卓話


生き方雑記帖2015

2015年4月22日(水)

作家 山本一力氏


 かつて、イギリスのサッチャー首相は、再選を目指した選挙運動の中で、「人材は社会ではなく家庭にあり」と言われた。その時、私はまだ小僧でしたから、何の意味かわかりませんでした。その時代のイギリスは「老いたる大国」と呼ばれて、日本はもうイギリスに学ぶものはない位のことを言われる状態でした。そんな中、サッチャーさんは信念を持ってこの言葉を言われました。

 今の日本を見ていて、私は本当にそのことを強く思います。家庭のしつけがなっていない者がそのまま世の中に放たれていき、思うがままに振る舞う。しかし、私が高卒で社会に出た1966年頃は、こわい先輩だらけでした。会社の上司で大正生まれは当たり前で、明治生まれの方も数多くいた。そういう人達が鍛えてくれたのです。

 中学3年で東京に出てくるまで過ごした高知での時代を、私はこの頃何度も何度も思い出します。周りにいた大人は一人の例外もなしにあの戦火をくぐってきていた。明日が来るかどうかわからない中を、皆がひたむきに力をあわせて明日が来ることを信じて生きてきた。そういった人達が年下に対してものを言って下さる時の言葉は大変に重みがありました。何をやっても、その人達がくぐってきたその重さを受け止めて見ていました。そういう人達の後を追いかけて高卒で旅行会社に入りました。

 つい先日、吉田茂さんと池田勇人さんの「昭和の偉人伝」というものをテレビで見て、いろいろなことを思い出しました。池田首相は、長い演説の中の一つのフレーズとして「所得が足りない者は麦を食べればいい」というようなことを言われた。ところがマスコミは、「貧乏人は麦を食え」と全然違う言葉でそれを広めた。そのことに対して、池田総理の次女に質問をしたら、もうまったく当たり前という顔で、「うちも麦を食べていました」と言われました。つまり、志を持って国を動かしていこうとする人達が、命をかけて、日本をどうしていくかを真剣に考えていたのです。

 安保闘争があった時、私はまだ小僧でした。樺美智子さんが亡くなったことをマスコミの報道でしか知りませんでしたから、ひどいことをするものだと思って、為政者側のことは考えていませんでした。社会の風潮として言われていることしか考えていませんでした。でも、実際はそうではなかった。あの時代を動かしていた政治家の方々が命をかけてやったことで、今日本があるのだと強く思います。

 ところが、今、日本でしつけのされていない若い世代がどんどん前に出てきています。今日こちらにうかがうのに地下鉄を乗り継いできました。ホームから電車に乗る時から人を見ないで手元の携帯電話を見て、ぶつかろうが何しようがそこはもう自分の空間として人に気を払わない。車両の中でも例外なしと言っていいぐらい携帯電話を見ています。

 一体これで大丈夫なのか。人はよくグローバル化云々とお題目のように言います。「あなた本当にわかってグローバル化と言っているのか」と私は問いたくなります。毎年、私は仕事で2カ月ほどマンハッタンに旅をします。そこでの足は地下鉄とバスです。どちらも安く、24時間走っていて、どこへでも行けます。その地下鉄に乗る時も乗った後も、降りる時も皆人を気にしている。それは、どんなことが起きるかもわからないから、自分の身は自分で守るということで気を配っているのです。見ず知らずの人がエレベーターですれ違うと、にこやかに声をかけてきます。相手に対して「あなたに危害を与える人間ではないんですよ、あなたに敵意を持っていませんよ」と示してその空間の安全を保とうとしているのです。地下鉄の中で自分だけの空間のように、人との関わりを考えずにいるような人は、それほど多くありません。

 グローバル化とは、全然知らない文化を持っている人達がここに移ってきて一緒に暮らしをする中の一人に自分がなるということです。英語を話せる云々には大いなる疑問を持っています。話せるものを持っている人間に英語という道具を与えてやれば、話すことはあるでしょう。しかし、何も話すものを持っていない人間が英語だけをそこに詰め込まれていった時に、果たして何が出てくるか。

 「人材は家庭にあり」は、きっとこういうことなんです。やらなければいけないことの一番の最小単位は家庭ではないか。そこでしっかり物事を叩き込んでやれれば、社会に出した後もその子は社会で順応しながら、相手と自分との距離感をうまく保ちながら、社会の一員として過ごしていくことができる。そういう人間が育つ次世代まで待てば、イギリスはもう一度昔の栄光を取り戻すことができる。サッチャーさんが思いを込めて言っていたことを果たして今、日本の為政者と言われる人達がどこまでそのことを感じているか。私は強く強く疑問に思います。

