卓話


「点描米山梅吉」から米山さんをとり巻く群像 

2006年6月14日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

(財)ロータリー米山記念奨学会
監事 谷内 宏文 氏

 米山梅吉は慶應4年2月4日,明治維新動乱の最中に誕生し,日本敗戦の翌年昭和21年4月28日に逝去しました。まさに劇的な生涯を送った典型的な明治の人です。

 米山さんは,その生涯で,いろいろな知人,友人と出会い,多くの影響を受け,時には助けも借りて,あのようなすばらしい事績を残しました。それらの人々との関係をお話しして,米山さんをとりまく群像と梅吉像を皆様にお伝えしたいと思います。

 米山さんの実父,和田竹造は,大和高取藩植村家の家臣でした。三島神社の神官の娘うたと結婚して,三人の男子をもうけ,三男の梅吉氏が5歳の時,43歳で亡くなったという経歴以外には分かっていません。しかし,人間形成期の梅吉少年に,さらにはその後の生き方に決定的な影響をもたらしたといえると思うのであります。

 母子家庭になった和田家は,母の実家のある三島を頼ってそこで暮らします。梅吉少年は,小学校上級生の頃,地元の豪農米山家に請われて養子に入ります。将来は娘はると結婚して家督を継ぐことを期待され,米山家から学資を出してもらって,14歳から2年間,沼津中学校に通います。この中学校での生活が米山さんの将来を決定づける大きな要因となったと思います。

 沼津中学校の前身は,沼津兵学校です。徳川幕府は,大政奉還の後,江戸から静岡に移され,石高も八百万石から七十万石に削られて,いわゆる静岡徳川藩となります。その時失業した家臣の再教育のために創立した洋式の藩校が沼津兵学校です。存在したのは明治元年秋から明治4年秋までの短い期間でしたが,そこで教えた学科は,英語・仏語・理科・数学・地理・天文・歴史など。教師陣は校長の西周(にし・あまね)をはじめ,中村正直,江原素六,山岡鉄舟,津田真道など徳川藩が抱えていた洋学者集団50名ほど。加えて何人かのお雇い外人教師です。後年,全国の中学,高校で教えるようなカリキュラムと同じ程度の,たいへん進んだものでした。

 米山さんが入った時の沼津中学校は,前身の兵学校のやり方を引き継いで,何人かの外国人教師がいる進歩的な学校でした。

 米山さんは「英語を勉強してできることならアメリカで学びたい」という青雲の志をいだきました。同時に「大地主の婿として小作から年貢を取り立てるだけで一生を終わりたくない」という気持ちも芽生えていたに違いありません。

 16歳になった梅吉青年は,養家に無断で上京し,いくつかの学校で苦学の末,渡米直前に英語を学ぶために通ったのが東京英和学院(青山学院の前身)でした。

 20歳になった米山さんは,徒手空拳で渡米し,28歳までの間,働きながら勉強します。 渡米して最初に身を寄せたサンフランシスコの「福音会」は日本人が経営するメソジスト教会派の施設で,渡米した学生や一旗組を世話する宿舎でした。米山さんは,その施設で本多庸一とメリマン・ハリスの両氏に学びます。M・ハリス氏は米山さんに,オハイオ州ウェスレアン大学への進学を薦めました。ウェスレアン大学はメソジスト派の教祖ジョン・ウェスレーの名を冠した学校です。ハリス氏は米山さんに宣教師になることを期待したのですが,米山さんは学資がかからないので,その大学を選んだのだと思います。
 
 米山氏はもともと,文筆家志望で,帰国したらジャーナリストになりたいと思っていましたから,NYのシラキュースとロチェスター大学にも通い法律と政治学を学んだとされていますが残念ながら詳細は分かりません。

 明治28年の春,米山氏は帰国します。28歳になっていました。日清戦争に勝利した頃の日本で,ジャーナリストになりたいと福沢諭吉の時事新報を訪ねますが,月給が安いので諦め,結局三井銀行に入ります。

 この時,三井銀行に米山氏を紹介したのが藤田四郎氏です。藤田氏は,米山氏が16歳で上京して「土居光華塾」に入学した時の学友でした。帰国して再会した時は農務省の農政局長の役職についていました。

