卓話


ロータリー理解推進月間例会
Memories of Tokyo in the 1950s

2010年1月13日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

C.W.マクドナルド君 

 私は1950年4月に日本に来ました。今年はちょうど来日60周年に当たります。また,東京人としての還暦を祝う年でもあります。

 日本での初めの30年間はNCR Japanで働きました。私が東京RCに入会したのは1981年4月,Rolex Japanの社長就任の1年後でした。推薦者は藤山覚一郎氏です。

 懐かしい思い出がたくさんあります。60年の経験を25分に纏めるのは至難の業ですから,今日は,戦後間もなくの1950年代に絞ってお話しします。

 1950年4月25日,私は,香港からのBOAC機で羽田空港に着きました。当時の羽田空港は米空軍基地で,民間機は限定的に利用が認められていました。入国・税関審査は日本の官憲が行っていました。着陸して30分程して私は到着ロビーで,上司となるGeorge Haynesの運転手に迎えられました(Haynes氏も英国人で1950年代には東京RCの会員でした)。

 都心へは第一京浜(国道1号線)で大森,品川経由で入りました。その日は暗い雨の日でした。道路は1945年の空襲で凸凹です。大きな穴も多数ありましたが,運転手はそれをうまく避けながら,何とか都心まで来ることができました。新しいビルの建設はまだ始まっていません。くすんだビルと小さな家がどこまでも続いていたのを覚えています。激しい空襲の傷痕が残る家もあり,その日の陰鬱な天候と相俟って,一体どんな生活が待ち受けているのかと非常に不安を覚えたものです。

 走っているのは米軍の車,それもジープが殆どでした。たまに来る日本のタクシーは木炭車だったそうです。

 都心には大きなビルもありましたが,全体の印象は荒涼としており,単調さを破るような彩りは見つけることはできませんでした。

 私の車は,ライト氏設計の旧帝国ホテルから皇居前広場を通り大手町に向かいました。パレスホテルの前身,ホテル帝都が私の宿舎だったのです。

 私の公式な身分は「外国人貿易商」。連合軍総司令官の許可を得て,商業活動を行う外国人居住者のことです。私の最初の仕事は日比谷交差点の元三信ビルの隣にあった米国憲兵司令部に行って登録して,主食などの食料を買うのに必要な配給手帳を貰うことでした。 外国人貿易商は,米軍の施設であるPXでの買い物はできませんが,銀座2丁目の旧明治屋がOSS(外国人専用の舶来品の店)でした。OSSには,ちょっとしたレストランやカフェがあってアメリカ式食事を出していました。私の事務所のすぐ近くだったので,お昼をよく食べに行きました。戦時中のロンドンで育ったティーンエイジャーの私は,こんなにおいしいハンバーガーを食べたことがありませんでした。何物にも変え難い程おいしかったことを覚えています。

 ホテル帝都は,戦前は官庁のビルでした。戦後は外国人貿易商専用ホテルの一つとして使われました。ホテル東京(東京駅丸の内北口の向かいにありましたが今はありません)と芝パークホテルも同じ専用ホテルでした。

 帝国ホテルは米軍将校専用,旧丸の内ホテルは英連邦軍将校専用でした。当時の東京には(1964年のオリンピックに向けて60年代初めにオータニ・オークラ・ヒルトン・パレスなどが建設されるまでは),ホテルらしいホテルはありませんでした。

 当然のことながら多くの外国人貿易商が戦後のビジネスチャンスを狙って来日していたので,数少ないホテルのベッドは貴重でした。1950年4月25日にホテル帝都にチェツクインした時,「他の3人の客と相部屋でベッド一つをやっと確保した」と告げられました。部屋に入ると二人の客がベッドで本を読んでいました。ダブルの部屋にベッドが4つ並んで,バスルームは一つ。椅子を置く場所もありません。この部屋に一週間居る間にもっとよい部屋をと催促し続けて,最低6週間泊まることを条件に2人部屋に替えてもらいました。数週間後滞在して幸せなことに一人部屋に移ることができました。何と贅沢なことでしょう。

 私の事務所は銀座3丁目の角,現在のシャネル・ビルにあったので,通勤は,ホテル帝都から毎日歩いて通っていました。

 1950年代の東京は今とは大違いでした。都電が銀座通りや主要な道路を走っていました。自動車は,みんな戦前のヴィンテージ物ばかり。銀座通りの両側には,新橋から京橋までたくさんの屋台が並んで,アメリカのGI向けに日本の土産物などを売っていました。

 銀座や新宿や渋谷の繁華街には闇市がありました。露店を出して舶来の日用品を売っていました。当局も黙認していたのでしょう。闇市は講和条約調印の1951年までの1年間ほどは繁盛していました。

 今でも深く心に残っていることが一つあります。道行く人々が敗戦で多くのものを失ったにもかかわらず,落胆もせず不満も言わず,いつも身奇麗にしていたことです。さらに印象的だったことは,日本人であることに誇りを持っていたように見受けられたことです。このことは今でも決して忘れることができません。つい今の社会と比較してしまうのですが、今とは少し違うように感じています。

