卓話


アンコール・ワットに再挑戦−歴史を塗り替える仏像発掘−

2010年1月20日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

上智大学 
学長 石澤良昭氏

 私がカンボジアに行くのは,ポルポト時代に命を落としたカンボジアの友人の御霊に応えるために,現地での後継者を作ることを目標にしているからです。

 大学というのは人を育てることを目標にしている組織です。ですから,私は日本でもカンボジアでも,同じような仕事をしていると言えます。

 アンコール・ワットは巨大な石造伽藍です。天空に聳える尖塔,大きな階段,大回廊,長い参道には,畏敬に似た感動を覚えます。

 ベトナム戦争時代に突入すると,カンボジアも影響を受け,内戦にも巻き込まれました。私が再び1980年に訪れたアンコール・ワットは,見るも無残に荒廃した姿でした。しかも,かつてアンコール・ワットに関わった友人は,行方不明や亡くなった方が多いという状態でした。私がそれらの方々に代わって遺跡を守ろうと決意したのは,この時でした。

 上智大学アンコール遺跡国際調査団は,国交のない1981年からカンボジア政府と協力して,地道ではありますが、アンコール遺跡の保存・修復・調査研究活動を行ってきました。世の中が落ち着いてきて,国連も遺跡の保存に力を注ぎ始めました。各国も遺跡の修復や復興の支援に目を向けるようになりました。

 私は,1991年に,まだ内戦中のプノンペンに出掛けました。そして,芸術大学の学生をアンコール遺跡に行かせて,3年ほど訓練しました。その後,それらの学生を上智大学に連れてきて,学位を取らせました。

 文化遺産研究の世界では,学位がないと発言が軽くなります。もともと文化遺産というのは,エジプトのピラミッドに始まったヨーロッパの学問体系ですから,学位を取るという観点も必要なのです。

 学位を取らせた学生は,全員カンボジアに戻しました。博士の学位を取った学生は7名,修士の学位を取った学生は13名でした。

 そうしたことから,カンボジアの遺跡を守る人達の第一線が育ち,今は孫弟子が育っているという状態です。

 1996年には,カンボジア人中堅幹部を養成するために,現地に上智大学アンコール研修所(現在はアジア人材養成研究センター)を建設しました。

 アンコール・ワットやアンコール・トムを訪ねる観光客は,その石積みの精巧さに心を奪われ,カミソリの刃も入らぬほど,きっちりと組み合わされた石と石の接着面を見て,現代の常識では図り知れぬ高度な技術や,それを造り上げたパッションに,魂さえも押し潰されそうな思いになります。

 私たちは,人類共通の文化遺産として,あの遺跡を守ろうという願いで,仕事をしてきました。

 建築の分野では,アンコール・ワットの参道で,保存修復の訓練(現場実習)をすることにしました。解体作業と同時に、カンボジア人石工約30名の養成を同時併行で実施し、1993年から2007年まで15年かかりました。

 もう一つは,アンコール・ワットから東北に約6 kmの所にあるバンテアイ・クデイ遺跡での考古学発掘研修です。

 この遺跡は,12世紀末頃に建立された寺院で,広い境内には発掘や修理の研修に相応しい材料がたくさんありました。

 1991年から2000年の間,3月・8月・12月の年3回,定期的な考古実習が続けられました。そうして,数えて31回目の2001年3月と32回目の8月に掘った所から,274体の仏像が発掘されました。13世紀半ばごろ廃仏毀釈事件があったことを歴然とあらわしているわけです。

 これまでも,アンコール遺跡では1〜2体の壊された仏像が発見されており,廃仏毀釈があったのではなかろうかと推論されていました。

 もともと仏領インドシナですから,国立フランス極東学院で保存修復と研究が行われていましたので、私もそこの研究員になりました。今回の274体という大量の仏像が発掘されたという事実は,歴史を塗り替える大発見という事件になりました。

 こうして,発掘の結果、廃仏毀釈があったことが証明されたわけです。やはり,王朝末期に廃仏毀釈を命令した王が在位していて,王の支配は行き届いていたということが分かりました。

