卓話


TPP交渉を終えて

2016年4月20日(水)

英国特命全権大使
鶴岡公二氏


 私はTPP(環太平洋パートナーシップ)協定交渉の事務を統括する立場で、安倍総理、甘利TPP担当特命大臣の下で交渉にあたってきました。日本は交渉に最後に参加したため、大変困難な交渉で成果を出すのは容易ならざる重責だと担当した全員が深く心に刻みました。私は直属の部下を亡くすという犠牲も払って結果を出した交渉になりました。

 交渉に臨む体制は、これまでの通商交渉とはかなり異なったものでした。それは指揮命令系統の一元化の確保です。交渉内容は30の章に及ぶ経済活動で、各省庁の利害が前面に出て全体の視野が失われがちになることを懸念しました。特に交渉は既に3年以上行われており、我々新参者は経緯を十分承知していない中で追いつき追い越さなければならないという課題を背負っていました。「この交渉では日本は国力を結集して臨まなければならない。縦割りの弊害があったら交渉は決して日本のためにならない」と一元化体制にした訳です。政治の世界では、総理、甘利特命大臣の2人の意思決定の軸を明確にした上で、事務的には内閣官房にTPP対策本部を設置し、すべての省庁の担当者はその指揮下に入りました。

 TPP協定交渉が合意に達した要因の一つは日本の参加です。2つの意味があります。
 12カ国中、アメリカが圧倒的な経済大国で、日本の参加までは、アメリカにとって無視できない経済規模の国はほとんどありませんでした。ところが日本の参加によってTPPの経済規模は大きく変質しました。日本との自由貿易の枠組みを作ることは容易ではありませんが、TPPを通じれば可能になる。これが、日本が与えたTPPの新たな魅力で、日本参加の意義です。

 2点目は、交渉は厳しい国益のやりとりであり、まとめるためには誰かが仲介者となり、そのための案を出し、全員の賛同を得ていく根回しや知恵の出し方や努力が不可欠です。超大国にはそうした素養はなく、交渉は容易ではありません。特に小国であるほど、自分の意見を聞いてもらえない、話もしてくれないという不満を持っています。日本が参加した時、小国の間に対米不満が鬱積しているのを感じました。それでは交渉は進みません。我々は、各国と個別に緊密に話をし、必要があれば連携する活動を積極的に行いました。

 日本にとっての最初の交渉は3年前、マレーシアのコタキナバルでの首席交渉官会議でした。皆さんと親しく話をする関係を作りたいと、主催国のマレーシアに日本主催のレセプション開催を要請しました。レセプションでは予算の制約等から招待人数を限定することがよくありますが、その時は12カ国の代表団全員を招き、皆さんに喜んでいただきました。東北の酒蔵から取り寄せた日本酒の小さな瓶を「東北の人達が震災にめげず作りあげている日本でも上質なお酒です」と一人ひとりにお土産として渡しました。

 その3年後、アトランタでようやく交渉は大筋合意をしました。その時に交渉相手が私のところに来て、「よくできた。本当に大変だった。ようやくあの時いただいた日本酒の封を切って家族と祝杯をあげられる。日本が最初に入った時にレセプションを開催し、全員に分け隔てなく日本のすばらしいお酒を配ってくれたことを忘れないでいた」と話してくれました。これは一人や二人ではありません。私は、善意は通じる、誠意は結果につながることを確信しました。

 背景にあるのは日本の信用だと思います。日本は嘘をつかず、はったりもかけません。しかし、できないこともあります。今回の交渉で農産品について、日本は重要5品目については関税の撤廃はできません。国会からは「するな、するようならば交渉から離脱せよ」という指示を受けていました。2011年のAPEC首脳会合の場で、TPP交渉参加の9カ国が「交渉の目標としてすべての関税の撤廃を実現する」という首脳宣言を採択しました。関税の撤廃をしなくとも交渉に参加できるのかを関係国に問い合わせると、アメリカからは「交渉に入る前から結果が決まることはない。すべての関税を撤廃することを目標としているが、それが実現するかどうかは交渉の進展次第だ」と明快な返事がありました。これを確認し、日本は交渉に参加したのです。

