卓話


一休さんとその弟子たち 

2008年月24日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

大徳寺真珠庵 住職
山田宗正氏 

 一休さんは室町中期の臨済宗のお坊さんですが,臨済宗は,中国は唐の時代の臨済禅師から興った宗派です。

「臨済の喝,徳山の棒」と称されるように,お弟子さんを教育するときに,一喝大きな声で怒鳴ったり,棒でぶん殴ったりする,峻烈な手段で教育にあたった宗派です。

ところで,「禅」という言葉が世界的に有名になっていますが,「何をもって禅というか」ということになると,何もないのです。

確かに,大切にしている経典やお経はあります。しかし,こういう宗旨で,こういう教義に則って,どのように次の世代を育てるかということは,それぞれ個人個人の僧侶の力量に懸かっております。

百人の禅僧がいれば,百種類の禅があると言っていい程,個性的です。

そういうことですので,弟子の教育に大失敗をする場合もございますし,一方,一休さんのように,立派な弟子たちを,…それも,僧侶としてだけではなく,在家の人々も…育てた人もあります。

一休さんの心の中には,僧侶であるとか男女の別とか,もっと広げれば,人間であるかどうかまで全く関係なく愛情を注ぐという気持ちが溢れています。

ある時,お弟子さんが,一休さんが大事にしていた竹やぶの竹を伐って,生け垣の修理をしました。それを見た一休さんは「あれ程に大切にしていた竹を伐られたことが我慢できない。いらだって,あちらこちらを歩き回ったり,一人で唸ってみたりしていた」と,自書に綿々と綴っています。

 一休さんは,それ程に,非常に繊細な神経の持ち主なのです。

実は,一休さんが何故それ程,竹が気になるかというと,お若い頃に北山の辺りを歩いておられた時に,筆を作る職人が,筆の材料を求めて竹やぶから竹を少し伐り出しました。ところが,その竹やぶの持ち主から,いたく叱責を受けてました。

それを見た一休さんは,「それは可哀想だ。自分は将来,少しでも土地が手に入ったら,その貧乏な竹職人の為に,竹を植えて育ててやろう」と思いました。年を重ねて,今は,その竹やぶを,一休さんが育てています。そういう竹やぶだったのです。

また,育てていた雀の雛が死んでしまった時には,尊林(そんりん)という法号(戒名)や,葉室(ようしつ)という法号(戒名)を与えました。

 尊林号は畠山記念館に,葉室号は京都と奈良の中程にある酬恩庵(通称・一休寺)に,それぞれ残されています。因に酬恩庵は,一休さんが晩年を過ごされたお寺です。

一休さんは,応永元年(1394)の正月,元日の朝,日の出の時刻に京都の嵯峨野の小さな庵で産声をあげました。

お父上は後小松天皇,お母様は藤原氏の伊予局です。後小松天皇は北朝の天子,伊予局は藤原氏の娘ですから南朝です。宮中での讒言もありまして,伊予局はやむなく身重な体で御所を出て,嵯峨野の坊庵で出産を迎えられたというわけです。

皇位継承権第一位というご身分ですから,お命の危険もあり,6歳の時に京都の壬生にある山城国安国寺で出家され「周建」という名をうけておられます。

12歳になると嵐山の天龍寺で勉強され,15歳には祇園の建仁寺で漢詩を学ばれました。当時は,五山文学がはやっており,漢詩を作ることが禅宗の僧侶の最も大事な仕事であるかのような時期でした。

年譜によると,「春衣宿花を賦し人口に膾炙す」とあります。つまり,一休さんが,その時につくった漢詩を,はやり歌として当時の人々が口ずさんだということです。

その後,京都の花園にある妙心寺(大徳寺の大燈国師の弟子関山国師が建てた)系列の和尚さんの弟子になりました。「宗純」という名を授かった年次は不明ですが,恐らく,この17〜18歳の頃と思われます。

一休さんが20歳に近い頃,師匠の謙翁和尚から「お前はもう十分に修行を積んだ。しかし,私は師匠から印可状というものをもらっていない。だから,お前にもやれない」と言われます。このことは,一休さんの一生を決定づける出来事でした。

