卓話


モーツァルトの喜びと哀しみ 遊び心の歌 

2009年3月25日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

モーツアルト劇場
総監督 高橋 英郎氏 

 音楽は文字通り音を楽しむものであってほしい。私にはそういう願望が小さい頃からありました。私は戦争中の教育を受けました。小学1年の時の試験が「君が代」独唱です。これには参りました。あまり口を動かさなかったせいでしょうか,成績は「乙」でした。以来,音楽にはコンプレックスがありました。

 戦争が終わってやっと解放されたのですが,こんどは病気をして「大気安静」の生活が6年半も続きました。

その時に知ったのがモーツァルトです。耳で尋ねたのがモーツァルトです。その中の一曲に《ディヴェルティメント ニ長調》 K136があります。

この曲はモーツァルトが16歳の時,イタリアから帰ってきて,ルネッサンスして青春のほとばしりを音楽に託した曲です。

ゲーテがイタリアを旅行して書いた「イタリア紀行」の中に「自分は北欧の霧の中に包まれていて本当の人生を知らなかった。インスブルックからブレンナー峠を越えてイタリアの海を遥かに眺めたときに,もう生まれ変わるようだった。自分は今まで人生を送っていなかった。もう故国に帰りたくない」と正直な気持ちを語っています。

私もイタリアに行って,本当に目からうろこが落ちたという感じを受けました。

モーツァルトの生まれ住んだザルツブルクの町には宗教的な束縛が非常に強くありました。大司教廷に仕えて,宗教曲を絶えず作っていかねばなりません。しかも待遇は悪くて,召し使い同様,早朝八時から整列してお客様をお迎えするような日々でした。

 そんな生活から解放されて,イタリアに向かう馬車の中で,その喜びを「僕はうれしくて,心はとろけそうです」と語っています。

私は彼の書簡集400通を全部訳しましたが,この「とろけそう」という言葉に接した時には,モーツァルトの心が伝わってくるのを感じました。

モーツァルトは三度イタリアに行って,オペラを三つも書いて,どの作品も画期的な入場者数を記録し,お客さんの喝采を博すのですが,それでも認めてもらえません。あんなガキに楽長になられてたまるものかといった反応です。

女帝マリア・テレージアの息子トスカナ大公はモーツァルトを採用しようとしたのですが,マリア・テレージアは「あんな乞食一家を雇ったら,結局お前が困りますよ」と反対します。…この時の親書が現在博物館に残っているのは,さすがヨーロッパです。歴史のきびしさを感じます。

モーツァルトは22歳でパリ旅行に出ます。

 「どんな作曲家にも負けない自信がある。どんな作曲家の曲も模倣できる」という自負をもって出かけます。ミュンヘンでは選帝侯に何度もくい下がったのですが,結局,職を得ることはできませんでした。空席がないという理由です。

 マンハイムは当時のヨーロッパで最高の演奏家,作曲家が揃っていました。当時は,演奏家が自由に作曲して演奏するという場合が多いのですが,モーツァルトもザルツブルクでは得られない刺激を受けました。

そして熱烈な恋に陥ります。相手はアロイジア・ウェーバーというソプラノ歌手です。そのモーツァルトが最も幸せな時に作った曲が《フルート四重奏曲 ニ長調》K285です。

 フルートという楽器は19世紀になってから音程が確立しました。18世紀では不確かで,モーツァルト自身も「一日これを聴いていると頭がおかしくなる」と手紙に残していますが,この第1楽章(アレグロ ニ長調)では,天にも飛翔するような喜びの音楽を書いています。モーツァルトとアロイジア・ウェーバーがどこで出会ったかを,丹念にしらべていくと,この曲に遭遇しました。モーツァルトが一番嬉しかった時だったと思います。

 しかし,第2楽章(アダージョ ロ短調)を聴くと,ちょっと悲しいのです。「愛するとは,少しずつ死ぬこと……」という詩がありますが,モーツァルトは愛と哀しみを裏腹に表現しているように思います。

モーツァルトは,愛と死の哀しさを,ニ長調とロ短調をうまく組み合わせて,歌っています。このそこはかとない哀しさの表現は,モーツァルトにしかみることのできない特性だと私は思います。

 旅先のパリで,今回モーツァルトに付き添ってくれた最愛の母を看取ります。

父親が失職するのを避けて,替わりに母親が一緒に行ってくれたのですが,モーツァルトには恋人ができて,母親をかまう余裕がなかったのでしょう。そんな寂しさのあまり母親は病気になったにちがいありません。

