卓話


10年間の舞台、そして人生

10月27日の例会卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

日本芸術院会員
日枝神社崇敬会理事
重要無形文化財保持者
 中村富十郎氏

  第4030回例会
   
 私の昨年の十一月公演の「船弁慶」と,初代富十郎が宝暦3年(1753)に初めて江戸中村座で踊りました「京鹿子娘道成寺」についてお話ししたいと存じます。

 私が「船弁慶」を初めて演じたのは,ちょうど十一代目市川團十郎さまが亡くなられた時でございました。「船弁慶」は新歌舞伎十八番の1つでございます。振り付けは,このあいだ亡くなりましたが,六世藤間勘十郎先生です。

 「船弁慶」は,明治になって,始め九代目市川團十郎さまが,その後,六代目尾上菊五郎さまが踊られました。記録によりますと,團十郎さまが演じたのは,たった1回で,2回目からは六代目尾上菊五郎さまが演じました。六代目尾上菊五郎さまは,少年時代を九代目團十郎さまに育てられ,基礎の芸を仕込まれたお方です。六代目尾上菊五郎さまはなんと18回述べ18ヶ月を務めておられます。

 「船弁慶」は,能と歌舞伎とが,公に舞台の芸の世界で交流ができるようになった明治時代からの代表的なもののひとつです。

 私もこの「船弁慶」を務めさせていただきまして,お陰さまで六代目菊五郎さまに次いで,演じた数は14回を数えました。私にとりましては忘れ得ない曲であり,役でございます。ご存じと思いますが,幕外(まくそと)というのは六代目菊五郎さまによってできたものでございます。

 初演での,九代目市川團十郎さまのはお能にあまり近すぎたのですが,その後を受けた六代目菊五郎さまは,幕外という名演出で喝采を博しました。

 「船弁慶」の幕外は,太鼓と笛がだいじです。演奏の技量によって,幕外が立つ立たない,効果があるかないかが決まります。太鼓では今は人間国宝になられた堅田喜佐久さん,笛は藤舎名生さんという優れた方々に出て頂きました。ただし,昨年11月の公演は菊五郎劇団専属のお囃しの演奏でやらせていただきました。これもすばらしかったです。

 この公演の途中から,体調を崩しまして,上げ幕に入って酸素吸入をしたり,幕外から花道に入ってからも直ぐには立てなくて酸素を吸ったりして,みんなにかかえられて楽屋に帰りました。結局,入院したわけでございますが、私にとりましては,非常に感慨無量,一世一代の作品でございました。

 この演し物は市川家のものですから,今の市川海老蔵君も,どんどん演ってもらいたいと思っております。

 静御前については,團十郎さまが亡くなってから半年後に,渋谷の東横ホールの若手の勉強会で,東京での船弁慶をいたしました。その時に,もう亡くなっていた中村勘三郎さま(今の勘九郎のお父さん)の奥様の久枝夫人(六代目菊五郎さまの長女)がお見えになりました。私の舞台を観てくださいまして,しっかりおやんなさいと,六代目菊五郎さまが船弁慶を演じておられたときに使った中啓(能で使う扇)を貸してくださいました。

 その六代目さまが使った中啓を持って舞いましたら,なにか自分が上手くなったような気がしたくらいに大感激いたしました。

 私はそれが忘れられなくて,昨年の公演で初めて贅沢をいたしました。京都の扇子屋さんにお願いして,鯨のひげで扇子の骨を作ってもらいました。今も私の宝となっております。
「道成寺」ものは,室町時代に初演されました「鐘巻き」という能の作品が,後に道成寺という題名に変わったのだそうです。

 能の場合は,いきなり乱拍子を踏んで鐘入りになるのですが,歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」を初代中村富十郎が演じたのは,華やかに白拍子姿から娘姿に変わる踊りでございます。

