卓話


東北すくすくプロジェクト終了報告会

2022年3月30日(水)

東京RCチャレンジ100委員会委員長
三幸(株)
代表取締役会長 橋本有史君


 東北すくすくプロジェクトは、2011年3月11日に東日本大震災により大きな被害を受けた三陸地域に於いての「新しい命への支援」をテーマに、被災地の母子の支援を行ったプロジェクトです。プロジェクト自体は2011年7月1日に始まり2021年6月30日をもって終了しました。会員の皆様にはすでに10年間の活動の報告書を送付済みですが、ここで改めて10年間の報告を行うとともに、このプロジェクトを通じて発見し学んだことについてお話ししたいと思います。

 まずプロジェクトの概要ですが、実施地域は岩手県陸前高田市、宮城県気仙沼市及び東松島市、そして2018年からは福島県の原発事故被災地である浪江町においても開始致しました。10年間の期間中の主な事業ですが、震災翌年の2012年に最初のプロジェクトとして陸前高田市に母子支援センター「あゆっこ」を建設し陸前高田市に寄贈致しました。

 2014年には、日本で初めての大型グローバル補助金プロジェクトである、気仙沼すくすくハウスの建設を行いました。この気仙沼すくすくハウスは「あゆっこ」と同じ母子支援施設ですが、大変人気の施設となり当初は週3日の開所でしたが利用者の強い要望により週5日の開所となりました。

 これらの施設整備に並行し、これらの施設また東松島市に於いて多くのコミュニティプログラム、人材育成プログラムが行われました。このような形で進めて参りましたが、気仙沼市に於いては2018年4月に気仙沼児童センターが開所しそこに新に母子支援施設が整備されたため、気仙沼すくすくハウスはその使命を終えて閉所するとともに、新たに支援の手薄な新月地区に子育て支援施設「わくわく気仙沼」が開所し、その開所にあたっての支援を当クラブで行いました。

 2021年6月末には本プロジェクトの終了イベントとして、オンラインセミナー「しなやかな災害対応と子育て支援」が開催され、東北すくすくプロジェクトはその事業を終了しました。2020年は事業は行わないものの、報告書作成や報告会、事業の締めくくりとしての調査研究事業を行なっています。

 当プロジェクトの事業費ですが「あゆっこ」建設に2100万円、グローバル補助金プロジェクトである気仙沼すくすくハウスの整備で2000万円、各種事業やプログラムで4000万円、2022年の終了事業(残資金の寄付も含め)で770万円と合計で9000万円程度の事業となりました。

 このプロジェクトへの支援ですが、「あゆっこ」の建設には姉妹クラブのアードモアロータリークラブから多額の支援を頂き、またロータリーの東日本震災復興基金から1000万円の寄付を頂いています。この事業には当クラブも1000万円を支出しています。

 グローバル補助金プロジェクトとしての気仙沼すくすくハウスは、日本で初めての大型プロジェクトとして2000万円を超えるプロジェクトとなりましたが、このプロジェクトには世界中17のクラブ、地域からの支援を頂いています。このほかに当クラブからは毎年、地区内クラブに対して寄付の要請を行い37の地区内クラブより支援を頂きました。当クラブ内に於いては10年にわたり会員一人あたり年に1万円の寄付を頂きました。改めて御礼申し上げます。

 東北すくすくプロジェクト全体で支援した方の数ですが、プロジェクトが地域的にも分野的にもあまりに広範囲で全体の数の把握は困難ですが、例えば2015年〜16年の1年間の気仙沼すくすくハウスの利用人数は延べ3000人を超えています。2016年2月の単月では延339名です。これらから考え、このプロジェクトで10年間に支援した人数は数万人を超えていると考えられます。

