卓話


我が国の医療は大丈夫か? 

2006年8月2日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

伊藤病院 院長
伊藤 公一君 

第4111回例会

 我が国の医療は大丈夫か否かを検証するに当たって、まずはどのように医師が教育を受けているかをお披露目いたします。現在,医学部は全国に80校あります。国公立が50校,私立が29校、それに防衛医科大学校です。入学試験は通常、国公立5教科,私立3教科で実施されております。最近は医学を学ぶ上で生物の履修が不可欠ということから受験科目に生物を必修化する動向がございます。

 私が30年前に医学部受験をした頃より取りいれられてまいりましたが,人格観察の目的で面接と小論文が課されております。とはいえ,5分や10分の面接で職業適性を見極めるのも難しく,最近は高校よりの推薦入学制度が28校で積極的に実施されております。その他、帰国子女枠が13校,学士入学制度が29大学で採用されております。

 医師数の地域格差が大きな社会問題となっております。特に僻地における医師不足が深刻であり、地方の大学では僻地医療に意欲をもつ受験生を求めております。現在、地域枠入試を設置する大学は16校あります。島根県と鹿児島県がユニークであり,地元の出身者に限定し、僻地医療の現場を実地体験したうえでの報告書を提出させ,その適正を評価するところまで行っております。

 以前より医学部は6年制です。その間に教養科目,基礎医学,臨床医学を段階的に学びつつ,臨床実習を行った後に医師国家試験に挑みます。最近、それらの教育内容に大きな改革が行われました。平成13年から 臨床実習の拡充を目指し4年生から5年生になる際に,臨床実習開始前試験が全大学供用で実施されております。通常の基礎、臨床医学科目に加え、医の原則や安全管理から始まる基本事項も評価する客観テストとオスキー(病気の役を演じる役者に対して診断を行う方法)と呼ばれる模擬診断テストまでに合格しなければ,臨床実習に進めないこととなりました。

 臨床実習の内容も,臨床見学型(医学生は医師の診療を見学するのみ),模擬診療型(実際の診療とは別に患者の協力を得ての模擬診療)から,クリニカルワークシップと称する診療参加型臨床実習(医療チームの一員として責任を果たす)に発展、現在は8割の大学で採用されております。

 附属の大学病院のみで実習を受けていると医療人としての視野が広がらないという懸念から民間の診療所、病院に出向く学外臨床実習も行われております。
  
 そして、これら6年間の教育課程を修了し晴れて卒業が出来ても医師国家試験に合格をしなければ医師へはなりません。

 医師の資格取得について歴史的な変遷を申し上げます。江戸時代には誰もが自由に医師と標榜することが出来ました。もちろん古書を読んだり先輩に教わったりしていたようですが,勝手に称号出来たことより社会的地位は低かったものです。東洋医学の時代ですが、明治7年に医制が制定され、正規の医学校を卒業した者と医術開業試験に合格した者でなければ医師を名乗れない時代が続きました。余談ですが,野口英世は会津若松の開業医の書生をしながら3年間の勉強のうえ基礎医学試験にパス。その後は臨床医学試験を受けるために1年間東京の予備校に通ったそうです。

 その後に、なぜか公的な資格試験はなくなり,大正5年から昭和21年までは,医学校出身者であれば試験を介さずに医師になれる時代が続きました。 第2次世界大戦の敗戦とともに,GHQ指示のもとドイツ医学から米国医学への変更が余儀なくされ,いわゆるインターン制度が昭和46年まで続きました。

 インターンは,卒業後の1年間、診療見習いをしたうえで国家試験に挑む制度でしたが,見習い中の身分が不安定であることが学園紛争の火種となり中止されました。

 昭和46年から現在までは一貫して,同じスタイルで国家試験が行われておりますが,その内容は次第に厳しくなってまいりました。私の受験時代には1日半であった試験日が3日間となり,設問数も260題から500題へと増えました。正答出来なければ合格の出来ない必修問題や、誤れば合格の出来ない禁忌肢問題(受験生は地雷と呼んでおります)も採用されております。80%から90%の合格率で推移しており,昨年は7,742人の新医師が誕生しております。

 国家試験に合格した時点で医者の端くれとはなりますが、職業人としては全く無力であり、その後に卒後臨床研修を受けなければなりません。この研修をインターンと称す方が多いわけですが,かつてのインターンは資格取得前の卒前教育であり、現在のものは卒後教育であります。長い期間、努力義務と呼ばれるあいまいな制度が続きましたが、3年前より完全義務化されました。

 さしたる疑問も持たずに以前は7割の新医師が自身の卒業した大学附属病院か,出身地の大学病院に入局(就職)しておりました。余程の事情がない限り断られることもありませんでした。ところが、そこで行われていたストレートプログラム(自身の専攻した診療科のみの仕事に全うする)と大学医局の一極支配に疑問が呈され、大胆な改革が成さたわけです。

