卓話


禅の智慧に学ぶ

2019年9月11日(水)

臨済宗大本山
方広寺派管長 安永祖堂氏


 「好語説き尽くすべからず」。中国・宋の時代に、あるお坊さんが、お弟子さんがいよいよ一軒のお寺の住職に出世をするという時に残した教えの言葉を、今日は持ってきました。

 禅の世界で悟りというものを師匠から弟子に伝えていくのは至難の業です。こうしたことは皆様の世界でも同じではないでしょうか。「財を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上なり」。有名な後藤新平翁の言葉です。人を残すことは組織のリーダーとしてどうあるべきか。

 伝統的な日本の考え方なのでしょうか、トップは刃物で言えば斧や鉈で、それを支えるナンバー2はカミソリのイメージが理想的なあり方だとよく言います。トップはあまり細かいことを言うものではなく、どちらかといえば茫洋としたタイプが良い。日露戦争の時には大山巌がトップで、それを支えたのが児玉源太郎という参謀でした。新選組でも近藤勇と土方歳三。斧や鉈は、紙を切ることはできませんが大きな木を切り倒すにはふさわしい。細かい仕事にはカミソリのような切れ味が望まれます。これが逆転するとまたややこしくなる。そのような考え方は東洋の伝統的な思想でしょう。

 2005年にスタンフォード大学の卒業式でスティーブ・ジョブズが餞のスピーチをし、最後に締めくくった言葉が有名です。“Stay hungry, Stay foolish”「ハングリーであれ」、これはわかります。しかし、「愚かであれ」は議論を呼びました。これは、あの方が長く東洋の思想、文化、禅に触れていた影響があるとよく言われます。「Stay foolish(愚直であれ)」が大切になっています。

 私達は賢くなりたいと一生懸命努力しますが、禅の世界では、修行僧はよく師匠や先輩から、「馬鹿になりなさい、馬鹿になって修行というものはできるものだ」と言われます。そうした世界は言葉を越えています。それを表わしているのが、「好語説き尽くすべからず」です。

 解釈が色々あります。例えば、「人を褒めるというのはあまり褒めすぎてもよくない、増長するぞ」。あるいは、「どんなに言葉巧みに説明しても禅の奥深い世界というものは言葉では説き尽くせないものだ」という意味にも用います。「言葉というものは非常に難しいから、全て説き尽くしてしまってはいけない、ある部分は本人に考えさせなければならない」とも言います。

 関西の経営者の方々はよく勉強会をされ、その時に色々な先人のテキストを用います。一番人気は、伊庭貞剛。住友家の大番頭として広瀬宰平と一緒に「別子銅山中興の祖」と言われる人です。長く天竜寺で座禅の修行をしていたため、禅の心を経営に活かす本が残っています。別号を幽翁。関西の経済人の方々は勉強会で『幽翁』の輪読をされていました。伊庭は「言葉は八分でとどめて、あとの二分は、むかふで考へさすがよい。わかる者には云はずともわかる。わからぬ者にはいくら云ってもわからぬ」(『幽翁』住友修史会、1981)という言葉を残しています。これが正に「好語説き尽くすべからず」でしょう。

 皆様は、ご自分が起こされた事業の後継者、ご自分のポジションをどの人に伝えるか。仮に人を定めたとしても、どのようにご自身が会得した経営の智慧をお伝えになれるか。 昔の中国の人は面白いことを考えました。鳥が孵化する時には雛が卵の中から殻をくちばしで突いて割ろうとする。それを「啐」と呼ぶ。同時に母鳥が外から殻を割ってやろうと突いてあげることを「啄」と言う。だから、「啐、啐」に対して「啄、啄」と応えるタイミングがぴたりと合った時に、晴れてひな鳥が誕生する。これを「啐啄同時」と言うのだそうです。

 禅僧がそれを修行者と師匠の関係に喩えるようになりました。修行者が自我の殻を破ろうと必死になっている時、自分のエゴを破り仏の世界に生まれ変わろうとしている瞬間を見極めて師匠が適切なアドバイスをしてあげられれば、弟子はうまく悟りの世界に生まれ変われるものだ。そのように、母鳥と雛鳥の関係を師匠と弟子の関係に例えて、禅の世界にも「啐啄同時」があるとしたのだそうです。

 ところが、禅の世界は奥深く、別のお坊さんはそれを否定しました。「作家は啐啄せず、啐啄すれば同時に失す」。作家とは優れた禅僧、立派な師匠という意味です。「立派な師匠は啐啄を用いない。もし、啐啄をすればかえって失敗してしまう」。

 弟子が一生懸命頑張っている時に、師匠がもう一つアドバイスをくれたなら、もうワンステージ上がれることはわからないでもありませんが、禅の世界ではそれを否定するのです。それは人工孵化でしょう、と。

