卓話


昨今の大学生 

2006年4月19日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

早稲田大学 教授
 八巻 和彦氏  

第4097回例会

 昨今の日本の大学生は非常に幼稚化しています。一例をあげると,自分たちのことを「学生」といわずに「生徒」といいます。私たちが大学生になったときは,今日から自分たちは学生であると言い聞かせていたし,先生方も、君たちは大学生だから一人前の大人として扱うよ、と言ってくださいました。

しかし今の大学生は、乱暴な言い方ですが、かつての「中学生程度の精神年齢」だと実感しています。さらに困ったことには,学生たちは,幼いことを恥ずかしいことだと思っていないようです。私たちのころは,ちょっとでも幼いところがあったりすると,むしろ,つっぱって大人ぶってみせたものですが,今の学生は逆です。象徴的な例を挙げますと,女子学生の話し方が幼稚園の子どものように舌足らずの喋り方に変わっています。この傾向は学生以外にも見られます。

 大学での行動としては,小さく群れたがります。ほかの先生からお聞きした話ですが,ゼミの間にも机の下でメールを打っている。そのメールは,隣の人とか,その隣の人とかに出しているのです。ゼミだけではなくコンパの際にも同じことが起こります。

 つまり,気心の知れた者同士で小さくまとまる,好きな者だけで無理のない付き合いをしたがるのです。その背後に何があるのかというと,私の考えでは,少子化があります。家庭内に兄弟がいないので,その兄弟のようなものを,大学の中に求めようとしているのではないかと思います。

その結果として,学生たちが小さな群れになるわけですが、その群れが、高みを求めて向上しようとする数少ない群と,低いところで満足しようとまとまる大方の群に二極分解します。簡単に言いますと,彼らには主体性が欠如していると思います。

このことは最近の新聞でも報じておりました。経済産業省の調査によると,8割以上の企業が主体性のある新人を望んでいるのに対して,就職活動中の大学生で,主体性に自信のある学生はわずか3割しかいません。そもそも、上述のような幼い学生たちでも就職活動を始めると,急速に成長します。それでも、主体性に自信がある学生が3割しかいないというのは、深刻な問題です。
 
その次の特徴は,社会性が欠如しているということです。まず,基本的な礼儀に欠けています。大きな声できちんとした挨拶ができません。「ありがとうございました」ということすら言えない若者が増えています。

また、昨年ぐらいから起こり始めたことですが,授業中に堂々と教室の前のドアから入ってくる学生がいます。講義をしている私の前を平然と横切って行きます。手放しで大あくびをする女子学生もいます。

さらに本質的な欠点を申しますと,大学生にもなっているのに自己表現ができません。意見をきちんと言えません。私が意見を言えといっても、黙って首をかしげるだけです。「考えがないのか、今思いつかないのか,分からないのか,あるいは反対なのか,何かを口で表現してくれないと相手には分からないよ」と言っていますが…。試験で長い文章が書けないのも困ったことです。

 また,公私の区別ができません。教室や研究室の前の廊下で,仲間同士で大声で話をします。こんなことは,以前はありませんでした。それと同じことが一般社会で行われているのが,電車の中での若い女性のお化粧でしょう。

主体性が欠如していることと関わっていますが,リーダーシップをとれる者が非常に少数です。仲間の中で自分が何か主導的な役割を果たすということをしたがりません。

そのような学生になってしまっている原因は何かと申しますと,私は,育ってきた環境が途方もなく同質化していることだと思います。つまり,親の仕事が具体的に見えないまま、単に「サラリーマン」として子どもたちに受け取られていることを筆頭に、子どもたちは様々な大人の姿に出会うことが少なく、彼らにとっては地域が極めて同質化しているのです。子どもたちの勉強中心のささやかな社会経験でさえも極めて同質化しています。その延長上で,学校でも,同質化があると思います。さらに、放課後に行く塾は受験という目的を同じくしている子どもたちの集まりです。

つまり子どもたちは,自分がびっくりするような多様な人間関係を結ぶことがないままに,大きくなっています。例えて言えば,温室内で純粋に促成栽培された子どもたちが,いま続々と大学に来ているというふうに申しあげることができるのではないかと思います。