 いきなりの専門医志向は否定され、医師であれば、あらゆる病態の患者さんを診ては適切な専門医療に導く(いわばゲートキーパー的役割)、最低限の初期治療(プライマリーケア)を誰もが出来なければならないといったことを目標に,実に10年間の議論を経たうえで,現在の臨床研修制度が始まりました。

 新制度の基本的考え方は,医師としての人格を涵養する。プライマリーケアの理解を深めて全人的な医療,基本的な診療能力を修得する。アルバイトをしないで研修に専念できる環境を整える。以上の三つです。

 受け入れ側の病院界よりも大きな関心が集まり、一定の基準を満たしたうえで臨床研修が行える病院が2,297施設にまで増えました。大まかに言えば全病院の1/3という数字です。当事者である学生の希望も十分に聞きいれマッチングという公正な手順で研修先を決定されております。要するに医学部出身者にも正式な就職活動が強いられるようになったわけです。

 学生時代の臨床実習が繰り返されるだけではないかという疑問も囁かれておりますが、このドラスティックな改革により、最初から専門性に走らずに全ての診療科目をジェネラルに学んでからという目的は達成されております。

 2年間の臨床研修の後に外科医や内科医といった専門医への門戸が開かれます。大概の医師が基幹領域である18の学会に所属し,5年間以上の専門診療に従事したうえで,資格審査に挑戦し専門医となります。つまり,8年から10年の修行をしなければ、まともな医師とは名乗れないということです。ちなみに医師が関わる学会は国内だけでも1,700以上あります。

 現在の臨床研修のシステム化では、生命科学の根幹を担う基礎医学を志す若人が少なくなってしまうという危惧も叫ばれておりますが,今後は、全ての医師に、とにもかくにもまずは臨床医のプリンシプルを知ることが強いられております。

 その後の医師生活の方がはるかに長いわけで生涯教育が最も大切ではありますが、こちらについては現在のところ,自己責任、自助努力に任されているところであります。医師免許の更新なども提言されておりますが、それぞれの医師が,所属する学会や医師会などのコミュニテイの中で熱心に勉強に取り組んでおりますのでご安心ください。

 現在,我が国には約27万人の医者が存在しております。そのうち圧倒的多数の者は病院か診療所で臨床に携わっております。20床以上の入院環境を有する施設が病院でありますが、その数は昭和59年から増加し平成2年には10,100施設にまで増えましたが,現在は9,077と減っております。うちわけは80%が民間病院,20%が大学病院,公立病院です。診療所は10万近くあり,殆どの施設が個人立のものです。診療科目別医師数を見れば,病院で働く医師は内科・外科・整形外科がベスト3。診療所開設者は内科・眼科・整形外科がベスト3です。最近、新聞などで盛んに話題となる産婦人科,小児科,麻酔科領域の医師不足は現実のことであり、対処が急がれております。

 少子高齢化は大きな社会問題でありますが、健康を掌る医師の平均年齢は48歳と現在のところ働き盛りの集団です。80校ある医科大学のうち32校は昭和45年以降に設立された若い学校であり,それらの卒業生医師が平均年齢を下げております。病院で働く医師の平均年齢は41歳,診療所の開設者医師の平均年齢は58歳と開きがあります。

 直近に厚生労働省が新臨床研修修了者を対象に行った大々的なアンケートを行いました。集計を見ると,医師としての人生目標について社会貢献と診療技術向上を第一義としている者がほとんどであり、収入や地位、名誉に執着する者はごく僅かでありました。我々先輩医師の生き様を垣間見た結果の数字であり、日本の医者は捨てたものではないと言えます。

 望ましい医師像というのは大きく分けて,三つあります。まずは人間性です。教師や弁護士と同様にプロフェッショナルな資格が持たされております。常に聖職についていると自覚しなければならず、自己犠牲を払うとともに相手を思いやる心がなければ医師としては不適格者です。

 病院で働く者には医師以外にも30種以上の国家資格があり、様々な職責を持って任務に当たっております。その中にあり医師は常に先導的役割が求められます。よってリーダーシップも不可欠です。

 医師の仕事には科学的な思考能力が欠かせませんが,単純なIQ勝負ではありません。頭脳明晰な秀才だけども冷たい人柄の人物よりは,少しばかりお人好しで人間味のあふれる人が医師には向いております。

 医者は誰でも自分の患者さんの「命の恩人」を目指しております。日本中の1CU(集中治療室)では待ったなしの医療が行われております。そこで患者さんが受ける投薬、点滴内容と排出される汗や尿の量、成分を,分単位に時系列で一枚のチャートに正確に記し,指導医が研修医を徹底的に鍛えているわけですが,我々はその命綱であるチャートをバランスシートと呼んでおります。

 最近私どもの業界は,経済のバランスシート(財務諸表)が重用され、皆が大いなる閉塞感を持っております。甚だ危険信号ではありますが、本日お披露目したような厳しい教育システム、清らかな医者の意識をご理解頂ければ,「我が国の医療は大丈夫だ」と強く結論付けてもよろしいものと存じます。