 藤田氏は井上馨の女婿になっていたこともあって,三井銀行に顔の利く井上馨氏に米山氏の入行を依頼したというわけです。

 伊藤博文,山形有朋と共に維新の三傑といわれた井上馨は,三井財閥の顧問という立場にありました。

 この時三井の採用側にいた人が中上川彦次郎という人物です。ちなみに中上川氏は福沢諭吉の姉の子つまり甥です。三井銀行は,明治15年の日本銀行設立に伴い今まで扱ってきた公金の管理ができなくなり私立銀行として生きるための大改革を迫られていました。中上川氏を三井に迎えたのも井上馨でした。

 中上川氏が,改革のために断行したのは,三井両替商時代の番頭,手代,丁稚という人事の仕組みを変えることでした。多くの会社が採用し始めた「係制」を三井にも採用したのです。そのためには,学卒者の採用が必要でした。慶應の後輩である藤山雷太,小林一三,武藤山治,和田豊治,藤原銀次郎,鈴木梅四郎,日比翁助,池田成彬の面々を採用し,その後,米山さんも採用したのです。

 中上川氏は,両替商と越後屋呉服商である商業の三井を新しい工業に目を向けさせ,今でいう系列化を行いました。後に三井グループとなる王子製紙,鐘紡,東芝がその対象になりました。藤山雷太以下の人たちが,それらの会社に出て活躍しましたが,池田成彬と米山梅吉の二人は,最後まで三井銀行の経営に当たることになります。

 大正6年,目賀田種太郎という人が登場します。目賀田氏は米山氏より14歳年上で,勝海舟の三女の女婿であった人です。米山氏は小さい時から勝海舟を尊敬していて,明治29年に出版した『提督彼理』には推薦の題字を勝海舟からもらっていたほどでした。そんな縁で,目賀田氏は第一次大戦に参戦した米国の視察のために組織された「政府特派財政経済委員会」の委員に米山氏を誘います。

 米山氏は三井銀行の経営者の域を超え,日本を代表する金融財務家への道を得ることになりました。この時に,テキサス州ダラス市の三井物産の福島喜三次氏を尋ねて,ダラスRCにゲスト参加したことが,ロータリークラブを知る最初の機会となり米山氏の大きな転機になります。ほかにも,米山氏を取りまく人はアレキサンダー・シャンド,佐佐木信綱,団琢磨,もちろんポール・ハリスなど多彩です。

 以上が米山さんをとり巻く「群像」です。 明治維新という激動の中で,没落武士の遺児が,あれだけの地位に昇るには,米山さん本人の努力と才能は勿論として,その時々の知人,友人との多くの出会いがあってこそです。その大切さありがたさを誰よりも米山氏は強く感じていたと思います。同時に,当時の藩閥,門閥,閨閥,さらには親分子分という,当人の能力とかかわりなく働く不合理な力が社会を動かしていくこと,自分もそれに頼らざるを得ないことに強い抵抗感を感じていたと思います。

 そのことが,「よりもっと合理的な仲間づくりの場としてのロータリークラブ」に目を向けさせて,日本にも,互いに助け合うシステムとしてのロータリークラブを導入しようとした大きな要因になったのだと思います。

 米山さんの事績には,三井信託株式会社を創業して,日本に近代的信託業を最初にもたらしたということもあげられます。

 信用して任せてくれるお客様の信託目的を実現するため万全の努力をするということが,ロータリーの理念である「各人の職業を通して社会に奉仕する」という理想に通ずる職業であると考えたのだと思います。
 
 信託を創業したこともロータリークラブを始めたことも,奉仕という米山イズムにとって共通の基盤のうえに立つものであったというふうに理解できると思っております。

 大正3年,47歳の時,現役の三井銀行常務という時に「新隠居論」という論文を世に問いました。内容を一言で言いますと「功成り名遂げた者には,なおまだ社会に恩を返す責務が残っている」というものでした。

 「予はひとり実業界といわず社会各方面の老人達に向かって隠居することを勧告したいのです」という書き出しには反発もあったようですが,言わんとすることは「隠居というと日本では家にこもって盆栽でもいじって暮らすことだが,これからが社会に恩返しをするというのがヨーロッパの隠居だ」というのです。つまり「Noblesse oblige・社会的に高位に扱われている者は,その分,社会に恩返しをする責務がある」という考えです。民間の福祉活動としては空前絶後の規模の奉仕に身を挺した米山梅吉氏の思想の根底が示されていると感じている次第です。