卓話


水と衛星月間・環境保全例会
江戸・東京-水の都

2018年3月7日(水)

法政大学デザイン工学部
教授 陣内秀信氏


 東京はかつて「水の都市」でした。江戸時代だけでなく、昭和初期、戦前まで、東京は水の都市だったのです。高度成長期、水辺に過負担がかかって水が汚れ、人々の意識から水辺が消えました。それが今、復権しつつあるとひしひしと感じます。また、環境の問題、人間が自然と共生するということも含めて、江戸・東京の本当の意味での都市の歴史が見直されています。

 1640年頃につくられた地図を見ると、すでに中央に江戸城があり、東の下町には掘割がたくさんあります。江戸城の周りは外濠、内濠が2重に囲んでいます。江戸・東京は下町だけではなく、全体が水の都市でした。我々がいる帝国ホテルも目の前がお濠であり、千鳥ヶ淵のほうまでずっと登っていくわけです。でこぼこ地形を上手に利用しながら、見事に江戸城を中心に水の円環をつくりました。江戸は、地形の変化や水の流れなどを活かしつつ、人間がダイナミックに手を加えてつくった都市です。それが最近、ようやく評価されつつあります。

 歌川広重の「名所江戸百景」のうち80%は江戸の水辺の美しさを描いています。都市のイメージとして、圧倒的に水辺が重要だったのでしょう。実は私たちがいるこのあたり、日比谷、丸の内はかつて入り江が入り込んでおり、海中でした。そこを埋め立て、水路を残して下町の水のネットワークをつくりました。山の手にさしかかる高い所は掘って、円環状に外濠と内濠を通しました。グランドビジョンを持って、こういう大事業を進めた家康はすごかったのです。

 こうしてできた水の都市で最も重要なのは、やがて100万人になる江戸の人口を支えるための物資です。全国から、特に関西から集まる物資を載せた大きな帆船が佃島沖に停泊し、積荷を小さなはしけに積み替えて、日本橋や掘割の蔵に運んでいったわけです。物流の中心として水辺がにぎわいました。都市の表の顔は、誰が見ても、川のほう、水のほうでした。

 もう一つ江戸が面白いのは、漁業が活発だったことです。都心に近い所に漁師町が点在し、幕府から特権をもらって魚を獲っていました。それが日本橋の魚河岸の発祥になります。海とつながるスピリット、安全や豊漁を祈願するという意味で神社が祀られ、関西から来たグループがここに住みました。これが佃島です。

 物流に利用されていたり、漁業が盛んだったりに加え、江戸や日本の水辺の特徴は、遊び心の舞台が水辺だということです。例えば銀座の海側である木挽町には、芝居町がありました。芝居小屋や風呂屋があり、水際には茶屋があって遊女もいます。ここに船で行くのがお金持ちの贅沢でした。

 江戸の「広場」はみな水際にあったのです。そこは歩行者と船が集まってくる賑わいの中心です。今だったら駅前に当たる、広場に当たるものが橋のたもとにありました。一番大きいのが両国橋のたもとです。江戸は火災都市、災害都市ですから、このオープンスペースは火避け地でもあり、延焼から守る知恵でもありました。ただ、そのままではもったいない。上手に自主管理し、所場代を取って、上りを得ながら活性化していくと。そうした運営により、芝居小屋と茶屋が建ち並び、大変賑わっていました。

 そうした水辺の賑わいの様子は昭和36年頃の写真を見ても、まだぎりぎり感じられます。水際には料亭が23件もあり、不夜城のような状況が当時まであったのです。驚くべきことです。高潮から守る防潮堤ができる前、1960年代初めまでは、各料亭が自前の船着き場を持っており、粋なお客さんは近くの船宿から船を呼び、隅田川を遡って納涼等を楽しむことができました。花火大会のスポンサーはすべて料亭ですから、東京一円の船を集めて大変な賑わいでした。世界でもこれほど水に近い文化はないと思います。これが失われてから、まだそれほど歳月は経っていないのですから、もう一度、現代のセンスと技術と力で現代版の水の都市の利用を考えたいところです。

 さて、江戸が終わり近代になると、蔵が並んでいた日本橋川沿いに洒落た洋館が建ちました。渋沢栄一邸です。ヴェネツィア・ゴシック様式の建築は、東京駅の設計者である辰野金吾によるものでした。これが当時の若い建設家や芸術家、文学者を触発し、ここが憧れの文明開化の目抜き通りになりました。ところが関東大震災で東京は壊滅的な被害に遇います。

