卓話


家を失った少年少女達は・・・青少年福祉センター50年の歩み

2009年4月22日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

社会福祉法人青少年福祉センター専務理事(創立人)
長谷場 夏雄氏 

 私たちが50年かけてやってきた「自立援助ホーム」は,児童養護施設を出た後の子供たちの世話をするのが仕事です。子供たちが児童養護施設に入って来る理由は,捨て子,親の死亡,長期療養,長期拘留,離婚,貧困など,いろいろあります。

 特に終戦後,焼け野原の東京に多くの戦災孤児がうまれ,上野駅周辺で浮浪生活をしていました。それらの子供たちは自治体や民間施設に収容されていきました。

 その頃の施設収容児童数は約3万名,施設の数は約5百でした。一つの施設に平均60名が収容され,そこで育ったわけです。

 不思議なことは,戦後何十年も経って生活が豊かになり,少子化の世の中にもなっているのに,施設に収容されている子供たちの数は大体同じ3万名程度です。収容される理由の中で最も多いのは親の虐待と養育放棄です。

 私は,終戦直前に両親を満州の「鞍山」で失い,幼い弟を連れて引き上げてまいりました。焼け野原の東京で親戚を頼りましたがそれも居辛いので働こうと思いました。当時18歳でした。

 ある日,「サン写真新聞」というタブロイド判の新聞に,外人の神父さんが造ったサレジオ学園という施設の紹介記事が目に入り,たいへん興味をひかれました。私は,その施設に弟を預けようと考え,早速そこを尋ねました。場所は成増でした。

 園長の神父さんは「いいですよ。預かりましょう。でも貴方もここで働きませんか」と言われました。当時は,まだ教員不足で,その学校も教師が足りません。旧制中学卒業だけの18歳の私でしたが「臨時教諭」として,そこで働くことになりました。  

 指導員兼教師として戦災孤児たちと楽しく夢中で過ごした私は,新制高校3年に編入して勉強を終え,さらに哲学・神学院に学びました。そうして,その修道会の経営する「大阪星光学園」の英語の教師として教鞭をとるようになりました。

 その頃,時々,東京に帰って施設の子供たちに会いますと,「先生,僕たちはまた孤児になってしまった。」と言うのです。当時は,施設で暮らし中学校を終えると,例外なく「住み込み」で働きに出されていたのです。

 彼らは,住み込み先の酷使に耐えられなくなったり,首になったりしても帰る所はありません。受け入れる施設もありません。

 「先生,一晩でもいいから,僕たちが泊まれる家を造ってよ」と言うのです。

 ある子は,「また浮浪児になっている」と言いました。どこで寝ているのかと聞くと,10円の切符で山の手線に乗って終電まで車中で寝て,始発まではその辺をうろうろして,始発になったら,また10円の切符で電車で寝るという生活です。そういう生活では,住所不定ですから就職できません。結局は万引きなどに走ります。

 「泊まれる場所が欲しい」というのは悲痛な叫びでした。当時の私は20代の後半。「よし。俺が作ってやる」と修道会を飛び出して豊島区の椎名町に小さな2間のアパートを借りて,そこで,施設を出た子供たちと一緒に生活しようと思いました。

 幸い,サレジオ学園では紳士服の仕立てを教えていました。それを習った子供たちが先ず3人やって来ました。そして靴屋の子供が一人来て生活が始まりました。

 たまたま,アパートの公衆電話をかけにきた麻生和子さんが,「あなた方そこで何をしているの」と尋ねました。戦災孤児が肩を寄せ合って生きていることを知った麻生和子さんは,それ以来,懸命に我々を育ててくださいました。センターの理事長にもなってくださいました。他にも大勢の皆さんのご支援とご協力をいただきました。

 それから50年,何もなかった我々は社会福祉法人「青少年福祉センター」という大きな組織に成長しました。それができたのは,子供たち,仲間たち,職員,そして後援者のお陰でした。幸い,今は公費も出るようになりました。

 この自立援助ホームにやって来る子供たちはどういう子供たちかというと,先ず環境のせいで生じた知的障害児です。段々に障害を除くことができますが時間がかかります。30歳過ぎて相談に来る子もいます。