 終戦直後には,私たちは複数の通貨を持ち歩くことが普通でした。なぜか日本円のことを「現地円」と呼びました。1ドル360円,1ポンド1,008円の固定レートでした。米ドルは王者,何でも買えました。MPCという軍票が米軍基地やPXで公式に使用されていました。米軍人やその家族と知り合いになり,軍の通貨を使っていました。

 外国人貿易商には「外国貿易商人支払い証書」がありました。これは,銀座のOSSなど指定された店で使えるクーポンでした。

 英連邦軍の通貨もあって,その基地である恵比寿キャンプでは,英国,オーストラリア,カナダ,ニュージーランドなどの軍の通貨を使っていましたので,5つの通貨を持ち歩いていることが普通でした。

 銀座が職場だったので,新橋から京橋あたりは馴染みの界隈になりました。仕事が終わると,毎晩のように日本人の友人と銀座界隈で過ごしました。三原橋のキャバレー・ミマツやダンスホール・フロリダ,新橋のショーボートなどは行きつけの店でした。少し後には,金馬車,銀馬車,モンテカルロ,クラウンなども楽しい思い出の店です。
 
 日本食の小さな店は,特に新橋や有楽町のガード下にたくさんあり,銀座には良いビヤホールもありました。ライオンビヤホールは当時も繁盛していましたし,小さなPilsen Beer Hallもにぎわっていました。でも,洋食のレストランはほとんどありませんでした。新橋近くにあるIrene's Hungariaでは,おいしいグラーシュが食べられました。並木通りのKetel'sやLohmeyer'sなどのドイツレストランは戦前からありましたが,戦後すぐに再開していました。インド料理のナイルが昭和通りにオープン,今でも営業しています。1953年には瀟洒なフランス料理のグリル桃山が銀座の事務所の隣にオープン,後に十字屋ビルになりました。

 ほとんどのバーやクラブは,軍人の立ち入り禁止。それを表示することが義務でした。突然MPが現れ,外国人には身分証明書の提示を求め,軍関係者は直ちに外に連れ出されました。

 当時はテレビ以前の時代で,映画全盛期です。有楽座や日比谷映画,東劇にはよく通いました。こじんまりした銀座文化座や新橋の前線座,鍛治橋座にも行ったものです。いつも座席を見つけるのが大変でした。

 仕事で時々,丸の内界隈の事務所を訪問しました。日比谷の第一生命ビルは,マッカーサー元帥の執務室のあったGHQでした。元帥はアメリカ大使館の公邸に泊まって,毎日GHQには車で通っていました。12時15分には第一生命ビルを出て大使館に戻り,昼食後また戻るパターンは滅多に変わりません。元帥を畏怖する日本人は多く,一目見ようと常に人だかりがしていました。私も一度通りかかって,人だかりに加わったことがありました。12時15分ジャストに,元帥がトレードマークの帽子を被って,補佐官とMPに挟まれて大股に中央階段を降り,大使館に去って行くところに出会いました。

 その後間もなく,1951年4月にマッカーサー元帥は朝鮮戦争の処理を巡ってトルーマン大統領に解任されました。驚いたことに,出発の朝,6時半に30万人もの日本人がアメリカ大使館から羽田までの沿道に並んで見送ったとのことです。このことはNippon Timesで報道されました。空港では,吉田首相以下全閣僚がモーニングの正装で見送り,マッカーサー夫妻は7時に離陸しました。

 私はホテル帝都に2カ月滞在した後,祖師谷大蔵の小さな家に引っ越しました。これで
私の行動範囲は銀座以外にも広がりました。

 それからの1年半は,毎日小田急と山の手線で通勤していました。祖師谷にもたくさんの思い出があります。当時の祖師谷は町ではなく村といった環境でした。舗装はなく,雨の日に夜遅く帰宅した時は大変でした。家は駅から600メートル程の所ですが,道がぬかるんでひどいものでした。やむなく輪タクのお世話になりました。

 1950年代の東京にはまだ,味わいのある美しい名前があちこちに残っていました。例えば,木挽町,材木町,霞町などです。尾張町という名前を覚えておられますか。銀座4丁目交差点あたりです。由緒ある名前を実用的で味気無い名前に変えてしまったのは残念なことです。こうした古い名前は昔の東京の精神を体現していると思います。偉大な歴史と遺産そのものだと評価しないのは残念なことです。

 東京の1950年代の,ほんの表面しか触れることができませんでした。もっと触れたかったこと,触れるべきであったことがたくさんあります。ただ,今の東京は,1950年代とは大違いだとだけ申し添えておきたいと思います。勿論,生活はずっと快適になりましたが,素朴な幸せな当時を思い出すとノスタルジアを禁じ得ません。それ程に1950年代は本当によき時代だったと思います。