 さてこのプロジェクトで発見し学んできたことについてお話ししたいと思います。最初は「現地のリーダー」の重要性です。このプロジェクトに於いては、陸前高田に菅原さん、気仙沼に星さん、そして仙台に三橋さんという優秀な女性のリーダーがいました。この方達が、私達の思い、資金をしっかり受け止めてくださり事業を守ってくださいました。この方達がいたから出来たと言っても過言ではありません。このようなプロジェクトを進めるにあたり「現地のリーダーを見つける」ことが第一で、それがプロジェクトの成功へつながります。

 次に「コミュニティを作るという支援」です。被災直後、一年程度は外部からの直接支援も必要とも思いますが、復興の過程に於いては外部からの支援ではなく被災地の人たちによる支援がその柱となります。このためには、個人の力ではなく「支え合うコミュニティ」作りが欠かせません。震災は建物だけではなく、地域のコミュニティも破壊してしまいました。東北すくすくプロジェクトはまさに「支え合うコミュニティ作り」への支援でした。実際に開設した子育て支援施設のお母さん達による、仮設住宅の高齢者への支援も行われておりました。

 「ロータリーのプロジェクトはきっかけ」ですがロータリーの社会奉仕プロジェクトにとって重要なことです。ロータリーのプロジェクトは永遠には続けられません。一方でその地域での奉仕活動は継続されなければなりません。奉仕活動の空白からロータリーの活動がきっかけとなり、未来へ続く地域に根ざした活動へと引き継がれる、それが理想です。東北すくすくプロジェクトが作り上げてきた子育て支援活動が地域の自治体や奉仕団体に引き継がれ一層の充実が実現できました。東北すくすくプロジェクトはそのようなロータリー活動の一つの形を示しております。

 最後になりますが、「あゆっこ」の開所式で我々を迎えてくれた子供達の中には来月より中学生になる子もいます。10年はあっという間でしたが、この東北すくすくプロジェクトが、次のロータリーの、あるいは当クラブのプロジェクトのきっかけとなって頂ければ幸いです。



東日本大震災母子支援11年の歴史

2022年3月30日(水)

(一財)東日本大震災における地域医療を守る会 代表理事
Barefoot Doctors Group 代表 林 健太郎氏


 東北すくすくプロジェクトは、私が責任者を務めていた、日本プライマリ・ケア連合学会が立ち上げた東日本大震災プロジェクト「PCAT」の中の母子支援特別プロジェクトチーム「PCOT」の活動を継続・発展する形で、復興期に入る前後よりロータリアンの皆様に御支援いただき進めてきました。

 PCATとはPrimary Health Care for Allの略で、WHOが1978年、カザフスタンのアルマトゥイで採択した「世界の全ての人々に身体・精神・社会的な健康をもたらすプライマリヘルスケアを」というアルマアタ宣言の一部を拝借し、プロジェクトの名前としました。

 Barefoot Doctors Groupは、アルマアタ宣言の際に、具体的なプライマリヘルスケアのモデルとして紹介された、第二次大戦後にボロボロとなった現在の台湾/中国が広めようとした「赤脚医生」(農村で農業をやりながら医療衛生に携わる者の意、当時存在した中国YMCAが中心となって行った )、日本語で「裸足の医者」を意味する英語から名前をつけました。

 日本プライマリ・ケア連合学会には災害支援の経験がなかったため、国境なき医師団で災害・紛争地支援の経験を持つ私が立ち上げたBarefoot Doctors Groupにコーディネーションの依頼があり、PCATを委託されたことが始まりでした。

 私が被災地でプロジェクトの方針と方向性を模索していたとき、混乱の中で妊婦・母子がおざなりにされていることを目の当たりにし、PCAT内に妊産婦特別チーム(Primary Care for Obstetrics Team 以下、PCOT)を立ち上げました。当団体が現在も続けているミャンマー支援プロジェクトに支援くださった浅草ロータリークラブの会員であり、全日本宗教用具協同組合理事の西春貞男さんに連絡させて頂くと、すぐに300万円ほどご寄付頂き、PCOTの活動も始まりました。そして、PCOTが東北すくすくプロジェクトとして受け継がれ、昨年10年を迎えました。