 震災からの復興で、見事にまた水辺がよみがえるのです。今度はモダンなデザインの橋、近代建築、公園、プロムナードが続々と現れました。素晴らしいデザインの橋を囲んで、朝日新聞東京本社ビルと日劇が並びました。復興なった隅田川には、橋の博覧会場と呼ばれるほど個性的な橋が架かりました。今考えてもお洒落なかっこいい水辺のデザインがその頃なされていました。

 戦後の高度成長期、1964年の東京オリンピックを迎える時期、急速な開発で水質は悪化し、人々は水辺にそっぽを向いてしまいます。しかし、1970年代後半には、隅田川で早慶レガッタ、花火大会、屋形船が復活。その勢いはベイエリアまで広がり、お台場海浜公園に人工の砂浜ができました。ウインドサーファーが集まり、この頃から東京の「水の都市」が明るく展開していきます。水質も改善し、魚が戻ってきます。隅田川沿いの石川島播磨重工業の造船所跡地には、リバーシティ21ができました。人口の都心回帰プロジェクトの第一号です。スーパー堤防の整備により、水際に降りていける公園もできました。水上バスも人気です。隅田川沿いに、犬の散歩やジョギングなどに快適な公共空間が生まれつつあります。

 1980年代には水辺の古い倉庫をディスコやギャラリー、ライブハウスなどに転用する動きがありましたが、バブル経済突入とともにオフィスビルの大規模開発に、バブル崩壊後は現在までマンション開発に取って代わられました。そうしたなか寺田倉庫さんは水辺の再生という文化的側面に力を入れてくださっていて、天王洲アイルでフローティングレストランも実現させました。バブルの頃はこうした文化的な芽生えがみな吹き飛び、大型の開発になってしまいました。これがヨーロッパやアメリカと違う点です。日本はもう少し長期的なビジョンを持つとよいと思います。

 2012年に東京スカイツリーができたことは、水辺がよみがえるきっかけを与えることにもなりました。スカイツリーには船で行けるのです。中央区が日本橋の袂に船着き場をつくり、ここが基地になっています。東部では掘割を巡って楽しいツアーができます。

 東京全体が水の都市なのです。古地図を見ても、江戸城の周り、武蔵野、多摩まで、川が、水路が巡っていることがわかります。例えば、多摩川の上流域の羽村で取水し、高台をずっと東流しているのが玉川上水です。江戸の市民の飲み水に使われるとともに、分水して、武蔵野の乾燥した土地に水を供給。これにより農業が発展し、集落ができました。残った水は外濠や内濠に入り、水を浄化していたというわけです。

 東京には、皇居や迎賓館、明治神宮があります。こうした大きな森をつないでいくと、水と緑の外国にもない壮大な公共空間が生まれます。そこで我々の研究室では、使われていない外濠の活用に向けた取り組みの一環として、水上コンサートも開催しています。

 このように「ミズベリング」という、水辺を活かそうという動きが全国に広がっています。例えば、大阪の水上に現れた巨大アヒル。ヨーロッパのアーティストの作品で、大人気です。品川・天王洲のカナルでは年2回、フェスタを開催し、日本離れした賑やかさが生まれています。隅田川の土手には、東京で初めて水辺のオープンカフェができました。防潮堤上に店舗のテラスを張り出す「かわてらす」もでき、人気を集めています。水辺に人が集まるのは江戸からの伝統なのです。それが一度リセットされ、今、新しいデザインや趣向で次々と登場しています。

 ベイエリアでは「アーキペラゴ」、すなわち群島として、埋立地が非常に面白い形で連なっています。ここが2020年東京オリンピック・パラリンピックの競技場の集中エリアになっているわけです。オリンピックに向けて大きなビジョンの下、世界でも稀な浮き島が多数連なっているという特長を活かすよう取り組んでいただきたい。ぜひ船を上手に使って、あるいは自転車を活用してほしいと思います。この地には豊かな歴史と文化があり、おみこしが水に入る海中渡御の行事も毎年、行われています。

 内陸部も隅田川も、もっともっと魅力的になる可能性があります。また、アーキペラゴ(群島)は世界でここにしかない、未来の水の都市空間になりえます。ただ、東京都はグランドビジョンを描かなくなってしまいました。ですからまだまだ大阪のように取り組みが横につながるということがないようです。東京では、皆さんが力を合わせて、また、市民の活動と一緒に進めていけば、素晴らしい都市ができると思います。東京オリンピック・パラリンピックで東京を訪ねてくださる人は多いはずです。それに値する東京の価値は何か、みんなで発見していければと思います。