散々悪口を言いましたが,悪いことばかりでもありません。今の学生は意外と素直です。ですから,彼らは,社会や組織に対して,いたずらに批判的ではありません。教えられると素直に聞き入れます。これまで彼らは、勉強をすることだけを勧められ、社会性をしっかりと身につけることは教えられなかったのでしょう。ですから,我々社会人が彼らに教えてあげることが必要なのです。 今の社会は,社会の教育力が急速に衰弱してきていると考えられますけれども,我々は自身をもって積極的に,彼らに教える必要があると思います。

私は,子どもを植物と思って育てていただきたいと思うのです。人間には,植物的な側面があります。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは『魂について』という本の中で,「植物も魂をもっている,動物も魂をもっている,人間も魂をもっている。植物の魂は栄養を摂るために働く。動物の魂は体を動かすために働く見ている社会。人間には,植物的な魂,動物的な魂に加えて,知的な魂も備わっている。それによって人間は知的な判断をするのだ」と言っています。

私は,これを人間が育っていく過程に当てはめることができると思います。まず初めに人間に現れてくるのは植物的な部分です。それが基礎をなします。そのうちに動物的な部分が現れてきます。それが青年時代の荒々しさです。そして,大学生くらいになったところで,知的な要素が付け加わって、人間として完成していくのだと,考えるべきだと思います。

 さて、作物に立派な実をつけさせるために必要な条件があります。まず,有機分が豊富な土壌です。次に,若い苗は何度か移植するのがよろしい。最低2回は必要です。まず種を蒔いて,芽が出てきたら移植して小さい苗床に移す。大きなしっかりした苗になったら,本当の床に移す。そうしないと立派な実が実りません。言い換えると,苛酷な条件、環境におくということです。

 育ってきたら,こんどは,周囲には多様な植生が必要です。モノ・カルチャーというのは長続きしません。かつては,大規模農業がモデルにされていましたが,そういう農法では土壌が疲弊して有機分がなくなり,土壌流失が起こりやすくなります。現にそういうことが起きている地域が地球上にあります。つまり、作物が安定的に育つためには,土壌に有機分があると同時に,様々な植物が育っていなければなりません。

これらを人間に置き換えてみますと,幼いときには,多様な人で構成されている社会のなかで育つことが必要といえます。そして,最低2回の移植は,かわいい子には旅をさせろということになります。さらに、周囲が多様な植生のなかで育てるということは,青年になったら,いろいろな人と付き合いながら切磋琢磨させることが必要だ、ということだろうと思います。

とりわけ,申しあげたいことは,社会という土壌を有機分豊かなものとして,絶えず我々が手入れをしてやることが必要なのだということだと思うのです。

「隣は何をする人ぞ」ではなく,お互いが助け合い,嬉しいときには喜び合う,悲しいときには共に悲しむというような,人のつながりのある社会が必要だと思います。

かつて、孟母三遷の教えを習いました。民主主義の社会では,この教えはあってはいけないことです。自分の子どもさえよければ,後のことはかまわないということではなく,子どもを育ててくれる土壌をよくすることによって,はじめて自分の子どもも立派に育つという視点をもたなければいけないと思うのです。

社会が階層化すると、下の層に入れられてしまった人々は平気で罪を犯すようになるそうです。そういう社会ではきちんとした子どもは育ちません。その子たちが大人になったときには、また同じことを繰り返すという悪循環になります。日本がそういう社会になってもらいたくないと切に思っているところであります。

人間は,工業製品を生産するようには作れません。かけるべき時間はじっくりかけて、実がつくまで待ってやることが大切です。それと同時に、自分の子どもだけを見るのではなく,子どもが育つための環境や土壌も広く見て,その環境と土壌の協力のなかで自分の子どもも立派に育つのだ、という視点をもつことが必要なのではないかと思います。

 現代では日本の社会も近代化して、個人主義が善しとされています。しかし、それがあまりにも行き過ぎて,よその子どもが何をしようと大人は見て見ぬふりをするという状況が起っているように思います。衰弱した土壌、衰弱した社会の教育力をなんとかしなければいけないと、非常に心配しているところであります。