 私は実はロータリークラブには深い恩義があります。私は14歳で東京へ出てきて、渋谷区富ヶ谷の読売新聞の専売所に住み込み、朝刊夕刊を配って、渋谷区立上原中学校と都立世田谷工業高校を卒業しました。その4年間、本当に身近なところにロータリークラブがあったのです。

 14歳で初めての東京の冬を経験しました。高知では雪は降ったことはありません。ところが、東京は雨が降ると指先がちぎれそうになる氷雨が降り、雪も降る。そんな今まで知らなかった冬をまといながら新聞配達をやりました。当時の新聞は、朝4時にトラックが銀座の読売新聞から運んできました。それを整理して配達に出ました。芦原さんという方が渋谷の大山町に住んでおいでで、そちらに行くのが5時半から6時位でした。クリスマスの朝、毎朝のように新聞をポストにトンと入れたんです。その音と同時にドアが開いて、芦原さんが出てこられた。ガウンを来ておられました。昭和37年に、ガウンをはおっておられる人など世の中にそれほどいませんでした。そして、私にプレゼントを下さった。「クリスマス、おめでとう」と。銀座の松屋デパートのブルーの包装紙に包まれたプレゼントでした。見ず知らずの方からクリスマスプレゼントをいただいたのは、生まれて初めてでした。後の配達をぶんぶん飛ばして、専売所に戻って開けたら、中にハンカチとロータリークラブのグリーティング・カードが入っていたんです。当時の私はロータリークラブが何であるかも知りませんでした。でも、いただけたことがうれしかった。一年が過ぎて、クリスマスの朝が来ました。私は今まで以上にでかい音がするように、ドンと入れたんです。やはりドアが開いて、芦原さんがまたプレゼントを下さった。4年間、新聞配達をやっている間、プレゼントをいただきました。

 そんなことを社会に出た後はすっかり忘れていたのですが、直木賞をいただき、講演をするようになった時、ふっと思い出したのです。「そうだ、私はこういう恩義を受けていたんだ」。その時の状況がわっと浮かんできます。芦原さんがドアの内側で耳を澄ましていつ来るかわからないその音を待ち、音と同時にさっと出てこられ、なんの見返りも求めずに、ただただ新聞配達をして学校に行っている小僧にご苦労さんの思いをこめてプレゼントを下さった。そのために、芦原さんはあの寒い朝、待っておられた。そう思うと矢も楯もたまらなくなり、この話を六本木のロータリークラブで申し上げたら、たまたまそこにおられた方が「芦原さんまだお元気ですよ」とおっしゃり、その方のご紹介でお達者な芦原さんにお会いすることができました。もう何年も前のことです。ご主人は銀座ソニービルを設計された世界的に有名な建築家の芦原義信さんでした。そうした方から私は恩を受けて、今があります。冬が来る度に、あの時、あの朝、こうして元気づけて下さったことが、今私が一丁前のことを言っていられる源であるのだということをいつも自分の中で繰り返し思います。

 「人材は家庭にある」。芦原さんがプレゼントをくださった時代は、口でそんなことを言わなくても、社会に対して自分は感謝をして生きていくのだ、この新聞配達を見守って下すっている方がいるのだということを教わることができました。社会の多くの人達が自分の立ち位置と相手の立ち位置との間合いをはかりながら、常に相手がどうしているかということにも目を配っていた。ですから、安心して生きていることができました。

 日本は本当にすごい国です。人の心はものすごく優しい。先だって、イルカが大量に打ち上げられた時、冬が戻ったかのような寒い日に、イルカに海水をかけようとして100キロも遠くから来た人が何百人といた。こうしたことはシー・シェパードの人は一切言わない。でも、日本人は世界の民族の中でも図抜けて豊かな心、優しい心、人に対する思いやりを持って生きている民族なのだと、私は自分が歩いてきた来し方を振り返れば、強く思います。

 ここにお集まりの皆さんが次代を担っていこうとする若者に一言二言教えてあげられることをして下されば、あと10年過ぎればきっとまたいい形の社会が、今以上に豊かな社会が築けるはずです。どうか皆さんの力で後の世代を大事に育ててやって下さい。