 次は精神障害児です。虐待などを受けて障害になった子供たちです。

 以上二つの他,残りの3分の1は,いわゆる非行です。この子たちは立ち直るのも早いです。最近の傾向として,日本や韓国だけでなく中国やフィリッピンの子供たちもあります。親が置いて帰ってしまうのです。

 私は80歳近くになりますが,中国語を勉強しています。やっぱり中国語で話しかけてやると喜びますから…。

 では実際にどういう育て方をするか。最初に申しあげたいことは「みんな,いい子だ」ということです。本当にいい子です。ですから,我々は,信頼関係を結ぶことを中心にします。子供の目線で考えます。決して上から押し付けたり言ったりしないようにします。 子供には子供の理があります。それを聞いてやって,何を考えているかが見えてくるまで聞いてやります。そうすると少しずつ信頼関係が生まれてきます。信頼関係ができると段々に従ってくれるようになります。

 我々が教えることを具体的に申しますと,一番大切なことは「仕事をすることを納得させる」ことです。何故,仕事をしなければならないのかを理解させることです。

 ある子は働いている所でお客から年を聞かれて16歳だと答えると「16なのに,何で働いているのだ」と言われて困ったそうです。ある生徒は「先生はいい人だけど,なんで仕事をさせるの?」と聞かれて,こちらが困惑しました。段々聞いてみると,その子は,他の子が夏休みに海の施設に行く時に,悪いことをした罰として,草取りなどの仕事をさせられた体験がありました。その子にとって仕事は罰だったのです。

 職員には「一人一人の子供に合う仕事が絶対にある筈だ。それを見つけてあげよう」と言っています。15歳や16歳の子供に合う仕事を見つけるのは簡単なことではありません。何回でも探してあげて,少しでも合う仕事を見つけてやるように努力しています。

 仕事で得た報酬で,自分の欲しいものを手にいれる体験は貴重な生活管理能力です。

 支出の教育も必要です。子供たちは12〜13万円を稼ぎます。この収入で生活費全部を賄います。基本的には職員が全部預かって,必要な支出ごとに現金を渡します。最初は「ジュースを買うから120円ください」という,やりとりに抵抗を示しますが,段々と慣れてきます。施設を出て生活する段になると,まず家賃と水道代は絶対に払えと教えます。こうして衝動買いしない習慣を身につけさせます。

 精神面では「優しさ」を教えます。頭のいい子を育てるより心の優しい子に育てることを目標にしたいのです。次の世代を担う子供たちですから「いい人」に育てたいのです。どの子も,いつも褒めることが大事です。「お前を無視していない。お前を大切に思っている。かけがえがない大切なお前だ」というメッセージを常に一生懸命に伝えるようにしています。

 皆さんから戴いた大切なお金を使ってディズニーランドにも連れていきました。旅行をしたりスキーに行ったりもします。子供に夢をもたせたい。楽しい思い出をたくさん作ってやりたいという思いからです。

 悲しいこともあります。ある時のミーティングで,何がしたいかというアンケートに「家に帰りたい」というのがありました。棒で叩かれて,暴力でひきずられた家でも,子供にとって大切なこだわりなのです。とても悲しい思いでした。

 嬉しいことは,年一回のホームカミングデーです。幼い子供を連れて帰ってくる様子を見ると本当に安心します。足元に纏わりつく幼子は自分だけが愛する子であり,自分だけを愛してくれるわが子です。家族は自分の手で作るということをやってのけた子供たちの姿がそこにあります。本当に嬉しい姿です。

 私たちが何故この仕事を50年も続けてきたか。14〜15歳の一番大切な時代には友達が要るのです。難しい年齢だからこそ助けが要ります。みんな,いい子です。悪い子は一人もいません。これらの子供たちが落ちこぼれたら,また,その対策に手がかかります。でも今,助けてやれば,この先,何十年も社会を支えてくれる大人になるのです。こんないい仕事はないと思っています。

 どんな若者も次世代の担い手だと考えると,私たちは本当に幸せなことをさせていただいているという思いで日々努めております。