 結果を見ると、農産品については他の国はほぼ100%の関税撤廃を約束しました。日本だけは、8割強については撤廃を約束しましたが、2割弱は撤廃対象からはずしてもらいました。ベトナムのような途上国の農業国も完全撤廃を約束しているため、「なぜ日本はできないんだ」とよく言われましたが、交渉官の間で、甘利大臣は各閣僚に懇切丁寧に日本の立場を説明しました。

 しかし、それだけでは日本は格を問われます。各国の困っているところへの協力を積極的に行いました。交渉官として各省庁から集まったのはひときわ優秀な人達で、意識と意欲が高く、各国と昼夜を分かたず話し合い、交渉を進めました。また、霞ヶ関に蓄積されている通商関係の専門的な知見などすべて動員されたことが今回の交渉をまとめる大きな力になりました。

 もう一つ、日本の信用という基礎があったから評価されたのです。日本人は人の話をよく聞き、できる限りの対応をしてくれる。そして自分自身の苦しいことについても正直に伝えてくれる。脅しやはったりをかけない。全員一致して努力をし、意思疎通も迅速である。私は総理、甘利大臣から、「何か問題があれば政治の責任は自分達が取るので、何ら後顧の憂いなく、交渉を進める上で全力を尽くせ」と指示を受け、交渉現場の権限を委譲されたため、東京に指示を仰ぐ必要は一度もありませんでした。これが現場で物事を進め指導力を身につけるために不可欠な条件です。見解について異論がある場合に、第三の案を出す人がいる場合にはその案が次の案になります。我々は、現場で直ちに第二、第三の案を出すことができました。これが一枚岩になった日本でした。そして、戦後営々として築き上げた日本の信用が追い風となり、日本にとって好ましい合意ができました。

 この結果は日本の外交的な資産として活用することも可能です。TPPは開かれた協定で、署名国だけでは終わりません。韓国、台湾、フィリピン、タイ、将来は中国も新規加盟国として出てくる可能性もあるでしょう。加盟希望国を入れるかどうかは原加盟国の総意で決めます。交渉結果はすべて合意されており、公表されています。新たに加盟する国が再交渉を申し入れても応じる必要は全くなく、加盟希望国は12カ国から要求されたことをすべて実行しなければ加盟できません。日本は滑り込みながらよくぞ原加盟国に入ることができたと思っています。もし、合意後に日本が加盟することになっていたら、厳しい交渉を強いられ、国内で大きな騒ぎになったことは想像に難くありません。

 幸いにして日本にとって経済の新しい将来を開く成果を実現できました。
 TPPは、12カ国の人口8億人、世界GDPの4割を占める大経済圏を一つの市場に統合します。日本では少子高齢化、人口減少が来ます。しかし、TPPの多くの国は人口が増えており、平均年齢が若く、経済はこれから成長します。その中で中産階級が育ってきていることが注目されます。中産階級は、製品の質、文化を評価できるため、日本の得意とする良質な、あまり値段の高くないものを評価してもらえます。そうした人達が8億人市場で育っていく。そこをどう活用していくかは、日本のこれからの課題です。

 そのため、TPP協定の審議をする特別委員会が衆議院で立ち上がりましたが、残念ながら足踏み状態が続いています。一刻も早く日本として必要な手続きを終了させることが、日本が交渉で果たした役割と一貫することであり、日本の自由貿易と経済統合への取り組みを象徴する行動となります。

 最後にアメリカについてです。アメリカでは、大統領選挙、議会選挙との関係でTPPは不人気です。5月28日にアメリカの国際貿易委員会がTPPの経済効果の分析の結果報告をする予定です。そこで、TPPがアメリカ経済全体にとって良いという客観的評価が出れば、冷静な議論が選挙の中でなされるのではないかと期待しています。ただ、アメリカの強みの一つは次の行動の予見不可にあり、TPPについてどのような結論が出るかはわかりません。だからと言って、我々がやらない理由にはなりません。

 今回の交渉に日本は総力を挙げて臨み、それを世界は温かく受け止め、我々の努力を正当に評価してくれました。我々の誠意は各国から評価をされ、理解を得られました。国内でこうした面についてはなかなか報道されませんし、自慢するようなことでもありませんが、これが当然だという姿勢で外交と交渉に臨むのが日本人の国際社会での生き方ではないかと思っています。


      ※2016年4月20日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。