卓話


「コンピュータ」と歩んだ半世紀

2020年9月16日(水)

日本アイ・ビー・エム(株)
名誉顧問 下野雅承君


 日本アイ・ビー・エムで42年間勤務し、昨年末に退職しました。
 1972年に大学に入学し、創成期の「情報工学」を専攻しました。当時、「情報工学科」が設置されている大学は三校しかありませんでした。この半世紀のコンピュータの驚異的な発展をお話します。

 まず、「情報」という言葉についてお話しします。情報の英語はInformationです。福澤諭吉は明治12年の著書で、Informationという英語に適切な日本語がないとして、カタカナでインフォメーションと記述しています。「情報」が初めて登場するのは明治9年で、「敵情を報知する」という意味で創作され、InformationではなくIntelligenceの訳語として登場しました。諜報(ちょうほう)に近い意味です。「Informationとは情けに報いることである」というのはとても味わいのある意訳です。

 社会人となった1978年当時のIT業界のプレーヤーは、IBM、ユニバック、DEC、富士通、日立、NECといった会社です。2009年年初で、IBM、マイクロソフト、オラクル、HP、富士通の時価総額が10兆円から20兆円で先頭グループでしたが、現時点ではGAFA+マイクロソフトが、全産業のトップ5であり、各社100兆円とか200兆円といった時価総額を誇っています。IBMやオラクル、シスコといった法人対応のIT企業は未だに10兆円から20兆円の規模で、プラットフォーマと呼ばれる5社はその10倍以上の時価総額を誇り、市場の構造が激変しました。

 この流れを支えたイノベーションは二つ、1980年代前半のパソコンの登場と1990年代のインターネットの登場です。この二つのイノベーションを可能にしたのは、ハード、ソフト両面での劇的なテクノロジーの発展です。

 まず、ハードですが、その劇的な進歩を支えたのは「ムーアの法則」で、半導体の集積度は18ヶ月で倍になるという法則です。ゴードン・ムーアというインテルの創始者が提唱者です。ムーアの法則の最新の成果物は「スマホ」で、かつての10億円以上した大型コンピュータをはるかに凌駕する性能です。ただ、60年間続いてきたムーアの法則も限界を迎えつつあり、微細化の限界から発生する熱が最大の問題です。これを克服するアイデアの一つが量子コンピュータです。

 次にソフトウェアです。マーク・アンドリーセンというエンジニアが、2011年にNYタイムズに“Software is eating the world”と寄稿しました。「すべての会社がいつかはソフトウェアの会社になる」とまで言っています。ソニーも今はプレステ、アイボ、映画などのソフトが肝の事業の占める比率が大ですし、テスラの車は、「車輪のついたコンピュータ」です。金融機関もフィンテックの台頭でますますソフトウェアに依存するでしょう。すべての産業がその競争力の源泉をソフトウェアに求める時代になりつつあります。ただ、思う存分ソフトが活躍できるのは、ムーアの法則でとてつもなく早くなったハードのお陰です。

 最後に人工知能についてお話しします。今回のAIブームは三回目です。第三次ブームに比べ第一次、第二次ブームの頃は、ハード、ソフトとも極めて非力で、世の中の期待に応えられませんでした。第三次ブームのAIを支えているのは「深層学習」と「ビッグデータ」です。画像認識、言語翻訳、囲碁などのゲームなどで格段の進歩を示しました。今はアイフォン11ですが、アイフォン15くらいでは、電話の向こうのフランス人との会話が日本語で話せるでしょう。では「鉄腕アトムはいつできるのか」と尋ねられたら、多分21世紀中にはできないのではないかと思います。世界中の人とスマホで日本語でコミュニケーションできる、というのは2030年までにはできていると思います。

 今日の話で頭の片隅に残しておいてほしいのは、.燹璽△遼‖Г砲茲襯蓮璽疋ΕД△侶狹な発展、◆Software is eating the world”、これからはソフトウェアが産業を支配する、スマホで外人と通訳なしで話せる日は近い、です。


日比谷公園の歴史とこれから

2020年9月16日(水)