 もう一つの問題は,「アンコール王朝はなぜ滅びたか」という問題です。フランス極東学院は、「アンコール・ワットだとかアンコール・トムを作り過ぎて疲弊し,14世紀半ばからのアユタヤ王朝の軍隊の数次にわたる攻撃で,滅びるままに滅んだ」という過剰建寺滅亡論を唱えていましたが,上智大学アンコール遺跡国際調査団は,発掘した廃仏毀釈の結果として,「王朝末期まで王の支配力は健全であったが,しかし最終的には,アユタヤ王朝の軍隊の力によって滅びた」という結論です。歴史を塗り替える論拠が出てまいりました。

 アンコール遺跡そのものは「水」の都です。水利都市といっています。東西に「バライ」と称する貯水池があり,雨季に雨を蓄えます。乾期になって雨が一滴も降らなくなると,貯水池の水を使って2毛作、3毛作の農耕を営みます。こうした食糧の供給があったので、カンボジア人たちは,アンコール・ワットのような大きい建物ができたという結論です。

 アンコール・ワットは,今から約800年前に建てられた,中央尖塔の高さ65メートルの建物です。四つの塔はヒマラヤの峰々をあらわしています。

 1631年(日本の戦国時代が終わった頃)家光の時代に,日本人武士が『祇園精舎』として訪れています。

 長い回廊の先には,このアンコール・ワットを建設したスールヤヴァルマン2世の事跡が壁画に刻まれています。

 女神の像もたくさん刻まれています。アンコール・ワットの壁面全体に刻まれた女神の数は2352体ですが,どれとして同じものはありません。当時の王宮の中の舞姫がモデルでした。

 1952年には,大雨によって参道が崩壊したこともありました。参道は崩れて使えない状態になっていました。その後,私たちも関わって修理を進めました。私たちの進め方は,基本的には現地のカンボジア人を育成して,作業を進める方法です。

 実際に,崩れた部分に土を埋めて参道を修理しました。石工の技術を身につけるまでには8年かかりました。最初はこのように時間がかかりますが,カンボジア人が技術を習得すると,どこへ出かけても,鑿一丁で,奥地に出かけて行って遺跡修復の手伝いができるわけです。

 30数名の石工については,日本人の石工棟梁(小杉孝行氏)が育成しました。日本からの技術移転でもありますので、誇りを持って頑張っています。現地は45度とか50度近い炎天ですから,朝は7時から仕事を始め11時まで,午後は2時半から5時半までというのが普通のタイムテーブルです。

 上智大学アンコール遺跡国際調査団が発掘した274体の仏像は,ほとんどがナーガ(蛇神)に守られて,禅定する坐仏であり,この様式の仏像が往時に流行していたようです。また、小さな仏様が1008体彫られた石柱も発掘されました。

 発掘された数点のアンコール・ワット様式の仏像に限って言えることは,宗教的伝統主義に則り,像容は簡素化され,細部にわたり装飾品できらびやかに飾り立てられており,その顔貌は晴れやかですが,内面の精神性を映し出していないと感じる坐仏もあります。

 いずれにしても,今回の大量の廃仏の発見は,ジャヤヴァルマン8世(1246-1295)の統治下でも,それなりに通常の政治が機能し,国内の繁栄が維持されたことが明らかになってきたと言えます。

 274体の廃仏発掘から判明した史実とは何かと言えば,カンボジア・アンコール王朝史を塗り替える大発見だと思います。

 これら発掘された仏像は,幸いにもイオン1%クラブの浄財とその協力を得て、「シハヌーク・イオン博物館」での常設展示が実現しました。

 来月には,カンボジアにおけるロータリー・クリアランド計画完遂記念式典があり,多くのロータリアンがカンボジア入りすると思いますが,その際は「シハヌーク・イオン博物館」で,発掘された仏像を是非ご高覧ください。


【宮本四郎君からのご紹介】
 石澤良昭先生は,1960年(今から半世紀前)上智大学3年生の時,フランス語の先生に誘われてベトナム・カンボジアを旅行し,初めてアンコール・ワットの威容に接しました。

 大学を卒業した石澤先生は,単身で再びアンコール・ワットを訪れ,直談判して遺跡保存事務局の研究職に就かれたそうです。その3年後,石澤先生はフランスに留学され,パリ大学オート・ゼチュドで東南アジア碑刻学を勉強された後、帰国されました。

 現在もアンコール・ワットの調査,研究及び修復事業に携わっておられる第一人者です。