卓話



「陰徳」から「公益」へ

2016年8月31日(水)

公益財団法人トヨタ財団
理事長 遠山敦子君


 当倶楽部の職業分類では、助成団体に属しております関係で、今日は日本の非営利セクターの一つである「助成財団」についてお話したいと思います。

 日本には約6万という非営利団体がありますが、何らか助成活動を行う助成型財団は約3,000あります。その活動は、研究助成、奨学金授与、留学生援助あるいはNPOの活動への支援など多様です。

 日本の社会貢献の歴史を振り返りますと、その根底に「積善」あるいは「陰徳」という考えがありました。これは儒教の教えの一つ「積善の家に余慶あり」という言葉にも由来しており、江戸時代の富裕な商人層が自らは質素倹約に努め、蓄えた富は社寺を改修し、道路を作り、貧困者を支援するなど、人に知られず世の中のために尽くすことに価値をおいたと見られます。支配層の武士階級が金銭や利益を道徳的に低く見ていたことに対抗して、序列では下位にありながら経済の実権を握っていた商人は、陰徳による慈善によって倫理的に自己を高め自己を確立し、のちに明治期の産業や商業の発展を牽引しました。 明治29年に制定された民法によって公益法人の制度が定められましたが、当時企業家が社会貢献を行う場合、公益法人制度を活用するよりは、むしろ新興企業家として成功した安田善次郎、渋沢栄一、松方幸次郎、石橋正二郎らに見られるように、本業のみならず直接的な社会貢献によって顕著な実績を残したことが注目されます。

 第二次世界大戦後、日本が目覚ましい経済発展を始めた頃、経営者の中に企業創設の理念に国家社会への貢献をうたい、社会貢献を最重要課題として考えていた例が数多く見られるのは興味深いことです。例えば、松下幸之助は、自叙伝エッセイの中で「公器としての企業が、その活動から何らのプラスも生み出さず、何ら社会に貢献しないとすれば、これは許されない罪悪である。」といい、トヨタグループの創始者豊田佐吉は、「豊田綱領」の第一に「至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし」と掲げ、国のために働く姿勢を明確にしております。

 因みにトヨタ財団はトヨタ自動車が1974年に設立した企業財団であり、当時の豊田英二社長のリーダーシップで100億円という大型の財団として設立され、社長自ら財団理事長にも就任し「陰徳」を強く意識していたようであります。現在もトヨタ財団は出資もとのトヨタ自動車の業務とは関わりのない研究助成、国内助成、東南アジア地域を中心とする国際助成を主たる柱として助成を行っております。

 1980年代後半から90年にかけ、日本では多くの企業財団が生まれ今日の財団活動の基盤が築かれましたが、その後財団設立数は著しく減少し、むしろ、企業内に社会貢献部をおいて直接活動を行う企業が増えてきました。この頃から陰徳という美徳は影をひそめて行ったように思われます。

 阪神淡路大震災の際、ボランティア組織が活躍したことを契機に、市民活動を制度化する必要性が認識され、NPO法が1998年に制定されました。これは非営利セクターの活動にとって大きな転機となりました。

 日本の助成財団では、日本財団が最大規模で、年間約220億円の助成額であり、他財団とはケタ数が違います。その他の財団は、出資企業の業務に関連する助成や奨学金助成のための財団が多いといえます。ただ、近年の低金利時代、どの財団も予算規模が制約され、効果的な活動が難しいことは、社会にとっても残念なことであります。

 寄付文化の普及しているアメリカには9万近くもの助成財団があります。ほとんどが企業財団ではなく個人の寄付による個人財団です。最大はビルゲイツの財団で、年間の助成金だけでも約4000億円です。その他フォード財団など巨大財団が多く、最近はIT系の財団が目立ちます。日・米財団の年間助成額を上位20団体の総額で比較すると、約37倍もの開きがあります。

 今後日本社会が直面する少子高齢化などの諸問題を解決するには、全てを公費で賄うことは不可能であり、第三セクター、非営利法人の活動が社会の潤滑油として不可欠です。様々な企業や個人が「陰徳」にこだわらず「公益」に関わる仕事を支援し協力していくことが、成熟社会の在り方として大切だと考えます。