 初代の釣鐘は,清姫の怨念で安珍とともに滅びてしまったといわれておりますが,その後作った2代目の釣鐘は,豊臣秀吉の紀州攻めの際,道成寺から京都に持って行ったのだそうです。その鐘は京都の妙満寺という所にあるのですが,なんと420年間も置いてあったのです。私たちは,そのことをよく存じませんで,いつも道成寺に行きますと,ここに鐘があったという台座しかないので,どこかにいってしまったのだなということだったのです。

 この釣鐘が久しぶりにお里帰りしまして,その行事に私が招かれまして,鐘を見てまいりました。そして丙が11月末に京都にもどります。

 初代中村富十郎が一世を風靡した「京鹿子娘道成寺」は,今も歌舞伎界はもとより舞踊界でも,道成寺を踊りたいという人は数限りなくおられるという人気の作品でございます。曲も衣装もほんとうに華やかです。初代中村富十郎の言い伝えとして「あまり凝った振りではなく,みなさんが踊れる振り」が原則なんだそうです。道成寺は,鏡獅子同様にだいじな踊りでございます。

 道成寺は和歌山でも最古のお寺で,大宝元年(701)に建立されました。延長6年(928)に,安珍と清姫の事件で,初代の鐘が焼かれてしまいます。その後,延文14年(1359)に2代目の釣鐘が作られました。さらに2百年ほどした天正13年(1585)に,秀吉の軍勢に奪われ京都に持っていかれました。その後また2百年経って,宝暦3年(1753)に初代中村富十郎が江戸で「京鹿子娘道成寺」を初演したわけでございます。

 とても不思議なことは,4百年以上妙満寺にあったにもかかわらず,1回も鐘を撞いたことがないそうです。だれもその音を聞いた人はいない。ご住職も鐘を打ったことがないというのです。なにかの秘密か因縁かをだいじにして,お打ちにならないのかなと思っております。それにはそれなりの,いろんな歴史的な約束事があったのでしょう。この度,熊野参道,熊野古道が世界遺産に認められた記念として,和歌山県を挙げて,古いお寺のいろんなイベントをやろうということで記念行事が始まりました。

 道成寺には絵巻物「道成寺縁起」という重要文化財がございます。その写したものを一般の観光客にご説明しておられます。

 私も重要無形文化財保持者に指定されております。自分の演じております舞台の芸そのものを認めるよということだと存じます。それゆえに,先輩から教わりました,道成寺を初めとして,いろいろな芸をだいじにして後輩に伝えていく義務があると思い,できないながらも努めております。

 私の主義としまして,先輩の尾上松禄さまもおっしゃっておられますが,後輩に教えるには自分が演った役以外には教えないと考えております。たとえば,理論だけ知っていて言うのはだめだと思います。松禄さまは「自分のやったことは,上手かろうがまずかろうが,1ヶ月舞台を務めて,ぼくはこうしたよ。こうしたけれども,こういうふうにやりなさいと教えなさい」と言っておられます。私もそう思います。私の務めた役以外は,みてくれといわれては見て感想を云いますのみです。

 いまはビデオで先に手順を覚えてしまいます。これはいいようで悪いのです。なんか判ってしまったような錯覚に陥ることもあります。教わってからビデオを見ると「ああそうか言われたことはここなのだな」と判りますけれど,それ以外のことは判りません。 形としては判るが本質的なことは教わってやってみないと判らないのてす。

 私は,昭和16年に作られた七代目松本幸四郎・六代目尾上菊五郎・十五世市村羽左衛門という三名優が演じた勧進帳の映画を何回も見ております。そうすると,見る度に,新しい発見があります。その映画を通して,先輩の教えも判ります。こういうふうに映画とかビデオは有効に使わなければなりません。安易に判ったつもりにならないことが大切です。

 世阿弥の花伝書(観阿弥が書いた風姿花伝という能楽論の教えをまとめたもの)も,ある程度の芸が身についたものでなければ,なるほどとは思わないと思います。若いときに読んで,それがすぐに理屈になって,そうだそうだとやるのは危険です。芸は先輩から,直に教わるのがいちばんです。そのうえで本を読んだり優れた劇評を読んだりすることも大切だと思うのでございます。