 近年の江戸の絵画ブームに乗って有名になった禅僧・白隠禅師に、面白いエピソードがあります。若き日の白隠禅師が美濃のお寺に居た時に、夏の早朝、庭に出ると、庭の木の枝先で蝉が一匹、羽化しようとしている。なかなかうまく羽が伸びずにいるので、可哀想に思って羽を伸びるように指でツンツンとしてやった。ところが力の入れ具合が悪かったのか、蝉の羽がくっついてしまい、上手く飛ぶことができなくなった。それを見て、白隠禅師が思わず感じ入った。禅の世界、師匠と弟子も正にこの通りだと。「作家は啐啄せず」。禅の世界で師匠と弟子の関係もどちらで行くのか、今なお議論を呼んでいるところです。

 さて、後継者を見つけて養成する場合に大切なことは、知識と智慧を区別することではないでしょうか。

 ご自分が得た知識は情報ですから、知識は他人に伝えることができる。ところが、智慧は伝えることはできないものです。知識と智慧は違う。大事なことは智慧。それをどう後継者に伝えることができるか。

 さっき、伊庭貞剛の言葉のように、ある程度までは言えるけれど、そこから先は本人に気づいてもらうしかないということです。これを下手なことをすると、その人が気づく、智慧を得ることを妨げてしまうことに通じます。

 禅の世界はただひたすら釈尊以来2500年、このことを大切にして参りました。以心伝心と申します。そうした伝え方で智慧の世界を後世に伝えようとしてきました。その手段として座禅、禅問答を行う訳です。

 私も修行僧として15年間、師匠・平田精耕老師の下で、「公案」という禅問答の問題を与えられて一生懸命にそれを解決しようと頑張ってきたつもりです。ところが、今度ご縁を頂いて、浜松・方広寺という修行道場で師として、弟子が禅の問題に対して答えを持ってくるという、逆の立場で修行をさせて頂いています。もうイライラします。

 例えば、禅の問答で「右手と左手を打つと音がする。片手の音はどうなんだ」という有名なものがあります。そうした問題を修行僧に与えます。そうすると、修行僧は一生懸命に「片手の音とは」と答えに来る訳です。「片手の音は万物の音であります」、「宇宙に響き渡る音であります」等、理屈をこねてきますので、聞いているほうはイライラし、切れかけたのですが、ふと思いました。「あ、彼らの姿は30年前の自分に他ならない」。よく師匠が我慢してくれたものだなあと思いました。

 禅の世界での指導者の務めで一番大事なことは、修行僧、弟子が自分の力でその智慧に目覚めてくれるのを待つことです。伝統の世界ですから、こちらは伝えられている答えは知っています。しかし、それを教えたのではその修行者のためにならない。だから待つ。これがなかなか大変です。教えられることと教えられないことの違いに、彼らに自分で気づいてもらわなければ仕方がないからです。

 では、どのようにそれを考えるのか。彼が本当に智慧の世界に目覚めたのかどうか。皆様方の世界でも後継者に伝えられることと伝えられないことがありますが、その場合にどうすればわかってもらえるのか。

 科学の実験の時に音叉がありました。2つ音叉があって、片方の音叉をポーンと鳴らすと共鳴できるものが共鳴します。人格一つひとつは独立していますが、同じ周波数であれば共鳴できるはずです。それを繰り返して確かめていく。共鳴できることに気づいたところに悟りの智慧が現れてくるんです。

 以心伝心は、その周波数のようなものが伝わると思っていただけたらどうでしょう。それを繰り返していくうちに「あ、この人はわかってくれたな」と考える。禅の問題は沢山あり、それぞれの問題が仏の世界の周波数を持っています。修行僧はそれを一生懸命自分で解決しようとするのではなく、仏の世界という周波数に自分というレシーバーの周波数をうまく合わせられれば仏の世界は入ってきますし、目の前に現れます。そのようにして、我々臨済宗は、座禅を通して仏の世界の周波数に自分を合わせる訓練をしているのです。仏の世界を現実の世界にどう見ていくか、どう生かしていくか、これが10年、15年かけて行う修行の大切なことです。

 「好語説き尽くすべからず」。皆様方お一人おひとりの世界で、ご自分が一生をかけて会得されたものをどのように次の世代に教えていくかという時は覚えておいて下さい。全て教えられるものではないし、全て教えるべきでもない。本人に気づいてもらうように最後は待つことが大事になる。でも、必ず音叉と音叉が共鳴するように分かち合える世界はある。こうしたことは禅の修行僧の世界だけではなく、どの世界であれ、頂点に至り、頂点を極めたと自負された方ならば、頷いていただけると私は信じています。


    ※2019年9月11日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。