(有)日比谷松本楼
代表取締役社長 小坂文乃君


 日比谷公園は日本で初めての洋式公園として明治36年に開園。当時、西洋文化を積極的に取り入れようという政策の中、ドイツ留学の経験がある本多静六博士に設計が託されました。「日本の公園の父」と呼ばれた本多静六博士は大濠(おおほり)公園、奈良公園、明治神宮の森も手掛けました。

 日比谷公園は洋風の中に日本的空間感覚を継承しており、ゾーニングは園路で園地が区画されており、幾つかの異なった景観のテーマに分かれています。造園学者の進士(しんじ)五十八(いそや)博士は日比谷公園を「幕ノ内弁当的空間」と表現されています。 当時の東京市議会では「なぜ、公園の各門に扉を設けないのか、夜間に花や木が盗まれてしまう。」と心配されましたが、本多静六博士は「公園の花卉(かき)を盗まれないくらいに国民の公徳が進まねば日本は亡国だ。公園は一面、その公徳心を養う教育機関のひとつになるのだ。」と説き伏せたと伝わっています。

 日比谷公園のシンボルは「3つの洋」。
 1.洋花。花壇の設置。明治末期の庶民は江戸の生活にどっぷりつかっており、花菖蒲、朝顔、菊といった花しか見たことが無くチューリップやパンジーなどを初めて鑑賞しました。

 2.洋食。これは松本楼。まだ洋食は珍しく、正装して松本楼でカレーを食べ、コーヒーを飲むのがハイカラな習慣でした。その様子は、夏目漱石や高村光太郎などの文学作品にも登場しています。

 3.洋楽。園内には公会堂、野外音楽堂、小音楽堂が計画され、陸・海軍の軍楽隊が演奏会を開催。戦後は毎週、警視庁と消防庁の音楽隊による演奏会が続いています。令和元年にクラシックからロックまでさまざまな音楽がフリーで楽しめる「日比谷音楽祭」が開催され、音楽の日比谷、が更なるステージに進化しました。

 園内には、国際親善の証としての「樹木」があります。戦前、尾崎行雄東京市長がワシントンD.C.へ送った桜の返礼として、花水木やマグノリアが届き、日比谷公園に植えられました。また戦後は東京オリンピックを誘致した東龍太郎都知事とワグナー・ニューヨーク市長が記念にバラを植えたことが話題になりました。

 歴史上では、ポーツマス条約反対の日比谷焼き討ち事件、内閣弾劾国民大会など政治集会の場となりました。また、米・英艦隊の歓迎会、伊藤博文、大隈重信、山形有朋など明治の元勲(げんくん)の国葬会場にも使用。昭和46年には沖縄返還協定反対デモが激化し、松本楼は火炎瓶を投げられ全焼するという事件もありました。

 戦時下では「極限的」利用がされました。食糧難が深刻化する中で、公園内の草地を開墾して、芋や野菜を栽培。また、空襲が激化すると、死者の遺体の処理や仮埋葬場になりました。戦後、日比谷公園はアメリカ軍に接収され、GHQ将校らのダンスやテニスを楽しむサロンでした。

 開園100周年の2003年、パークマネジメント元年、と銘を打ち、民間の知恵や発想を取り入れようと、東京都の公園行政は大転換を図りました。ガーデニングショー、日比谷公園大盆踊り大会などが始まりました。

 これからの日比谷公園は、「歴史的公園」のauthenticityを尊重するための整備方針が掲げられ、日比谷公園ならではの歴史性・文化性の保全を大前提として、”公園と連携した街づくり“、民間活力導入とパートナーシップの推進が進められようとしております。 NYのブライアントパークは、ロックフェラー・ファンドが設立したNPO法人によって、安心安全で魅力的な公園が再生され、ハイメンテナンスと文化・知的野外活動、フリーイベントを提供することにより、周辺の不動産価値を高めるという成功例となっています。

 NYのセントラルパーク、ロンドンのハイドパーク、パリのブローニュの森など、世界を代表する大都市の中心に必ず存在する「公園」。日比谷公園が日本のセントラルパークとして、人々に潤いと喜びを与え、歴史的、文化的価値を継承していける公園として発展していくことを期待しております。