 そもそもPCATは、日本プライマリ・ケア連合学会に所属する医師・看護師・薬剤師・理学療法士等、医療・介護に関係する多くの職種が、被災地で老若男女を問わず、診察・診療・医療サービスを提供するプロジェクトです。

 災害支援経験がないため、一番初めに動いたのは総合診療医・家庭医とよばれる医師達でした。「案山子の火消し」という言葉をご存じでしょうか。被災地を助けるために赴いて自分たちが被災者にならないよう、迷惑をかけて人々の負担にならないよう、自己完結型の支援をモットーに現地に入りました。

 医師たちは、被災地・気仙沼に赴くと、被災地の医師たちを助ける活動から始めました。被災地の医師自身も困窮し、そうした中でも、自分の患者さんを、被災した人たちを助けようと努力する医師が存在していました。我々はこうした医師達を支えることに尽力すべきであると確信しました。

 右も左もわからない外の人間が、知らない土地で駆けずり回って被災者を直接支援するよりも、地元の被災者・患者をよりよく知る、地元で踏ん張る医師を助けることでより多くの患者・被災者を助けることができる。今、絶望のどん底に落ちている医師たちが立ち直り、フロントラインに立つことは、より効率的に、多くの患者・被災者を助けることができるからです。

 そうした医師の一人が、南三陸巨大避難所「ベイサイドアリーナ」で陣頭指揮に立つ西澤医師でした。西澤医師は、南三陸病院の内科医で、他の医師が波に飲まれるなか、山際の自宅にいて助かりました。自宅目の前の総合体育館「ベイサイドアリーナ」に大勢の避難民が殺到し、被災直後から陣頭指揮をとり続け、昼夜を問わず被災者を助けていた西澤医師は倒れる寸前でした。

 発災後14日に西澤医師と出会った私は、交代の医師を残し、西澤医師を内陸部で当団体が拠点にしていた涌谷の温泉「黄金の湯」に連れていき、酒を飲ませ慰労しました。

 ひと段落ついたところで西澤医師は、唯一生き残った研修医をその妻の妊娠のため仙台へ戻したことから、長い期間一人で、診療・避難所運営も含めて切り盛りしていたことを、とうとうと話し出しました。そして、3日前にも避難所から臨月の妊婦を救急搬送したこと、避難所までたどり着いていない人も大勢いること、そして、ライフラインが途切れたなか、郊外や山中で在宅避難している妊婦はどうしているのだろう、と語り続けました。

 たまたま居合わせたプライマリ・ケア医がお産・妊婦対応の経験豊富な医師でした。ちょうどイスラエルの医療チームが南三陸にやってきたところで、日本国内の医師も支援に来始めたため、避難所の医療は間に合っていました。我々は、地元の疲弊した助産師・保健師から情報を得て、妊産婦の診察も可能な簡易型エコーを含めた最新機器を携えてきたイスラエルチームと共に、妊婦捜索を始めました。

 百聞は一見にしかずで、多くの妊産婦が被災した住居に取り残されていることが判明しました。鮮明に覚えているのは、石巻市の山奥に、日本語もたどたどしいタイ人の妊婦が一人で取り残されていたことです。妊産婦特別チーム(PCOT)を形成しました。PCOTは、以降、多くの妊産婦を探し出し、出産の際はしかるべき医療機関につなぐことができました。被災期間が長くなるなか、保健師・助産師とネットワークを作りながら、妊産婦を見守る態勢を整えました。

 東松島・石巻から気仙沼の海岸沿いには、それまで7カ所のお産ができる病院・クリニックがありましたが、被災後は2カ所だけになってしまいました。

 PCOTは、大きな被害を受け廃業を余儀なくされていたお産施設の中で、唯一3カ月で復興を果たした、石巻あべ産婦人科クリニックに全国からボランティアの産婦人科医を派遣し、疲労でボロボロになっている阿部院長をサポートしました。そうしたなか、機能を回復し始めた行政の子育て支援センターとも連携しました。すると、妊産婦のみならず、経産婦も大きな不安を抱えていることがわかりました。