一休さんは,後に,琵琶湖の畔,堅田の祥瑞庵で修行され,華叟和尚からもらう印可状を,最初は突っぱね,2回目には破り捨て,3回目はその継ぎはぎの紙を手渡された時には,とうとう燃やしてしまいます。

当時の「印可状さえ貰えれば事たれり」とする僧侶たちへの痛烈な批判であるとともに本人の純粋な気持ちもさりながら,青年期に薫陶を受けた謙翁和尚の「不伝の伝」の影響が大きかったと思います。

一休さんが21歳の時,大恩人の謙翁和尚が亡くなりました。悲しんだ一休さんは清水寺に籠もったり,母親の伊予局を尋ねたり,あげくは石山寺に参籠して,「もし自分が出家として,まっとうに生きていくべき人間なら,一度,琵琶湖に身を投げてみて,助かるかどうかを試してみよう。もし死んでしまうのなら,それまでだ」とまで考えます。そうして,瀬田の唐橋から入水自殺を試みました。

 母親の伊予局は,尋ねてきた一休さんの様子がただならぬことを察して,心効いた者に一休さんの様子を見守らせていました。その者によって一休さんは救われます。

22歳の時,一休さんは,堅田の浮御堂の祥瑞庵(今の祥瑞寺)の華叟和尚の門を叩きます。

 日毎,座禅に明け暮れ,夜は湖畔の船上でも座禅を組みました。25歳のときに,公案(参禅する人に考えさせる問題)をいただき,その答えを華叟和尚に提出しました。

 その答えを見て,華叟和尚は「一休」という道号を与えました。さらに修行を積んで27歳の時,ある夜,常の如く船中で座禅をしておられる時,明け方になって,烏の声を聞いて,とうとう大きな悟りを開かれました。

一休さんの悟りというのは,その本人しか分からない世界です。しかし,それが師匠の世界にも通じるし,大徳寺の開山大燈国師,その師匠の大應国師,また中国の虚堂禅師,臨済禅師,達磨さんと溯って,行き着く先はお釈迦様です。その心,仏の心が,27歳の時にはっきりと分かったということです。

 27歳を境にして,一挙手一投足が喜びに満ち,世界中が光り輝くという一休さんに変わりました。

 それでも, 一休さんは54歳の時に,大徳寺で不祥事が起こった時に,京都と大阪の間の山間で自殺を目的に餓死を試みています。繊細であることは、一生変わりませんでした。

私たちは,自分の中に,生まれる以前からの何億年のDNAによって,つき動かされる煩悩,妄想を抱えております。そういうしがらみの中で,その煩悩,妄想をどのようにして,良い方に向けて行くか。

 一休さんは,晩年になって,漢詩『狂雲集』を表しました。その詩集には,非常にエロチックな表現が多々見られます。一休さんはその欲望を隠しませんでした。そういう素直なところ純粋なところが,あらゆる老若男女の人たちの知友を集めるところであったろうと思います。

印可状を断った人ではありますが,一休さんは本当に,お釈迦様の心,達磨さんの心を体現できている「禅」の心をもった人と言えると思います。

一休さんの生き方は「ごまかさない」ということです。そういうひたむきなところが大方の共感を得たのだと思います。

禅においては,戒律を破ること自体よりも,「戒」にとらわれていることを「迷い」と考えます。例えば一生精進料理しか食べない人もいます。

 しかし、お齋(とき)に出されたちらし寿司に,たまたまちりめんじゃこが交ざっていればそのまま食べていいのです。わざわざ,ちりめんじゃこを一匹づつ取り出して除けるのは,檀家さんにとってどう映るでしょうか?

食べないことが本当に戒律を守ったということになるのかを考えてみたいと思います。とらわれたら,どっちにしても同じなのです。

 とらわれるのがいけないのです。右でも左でもない中道です。…中道を標榜すれば,中道にとらわれることになるのですが…。

つまり「何かにとらわれない心,何にもとらわれない心というのが,禅の禅たるところだ」というのが今日のお話の結びです。