21世紀の女子大

2016年8月31日(水)

学校法人昭和女子大学
理事長・総長 坂東眞理子君


 日本の大学は18歳人口が1992年以来減少を続けているにもかかわらず、大学数は増え多くの私立大学は定員確保に苦労しています。私立大学でも大都市圏の大規模大学は受験生、入学者が増えていますが、地方の中小規模大学は苦戦しています。

 その中で女子大も新たな存在意義を求めて苦闘しています。
―子大学の歴史
 戦前日本の高等教育は男子を国家有用の人材として育成することを目標とし、女子教育は良妻賢母を育てる中等教育で十分とされてきましたが、例外的に女子高等師範が2校設けられていました。(1897年師範教育令)1900年代に女子英学塾、東京女子医学校、日本女子大学校などが設置されましたが、専門学校扱いで帝国大学も女子大学生を受け入れていませんでした。良き妻賢い母になるためには女性にも学問が必要として、高等教育への要望はありましたが、広い需要はありませんでした。

 1945年12月の「女子教育刷新要綱」により「帝国大学等の男子大学の解放」と「女子大学新設」の方向が打ち出され、1947年の教育基本法により基本的に公教育は共学となりました。1948年には日本女子大、津田塾、東京女子、聖心、神戸女学院が女子大として認められ、1949年には2国立、2公立、11私立の女子大学が設置されました。

 その後日本の経済の発展、少子化等により娘に教育を与える家庭が増えてきましたが、1965年でも4年制大学への進学率は約5%に過ぎず、その多くは人文系、次いで教育系、家政系で社会科学系、自然科学系は少数にとどまっていました。高度経済成長を経て男性の大学進学率は上がりましたが、女子は90年代までは短大が4年制大学より上回っていました。当時、女性は大学を卒業しても教員など少数の職業以外は就職が困難で、短大卒が卒業後社会見学的に数年働いて結婚で寿退社し、企業戦士の銃後の妻になることが期待されていました。結婚定年、若年定年なども不文律として残っていました。1985年に雇用機会均等法が制定されましたが採用、昇進は努力義務で、勤続するのは少数の女性だけでしたが、1991年に育児休業法が制定され少しずつ女性が働く環境が整ってきました。

現在の女子大
 そして女性の進学率も伸びてきて現在46.5%が4年制大学に、8%が短大に進学しています。専攻分野も人文系(22.3%)より社会科学系(25.6%)、が多くなり、教育系9.8%、家政系5.8%になっています。注目されるのは保健系で看護を中心に13.4%も進学しており、工学系(1.9%)は相変わらず少ないのが現状です。  このような変化の中で女子大は90年代初頭の90校から78校に減少し、地方の女子短大も閉校または、4年制の共学校に移行しています。

 女子大は中小規模のリベラルアーツ中心の大学が多く、丁寧な教育をストロングスポイントにしてきましたが、女性活躍が求められる社会の要請にこたえているのか、という課題に直面しています。多くの優秀な女子高校生は、今や女子大ではなく共学校を目指しており、共学校も男子の進学数が頭打ちの中で、女子学生をひきつけようと工夫を凝らしています。

 一つの方向は資格取得です。女性はメンバーシップ型の職場に受け入れられにくく、ジョブ型の職場を志向することもあり、教員免状、管理栄養士、薬剤師、臨床心理士、看護師、保育士などの資格を志向しています。それに対応する学科は女子大に多く設置されています。しかし司法試験・法学部、医師・医学部などの高度資格を求める女子学生は共学校へ行きます。

 もう1つは国際系です。女性はまじめに勉強し、語学に強いことと、男性人材が少ないので女性にも需要は多いので狙い目です。昭和女子大学はこの路線で、グローバルビジネス学部をつくり、来年からは国際学部もつくります。津田塾大学は来年総合政策学部を千駄ヶ谷に開設されます。

 女性が社会経済の担い手として活躍するためのリーダーシップ教育、そして現実の社会で遭遇する困難の乗り越え方などを教えることでまだ女子大の存在意義はあるのではないかと期待し努力しています。