卓話


大久保利通の人となり〜近代国家の国づくりを目指して〜 

2011年9月7日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

社団法人霞会館 常務理事
大久保利泰氏

 9月4日付の東京新聞に,東大名誉教授坂野先生(日本近代政治史)が「いま求められるのは西郷のような革命家ではなく,大久保のような実務家です。野田さんにできるかどうか分かりませんが,大久保型を目指すべきでしょう。大久保は欧州に赴き,七十もの工場に足を運び,帰国してから殖産興業に繋げ,経済界をリードしました。」と利通について述べておられます。このようなコメントは時折頂きますが…。

 大久保利通が亡くなりましたのは,明治11年(1878年)5月14日。この日の朝に訪問客がありました。そのお客に「これまでの10年は,西南戦争がやっと終わったが非常に騒乱期であったので,充実したことができない時代だった。しかし,これからの10年は,内政を整え,民間産業を興して国力の充実を図りたい。そして,これは私がやるべき仕事だ。その後の明治20年から明治30年までの10年は,仕事を後進に譲って見守っていきたい」と語っております。

 「過去の10年と,これからの20年」の30年のことを語って間もなく暗殺されてしまいます。5月14日の朝に語った言葉は遺言のように語り継がれ,あとに続く人々がその軌道に乗って,国づくりをしていくわけです。

 利通が描いた「近代国家」としての国づくりの基礎はどのようなものだったのでしょう。
1.天皇の御輔導について
 利通は「天皇家は千年以上も続き,京の都で公家や女房たちに囲まれて暮らしておられる。これは近代国家のトップとして適切ではない」と考えました。そこで,古い伝統から離れた新しい都は何処がよいかを考え,紆余曲折はありましたが,結局,東京に決まりました。

 このことは,天皇陛下を近代的な君主としてお育てする第一歩と捉えられます。
 当時の明治天皇は15〜16歳の若さです。東京にお移りいただき,率先して,国民の実情,社会的施設や教育施設のインフラの現状などを把握していただこうとしたわけです。

 天皇は,明治5年から18年にかけての六大巡幸をはじめ100ヶ所近く全国各地を巡幸されました。教育機関や新しい学校,産業機関等の見学が中心でした。巡幸に備えて新しい宿舎を建てることなどは全くしない,施設も最低の補修で賄うという注意を与えた上で実施されました。

 明治11年5月14日に示された「御巡幸沿道の各縣に内示の大意」から抜粋すると,
「一、道路ハ難差置危嶮之場所ヲ除クノ外一切着手ニ不及事
 一、天覧之場所第一ニ勸業上第二ニ教育上其他名所舊跡又ハ御遊覧ニ属候場所ハ可
   成被爲省候事
 一、行在所之ため新築等可爲無用事」
 このような注意書きが知事や関係者に配られ,心構えを諭したわけです。

 明治5年の西国巡幸に始まった巡幸,各地への民情視察は,国民に新しい天皇像を与えました。トップの教育も,近代国家の国づくりの象徴的なことだったと思います。

2.実業教育について
 国力の充実には民間産業の発展が不可欠です。第一回の内国勧業博覧会は西南戦争の最中でしたが明治10年8月21日から11月30日まで,上野公園で開催されました。

 利通はこの博覧会で「大いに農工の技芸を奨励し智識の開進をたすけ貿易の拡大のもととなり,もって国家を富強に導く」ために開催すると演説しています。総経費は12万2千円余で,当時の神奈川県の予算とほぼ同額でした。10年先,20年先の日本への投資であるとの信念によるものでした。

 農業は当時の先端技術でした。さらに,種苗の改良や単位あたりの収穫量増大の研究のために,駒場農学校の設立に尽力しました。この学校は現在の東京農工大学の元になっています。

3.部下が見た大久保について
 大久保利通というと,西郷に比べて,冷たいというイメージを持っている方が多いといわれますが,決してそうではありません。「人の話はよく聞いて,人が良い意見を言ってくれば,それを取り入れた。やさしい仕事は部下にどんどん任せて,責任は自分が取るから十分にやれと言った」といいます。

 ただ,国難といわれるような難問題については,自分で対処しています。

 明治4年(1871年)に,琉球の漁船が難破して台湾に漂着してしまった事件がありました。漂着者66名のうち帰島したのは12名に過ぎず,残りはその場で暴殺されました。また,明治6年3月8日,備中国浅江郡の4名が台湾に漂着した時も衣服や財物を掠奪されました。

 日本政府としては,これは遺憾なことであると,清国に対して抗議しました。当時の外務大臣副島種臣が行って談判しましたが,埒があきません。

 明治7年になり,日本も清国も台湾に軍隊を出す事態になり,ひとつ間違えば軍隊の衝突に発展します。そこで,利通が全権を担って北京に向かいました。

 北京での交渉は依然として埒があかず,最後通告をして帰国するという事態になりましたが,当時の清国在住の英国公使が,今ここで日清両国に事を荒立てられては困ることもあって,仲裁に入りました。決裂寸前で,漸く交渉の場ができました。英国公使が日本の言い分を含んだ仲裁案を示して交渉は成立し,「幻の日清戦争」は回避できたといわれました。

 全権を担って交渉した利通の,条理に適った,激昂もせず凹みもせぬ交渉術が効を奏したといえると思います。こうして,当時の明治維新政府も,利通を信頼して,近代日本の礎を固めていくことができたのだと思います。

 北京での清国との交渉が終わると,すぐ西南戦争が始まってしまいますが,そういう騒乱の時代が,明治維新になってからの10年であったといえます。

 それからの明治10年代は,日本の内政をきちんと整理して,体制を整え,民間の産業の育成と振興を図ることが中心でした。

 大久保は岩倉使節団に同行して欧州を回って来て,国力の充実は産業の振興によることを実感していましたので,自分がその先頭に立って実践する覚悟でいたわけです。

4.慶応2年から明治2年までの変革
 利通は暗殺されてしまいましたが,その思いは,後に続く伊藤博文や山縣有朋,大隈重信という方々が,明治20年代の初めの,憲法発布や帝国議会の開会に繋いだわけです。

 当時に溯って,歴史をひも解いてみると,慶応2年に孝明天皇が崩御されました。次の年に睦仁親王が践祚されます。

 慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いの後,江戸が東京となり,改元されて明治元年,明治2年には天皇が東京に御到着,版籍奉還と続きます。

 慶応3年から明治2年の,3年ほどの間にこれだけのことがよくできたと思います。岩倉具視,三條實美,木戸孝允といった方々が,日本を確固たる近代国家にしていく為にどうするかという志で,心を一つにして行動した結果だと思います。

 明治11年,亡くなる直前に,大久保は時代を30年に分けて語っていますが,思うに,鳥羽伏見の戦いで勝った時に,30年の計画を描けていたのかどうかは疑問です。

 西南戦争が終わって,大変なことがやっと終り,振り返ると,これまでが10年だった。これからの国内で民間産業を起こす為には,やはり後10年あれば大丈夫だろう,と思った時点で,30年というスタンスが浮かんだのではないかとも考えられます。

 その時点では,岩倉にしても,三條にしても,木戸にしても,後10年経てば何とかなる,その後の10年でいろいろやろうと考えていたとは思えません。私は,利通にしても同じだったと感じています。

5.大隈重信が回想する大久保利通像
 大隈重信が明治30年代になって,利通のことを回想して語っています。

 「我輩の知っている大久保は,いつも沈んだ,考え深いような人であった。然るに,これが苦労の為にそうであったと知ったのは,十年の戦争(西南戦争)が終わり,二十年の苦労がようやく晴れたという面持ちになり,急に言うことも,はきはきしてきた。かつて伊藤博文と俺を呼んで『今まで我輩はいろいろな観点に制約されて,思うようなことができなかった。君らも,さぞ頑迷な因循な政治家だと思ったろうがこれからは大いにやる。俺は元来進歩主義なのじゃ。大いに君らと一緒にやろう。ひとつ積極的にやろうじゃないか』といった風で,さかんな元気であった。然るにこの満々たる元気をもって政治に当たり,ようやく実力も権力も大いに奮おうという時になって,あの暗殺だ。大久保が初めて愁眉を開いて志を得たのは,わずかに八カ月。二十年の大苦労に何ら報いられることなく,ただ八カ月のみ安らかな思いをして死んだのだ。」

 今の日本は大変なことになっています。これからの日本人もこうした志を受け継いで,きちんとした日本をつくりあげてほしいと思います。