャワとクラコフで国際記念物史跡会議(ICOMOS・イコモス)が組織されました。遺跡保護の組織を整備してがんばろうという動きが続きました。

 1955年には,遺跡救済キャンペーンによってアスワン・ハイ・ダムの建設によるヌビア遺跡の救済が成功しました。遺跡を千数百個のブロックに分割して,水没しない川の上流に造り直すという大工事でした。この一大保存事業は成功し、ユネスコの活動は世界の理解と支持を得ますが、途上国を中心にユネスコ加盟国から次々と申請が出てくるという状況が生まれます。いったん申請が認められると,ユネスコから資金がくるだろうと,自助努力を怠る例もあります。特に発展途上国では遺跡保存より観光が優先される傾向も強まりました。

 世界遺産条約が結ばれるまでは,ある国の文化遺産を世界共通のものとして国際的協力のもとに守ろうという場合,自分の国もそれなりに努力しなければならないということを強く求めることの根拠になる取り決めがありませんでした。

 1965年にヴェネツィア憲章が採択されて,世界遺産条約が生まれてきます。1972年11月「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」が採択され,文化の保護と同時に自然の保護にも力を注ぐことになります。

 この条約は,「国際」にかわり「世界」という表現で,地球全体を対象とする新しい概念と将来展望を示し,遺産保護の義務は所有国にあると同時に人類全体にもあることを確認しています。さらに,戦時での緊急的保護ではなく,平和時の保護と国際協力のための総合的な制度であることをうたっています。

 世界遺産条約では,遺産保護の手段として,1.世界遺産委員会での登録審議,2.世界遺産リストへの登録,3.危機遺産の指定と救済,4.世界遺産基金の設置,5.世界遺産センターの設置,などの5つを示して,世界遺産の保護を進めております。 世界遺産と認定する審査の基準は,まず顕著な普遍的価値(Outstanding Universal Value)があること。それから適切な保護手段(Management Plan)が設定されていることが重要です。

 こうして、過去の破壊の歴史の反省から、戦時のみならず平和時においてもかけがえのない文化と自然を人類共通の遺産として地球的規模で守るための世界遺産条約が誕生しましたが、現在、条約成立後32年を経て、次のような問題や課題があるといえます。

 まず,文化は地域の多様な歴史や伝統に根ざすので、その多様性と、条約が求める文化の普遍的価値はどのような関係になるかという理念的問題があります。観光と保護を両立させ、途上国における自立的文化財保護の可能性を探ることも簡単ではありません。一方、国境を越えた遺産指定,例えば,仏教伝来の道とかシルクロードといったスケールの大きな遺産は、国別の個別遺産に代わり、今後の遺産指定の大きな流れになるでしょう。そして、世界遺産の保護を担う次世代の人材育成も大きな課題であり、筑波大学では大学院修士課程に世界遺産専攻を開設して、この社会的要請に応えようとしています。