モーツァルトは母親をサントゥスタッシュのカタコンブに葬ったという記録が残っています。その時,作曲した生涯で最も悲しい曲が《ヴァイオリン・ソナタ ホ短調》K304です。2楽章の短い曲ですが,すばらしい曲です。

  第2楽章は二つの楽器が戯れているうちに,次第に明るみへと向かいます。これがモーツァルトの美学です。

父親は手紙に書きます「お母さんを死なせたのはお前だよ」。これにはモーツァルトもこたえたと思います。愛する息子の為に旅についてきて,馬車でパリに着いた時は,雨に打たれて袖を絞る程濡れていたというお母さんが病気になったのは当然ですが,その母親の犠牲が痛いほど分かる彼は,黙って耐えました。帰郷後もザルツブルクの大司教に仕えなければならない。彼はザルツァッハ川の流れを見ながら涙したに違いありません。

 《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調》K364の第2楽章は,誰にも言えないモーツァルトの苦悩が表れているように感じます。そしてこれがモーツァルトの転機にもなります。

就職の失敗,母親との別離,そして失恋のトリプルパンチは,モーツァルトに最も辛い打撃を与えましたが,ミュンヘンに帰ったモーツァルトは《イドメネオ》を上演します。これはオペラ・セリアとしては最高の評価を得ました。彼はオペラ・ブッフオ(喜歌劇)を書きたかったのですが,セリアを書かなければ王侯君主には認められない時代でした。

《イドメネオ》の成功に自信を得たモーツァルトは,遂に大司教と決別して,そのままウィーンで独立生活を始めます。

皮肉なことに,彼は,かつての恋人アロイジア・ウェーバーの母親と妹コンスタンツェが営んでいる下宿屋に転げ込みました。そして,やがてコンスタンツェと結婚したモーツァルトですが、肩書きもない職もない。しかし自由を得た青年作曲家です。彼は予約演奏会なるものを創設して,次々にピアノ・コンチェルトを発表します。その時期の作品が今日の珠玉の作品群になっています。

 《ピアノ協奏曲 ト長調》K453 の第3楽章は,愛鳥のむくどりの鳴き声にヒントを得て作曲したといわれています。明るく飛翔する旋律がモーツァルトの特徴です。

ザルツブルクを去ってウィーンへ出た最大の目的は,オペラを書くことでした。

ウィーンでは《後宮からの逃走》と《フィガロの結婚》を上演します。どちらのオペラも大成功でしたが,《フィガロの結婚》は特にプラハの街で熱狂的な歓迎を受けました。

《フィガロの結婚》では,アルマヴィーヴァ伯爵が若い侍女スザンナに目をつけ,強引に口説こうとするのを,血を流したりせずに笑いのうちに翻意させるというストーリーです。糾弾された伯爵が庶民の前に謝るという,フィナーレの《許してくれ奥方》のシーンは,当時としては歴史的画期的なシーンとなりました。

当時は,女性の権利が全く認められません。料理でも裁縫でも,専門家となると男です。勿論,相続の権利も認められない時代です。

女性が恋愛のチャンスを選ぶこともできないのですが,ヨーゼフ二世の依頼で前衛的な発想のオペラ《女はみんなこうしたもの》K588を作曲しました。これは21世紀を先取りしたオペラでした。

 その中での,ドラベラ(妹)とフィオルディリージ(姉)の二重唱《私は黒髪を選ぶ》で,「24時間以内に恋人を変える」のは苛酷なようですが,結局は女性に選択のチャンスを増やすことになる。男性も試されることになるオペラです。

モーツァルトの最後の1年半あまりは,皇帝レオポルト二世のフリーメイスン弾圧の時代でした。その中で,モーツァルトは《レクイエム》と並行して《魔笛》K620を作曲します。この《魔笛》こそモーツァルトの遊び心がちりばめられた,地球への遺言ではなかったかと私は思います。

私は,ヨーロッパの歌を字幕でなく,どうしても肉声の言葉で知りたいと考え,この25年間,オペラに日本語の歌詞をつけて公演しました。パパゲーノの《恋人か女房がいれば》も大いに受けましたが,一昨年は《不思議の国のアリス》を日本語でオペラ化し大好評でした。

 とても困難な仕事ですが,オペラを日本語で歌うモーツァルト劇場の活動を続けたいと思います。今後ともご支援を願います。
(本文に引用された作品は,CD・DVD・VHSの音声と映像で紹介されました。)