卓話


映画づくりはロマンとソロバン

2018年3月28日(水)

(株)平成プロジェクト
映画・コンテンツ制作プロデューサー
益田祐美子氏


 映画プロデユーサーの役割をご存知でしょうか?大学でいえば、学長が監督で、理事長がプロデューサーです。作品に責任を持つのが監督で、興行全体の責任を負うのがプロデューサー、特に大手の企業に属さないプロデューサーは作品と興行に失敗すると家がなくなります。

 主婦だった私が40歳から映画づくりを始めたきっかけは、当時10歳の娘との約束、「あなたを主演に映画を作ってあげるから、受けた仕事はやりとおしなさい」でした。というのも、娘がオーデイションを受けて出演が決まった役が「親が不倫をして子供が力強く生きる」というもので、夜の撮影が多くて現場は厳しく、途中で「もう私、役をおりる」とつぶやいたのです。おまけに制作会社の資金難から、映画が完成しても配給会社が決まらず、劇場公開も危ぶまれていました。

 私は、娘との約束を守りたい一心で、3000万円あった貯金を原資に、子供が活躍する映画の構想を練り、日本の大手映画会社3社に企画を売り込みにいきました。しかし、どの会社も、「子供が主演では映画はヒットしない」、「原作がないと脚本づくりが難しい」、「経験がなければ一流のクリエーターは集まらない」と、全く相手にされません。ああ、日本では経験がなければ映画は作れないんだと諦めていた時に、子供が主役のイラン映画『運動靴と赤い金魚』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞したことを知り、イランの映画会社とだったら私が無名でも何とかなるかもしれないと、翌週にはイランに飛び、著名な監督に直接映画製作をお願いしていました。

 イラン人の監督は、日本と違って、「どういうお話?」とだけ聞くので、「日本とイランの子供達が主役で縦軸をペルシャ絨毯にした心温まる映画を作りたい」と身振り手振りを交えて説明しました。すると「いいお話ですね、作りましょう」となり、仮契約をして手付金まで払ってきました。しかし、それからが悲劇の始まりでした。

 映画プロデューサーとして大切なことは、作品の骨格を決め、監督を決め、お金を集め、契約を結ぶことです。監督はイラン人、制作資金は何とか調達したものの、契約で私は大変な失敗をしました。

 両国の弁護士が事前に話し合い合意した契約書の一項、「ワールドセールスは日本側にある」という内容が、なぜか「イラン側にある」と書き替えられていたのです。そうとも知らず、現地に行ってサイン。イラン側が契約直前で内容を擦り替えていたのです。それを日本に持ち帰り配給元に契約書を見せると、「どうして確認しないでサインしたんですか!これでは出資はできない」と言われました。イラン側は「サインしたあなたが悪い」と言う。この契約書が有効になったら、映画はイランのものになってしまう。

 翌週、私は単身イランに飛び、担当者に強く抗議しました。するとイラン側の責任者が出てきました。「契約書を作り直してあげるから、いくら払えるんだ」と言います。「私は映画のために、貯金は全部使った、家も根抵当に入れ借金もした、車も売った、身体は売れない。このままじゃ日本に帰れない」と、怒りが募ってきて契約書を破り始め、涙が出てきました。さすがにイラン側も人間、交渉相手の覚悟を理解してか、しぶしぶ契約書を作り直してくれることになりました。本当に素人だったなと思います。

 その後、一緒に仕事をしたイラン人からこんな助言をもらいました。「人間は悩めば悩むほど“神”に近づく、君も少し“神”に近づいたね」。この経験がその後の韓国やカタールとの映画づくりで威力を発揮しました。

 イランとの合作映画『風の絨毯』は、2003年ファジール国際映画祭で観客賞など三部門を受賞しました。日本でも東京国際映画祭の特別招待作品となり、話題になりました。しかし、興行的には大ヒット作にはならず、私は出資者にお金をお返しできませんでした。自分もお金を失いました。その時、映画に出演して下さった三國連太郎さんが、「あなたはイランとの合作映画を作ったことで、これだけの人脈と体験を得たのだから、もう1本映画を作って、未来につながる財産にしなさい」と励ましてくれました。