 どうにか出産は果たしたものの、産後うつや生活不安から、これから被災地で育っていく子供達の行く末が心配されました。しかし、人間という動物は、目の前の困難に対処するために、とかく、将来のために投資することをおざなりにしてしまいます。

 百聞は一見に如かず、のあとに言葉が続いていることを御存じの方もいらっしゃいましょう。百聞は一見に如かず、百見は一考に如かず(見たならしっかりと考えないといけない) 、百考は一行に如かず(考えたなら行動に移さないといけない)、 百行は一果(効)に如かず(行動したなら成果/効果をあげなければならない)、 百果(効)は一幸に如かず(その成果/効果は人の幸せに資するものでなくていはいけない)、 百幸は一皇に如かず(人の幸せは万人のものでなければいけない)。

 そうしたなか、PCOTの取り組みを復興期に入っても続けていこうと始まったのが、ロータリーの東北すくすくプロジェクトでした。流された陸前高田の子育て支援センターの再建から始まりました。新たに生まれた命がスクスク育つようにとの願いを込めて建設された「あゆっこ」は、被災地のお母さんと子供達の居場所となりました。運営して下さった菅原千枝子さん、お疲れ様でした。

 陸前高田に続き、気仙沼でも「すくすくハウス」の運営が始まりました。星麻希さん、お疲れ様でした。

 まだ原発事故被害の爪痕も残しながら、ようやく一部の帰還が認められだした福島県浪江町の虹色こども園でも、イベント開催を通して、帰還した家族の子供達とお母さんの憩いの場「スクスク育つ場」を提供しています。

 また、福島から第2580地区である沖縄に移住せざる得なくなった家族・子供達がいます。福島の「じゃんがら」という組踊とエイサーが同一起源のものであることから、エイサー祭りへの参加を支援する形で、移住先の子供達・家族、沖縄の人達とのふれあいの場を作り、地域に溶け込むことを促進する活動も行ってきました。

 そして、10年が過ぎました。皆さん、Build Back Betterという言葉をご存じでしょうか。元々、緊急人道援助の業界で使われていた言葉で、災害・紛争で荒廃した地域・国をよりよいものとして再建・復興しようという意味です。

 このBuild Back Betterの担い手として、東北すくすくプロジェクトは、「コソダテノミカタ」の代表を務める地域再生・復興の事業家、田中惇敏さんに引き継がれていきます。コソダテノミカタは、多くの子育てプロジェクトを全国の被災地で行っている団体で、田中さんは、被災直後から気仙沼でボランティアとして活動し、その後、移住し、2018年以降、「気仙沼すくすくハウス」を資金的・人的に支えてきました。コソダテノミカタは、日本全国で少子高齢化が進み社会に活気がなくなるなか、より厳しい状況にある東北沿岸部で移住者を含めた多様性社会の実現を目指すプラットフォームとなっています。

●コソダテノミカタ 田中さんよりご挨拶
 昨晩、気仙沼から12時間、バスに乗ってきました。星さんと菅原さんの代わりに私から皆さんに改めて感謝の思いを伝えたいと思います。本当に10年間ありがとうございました。

 お陰様で、「気仙沼すくすくハウス」も気仙沼市が今後も継続すべきだということで、基本的に私たちが止めない限り、市からの受託として続けることができるようになりました。  今年2月に発表された「2022年版住みたい田舎ランキング」で、気仙沼市は宮城県内で一番子育てしやすい町として、また全国でも22番目に子育てしやすい町として認知されています。

 今後、11年目、12年目は、気仙沼から「こういった子育ての形があるよ」「こういうふうに子育てをしていったらもっと良くなるよ」と発信していき、皆さんに恩返しできるように頑張ります。今後もよろしくお願いします。


    ※2022年3月30日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです