卓話


イニシエーションスピーチ

2005年8月10日(水)の例会の卓話です。

高梨圭二君 
北原幸男君

第4066回例会

―業界50年―

東京コカ・コーラボトリング株式会社
代表取締役社長  高梨 圭二 君

 私の職業分類は、「清涼飲料の製造・販売」業として登録されています。この「清涼飲料」という言葉ですが、明治9年(1876年)、東京日日新聞に銀座の「楽善堂」が出した「レモン水」の広告文に、店主である「岸田吟香」が自ら書いた「清涼甘美なる飲料」という広告文が語源とされています。今年は、吟香氏没後100年です。更に、我々の業界団体である「全清飲」 (全国清涼飲料工業会等3団体)の創立50周年の記念すべき節目の年でもありますので、本日は清涼飲料業界に関し少々ご紹介させていただきたいと思います。

 我々の業界団体は50年前の昭和29-30年に設立しましたが、この頃の業界と弊社の関係は極めて深いものでした。昭和28年に弊社の創業者が原液の輸入申請を上げたものの業界からの強い反対を受けておりました。その後、国会審議・関係省庁との折衝を経て民間市場への自由販売が許されたのは8年後の昭和36年でした。この8年間が最も苦しくまた充実した期間であったと諸先輩から聞いておりますが、この時に創業者が口にした「皆さんは反対するが、業界そのものが刺激・拡大され、生活者のお役に立てる業界に必ず発展すると思う。だから一緒に幸せになればよい」という創業の想いは、今でも我々の経営理念の上位概念として残っております。

 その後業界は結果として、昭和30年の35万klの出荷量から平成16年には1,750万klと約50倍に成長することに成功しました。業界団体も、昭和30年の約50会員から現在では約450の会員数にまで拡大しました。現在清涼飲料業界は、3.7兆円の売上高規模をあげる業界として社会に受け入れられております。このことを今解釈すると、当時の創業者の想いへの多少の誇りと、関係者への感謝の気持ちを強く感じております。

 清涼飲料業界拡大の過程を見ますと、明治時代のレモネード(後に「レ」が「ラ」となり、ラムネへ)・サイダー等の炭酸飲料を起源に、昭和30年代のコカ・コーラ・40年代の缶コーヒー・50年代のスポーツドリンクやウーロン茶・直近の緑茶飲料や機能性飲料等、常に消費者の潜在的なニーズを喚起する新しいカテゴリーを提供し、成長を加速させて来ました。特異なのは、新しいカテゴリーが登場し続ける中で、サイダー・コカ・コーラなどの古参のカテゴリーも縮小する事無く維持・拡大を続けていることです。容器・製造工程・販売方法の工夫や、環境対応・法規制や社会との調和など様々なテーマに関し、柔軟なビジネスモデルで対応できた為と認識しています。

 今後の業界は、環境や安全などの問題へ対応することが課題として存在しております。既に清涼飲料業界は、容器リサイクルの問題に対しペットボトルの再商品化率を61%と世界最高水準まで高めることや、全国に約250万台存在する自動販売機の消費電力量の問題に対し、1台当りの使用量を15年前と比較し半減させることなどに取り組んできました。

 更に「安全・安心な清涼飲料の提供」という使命を追及する場として、全清飲を事務局に  「日本清涼飲料研究会」を発足し、産・官・学一体で取り組んでいます。

 以上、清涼飲料業界の歴史や成長の過程、今後の課題等に関して述べましたが、弊社としても創業者の想いである「業界の健全な発展と共に」生きる・貢献できる企業であり続けたいと考えております。

 最後に、皆様のご健康に貢献するということを願い一言申し上げれば、人間の体は加齢と共に渇きに鈍感なり、脱水症状等に陥り易くなるそうです。昔から、朝晩1杯の水を「宝水」と呼ぶように、皆様にも枕元に1本のペットボトルを常備することをお勧めいたします。

“私の指揮者人生”

武蔵野音楽大学 
助教授 
指揮者 
北原 幸男 君

 私は、尺八演奏家・二代目北原 山の息子として生まれました。有難いことに、両親は私が三代目を継ぐことに執着はしませんでした。自由にわが人生を模索するうちに、いつの間にか西洋音楽の指揮者という職業を選択していました。おかげで両親は私のためにひと財産潰すはめになったようです。指揮者として一流のキャリアを作るためには、お金は入ってくるよりも出るほうがよほど多く、しかも成功するとは限らないのですからまったく酔狂な話であります。

 桐朋学園大学を卒業後、私はNHK交響楽団の研究員を経て、ヨーロッパに移り住みました。そして1985年、プラハの春国際コンクールで三位入賞を果たし、ブカレスト・フィルハーモニー管弦楽段を指揮するチャンスを得ました。

 当時のルーマニアはチャウシェスク独裁政権下にあり、演奏会場も常に秘密警察の監視がありました。演奏会後、その監視の目をくぐるようにして一人の男性から握手を求められました。彼は自分がドイツからの移民であることを語り、その夜の演目であったベートーヴェンの演奏に感激したと涙を流していました。このような抑圧の中でさえも音楽は人々に希望を与え、悲しみの中にある人々を慰めることができる。指揮者という職業を通して人々に喜びを与えることができるという実感に、心あらわれる思いでありました。若き日のこの思いは、今日まで私の音楽を支える原点であります。

 その後、ウィーン、インスブルック、ドイツ・アーヘンと歌劇場でのキャリアを重ねてゆく中で、指揮者という職業の持つもう一つの側面を改めて思い知らされました。

 オーケストラとは、一人ひとりが強い意思と個性を持った人間の集団であります。音楽には正しいか間違いかなどは無く、したがって団員の四面楚歌にあおうとも、ボイコットにあおうとも、ただひたすら己の音楽を信じて突き進んでゆかねばなりません。この楽団員さえいなければ、と怒り心頭の気持ちを抑え、彼らの持つ最大限の音楽を引き出してゆかねばなりません。若い私にとっては苦難の日々でしたが、と同時に歌劇場が一体となって若手指揮者を鍛えその成長を見守ろうといった心意気が感じられ、厳しいながらもこの様に恵まれた環境にわが身を置き切磋琢磨できたことを、今となっては心から感謝致しております。

 加えて集金能力も重要な要素であり、ドイツ・アーヘンにて音楽総監督を務めた折の私の一番の仕事は、市議会でいかに沢山の予算をもぎ取れるかということでありました。近隣都市の日本企業を回ったり、夜な夜なパーティーに出席したり、おおよそ音楽とは縁遠い仕事に忙殺されました。

 前述のルーマニアへは、その後も度々訪れる機会がありました。独裁政権崩壊後も、親に捨てられた子供たちがマンホールに住み、厳しい冬には暖房が止まり、赤ん坊や老人が亡くなっています。昨年客演のため訪れたイスラエルでは警報のサイレンが途切れることがなく、この春訪れた中米ホンジュラスでは麻薬が横行しています。

 音楽が飢えを満たし、貧困を救済できるわけではありません。しかし私は人々の心に届く真の音楽を奏で、自分がこの世に生まれた使命を少しでも果たしたいと願ってやみません。

 現在は、武蔵野音楽大学にて若い後進の指導にもあたっておりますが、未来ある若者の前途が平和で実り豊かなものとなることを心から祈っております。