 二作目の『平成職人の挑戦』は、私の故郷、飛騨高山の祭山車復元に挑む、職人の生きざまを追ったドキュメンタリー映画です。

 この映画も当初、映画界の専門家からは、「職人の映画なんて誰が見るんだ。劇場公開は大コケするからやめといたほうがいい」と強く止められました。しかし、「興行だけが映画の全てではない」と、出演してくださった職人達に支援を求めたところ、このパワーがすごかった。全国の組織が動いてくれ、京都から始まった劇場公開は全国に広がり、日本サムスンや大和ハウス工業、GM、愛知工業大学などが続々と支援を表明してくれました。映画制作の目的がはっきりしていれば、人は見捨てないことを学びました。

 ひと昔前の日本には、「語りべ」と言われる長老がいて、伝統行事や、先人の哲学などを語って子供達に教えていました。核家族化し、それも失われつつあります。私は、その「語りべ」の力を映像にして次の世代につなげていく、これが私の役目だと感じるようになりました。

 2年前に劇場公開した映画に、『サンマとカタール 女川つながる人々』があります。東日本大震災で壊滅的な被害を受け、復興は不可能と言われたサンマで有名な宮城県女川町が、若い力を結集して復興のトップランナーとなるまでの軌跡を描いたドキュメンタリー映画です。

 東日本大震災が起きた時、カタールが100億円ものカタール・フレンド基金を作って、いの一番で被災地に投入してくれました。なぜカタールが支援したのでしょう。

 カタールは1930年代に天然ガスが発掘されるまでは、天然真珠と漁業を産業とする小さく貧しい国でした。その天然ガスが、日本の技術と経済協力で、液化天然ガスとして輸出できるようになり、繁栄の基盤となりました。だから、カタール政府は、どの国よりも早く“恩返し”の基金を設立し、漁業の町である女川町を支援しようと、津波対応を施したマスカー(巨大冷凍冷蔵庫)の建設に20億円を投入してくれました。

 このマスカーが女川町のシンボル、復興への希望の建物となりました。「死んだ人は、生きている人の心の中に生き続けている。だから生かされている俺たちは熱い」。これは映画に登場する女川町の皆さんの言葉です。私は彼らの姿を、映像を通じて世界に発信し、カタールだけでなく東日本大震災で支援してくださった世界中の人々に感謝の念を伝えたい。それが映画の持つ力だと思います。

 今年公開した『一陽来復 Life Goes on』は、岩手・宮城・福島の被災3県の復興する人々の言葉を切り取った映画です。現在、新宿のケイズシネマで公開中です。

 この作品を先日、秋篠宮様、妃殿下、眞子様がご一緒にご覧になりました。大変感動され、いろんな質問を受けました。私は、普通の人々が一生懸命生きる、寄り添ってあげることがいかに大切かを伝えたいと思いました。

 この映画の中で、例えば「海は自然のリサイクルによって、津波が起きたけれども50年若返っている」。福島県川内村は原発被害にあいましたが「加害者、被害者いろいろあるけれども、同じ年代を生きてきた人間として俺たちは皆共犯者だ」、石巻の子供を亡くされた方は「生きるということはこんなつらいことがあったんだと顔に表すことはできないけれども、笑顔で生きることが生きるということじゃないか」、いろいろな言葉を切り取っています。今を生きる人達に、被災地の映画としてではなくて、生きるとはどういうことなのか伝えたいと思っています。

 映画製作、はじめは素人でしたが17年もこの業界に携わっていると、いろいろな話が舞い込んできます。最近、あるテレビ局の社長から、「10年間できなかった構想がある。日本とロシアの合作映画を制作してほしい。誰もできなかった」と言われ、受けることにしました。

 日露戦争時代のロミオとジュリエット、政治に翻弄されながらもたくましく生きる人達の人間ドラマです。ロシアとの交渉はかなり難航すると思います。しかし、今年は日ロ友好年。政治や宗教ではできないことを、文化を通して実現したい。なんとか映画を完成し、来年の公開に間に合えばと思っています。

 映画制作は「ロマン」だけではできません。最後は「ソロバン」、お金をどう集め、どう使うかが大切になります。出資や協賛をお願いする時は、「お金は墓場まで持っていけません。しかし、あなたの思いと名前は映画のエンドクレジット、映像の中に永遠に残ります。私と一緒に、楽しみながら、笑いながら映画を作りませんか」と微笑みかけます。今まで12本の映画製作を実現することができました。

 私の映画づくりは、思いを共有できる仲間と「夢は大きく、志は高く、仕事は楽しく」がモットーです。たまにはヒットも願いますが、大切なのは、人々の「思い」を次の世代に伝えることです。私は100年先まで残る現代の映像の「語りべ」として、今後も体力と資金が続く限り、映画を作り続けたいと思います。