卓話


『李香蘭』の昭和史  

2007年10月24日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

元日銀副総裁
エッセイスト
藤原作弥氏

 今から66年前,1941(昭和16)年の2月11日,李香蘭は有楽町の日劇で『歌う李香蘭ショー』に出演していました。宿泊先はこの帝国ホテルでした。

 その頃,李香蘭は満洲でも中国でも,そして日本でも,さらに,当時の朝鮮半島,台湾から東南アジア全体でも,最も人気のあるスターにのし上がっておりました。

 2月11日,紀元節の日に,李香蘭を一目見たいという聴衆が,日劇を7回り半も取り巻きました。段々いらついてきた聴衆の間で小競り合いが起こって暴動のような騒ぎになりました。丸の内警察から警官や騎馬警官隊が出動して,遂には消防署が放水までしたのですが,簡単には治まらなかったということがありました。

 朝日新聞はそれを大々的に取り上げ,紀元節の佳き日を汚した事件と報道し,その筆致はかなり厳しいものでした。

 私は『李香蘭の半生』を書くために,各方面に取材しましたが,自民党の幹事長であった梶山静六氏は,その聴衆の中にいたと言っておられました。

 宮沢喜一氏にも話を聞きましたが,当時,東大法学部の学生だった宮沢氏は,社会学の講義で「日劇七回り半事件についての感想を述べよ」という試験の問題に対して,「これだけ息苦しい時代になっている世相に,一種の光りを射し込んだ,いわば潤いを求める人々の心理の現れだ」という趣旨の答案を書いて,優をもらったと話しておられました。

 帝国ホテルへは,児玉英水という日劇の文芸部員が屈強のボディガードとして,彼女をすっぽりと抱き抱えて戻ってきたといいます。

 次の日,12日,彼女はこの日が自分の誕生日であることを知っていました。届けられた朝刊の各紙に,日劇7回り半事件の記事が写真入りで大々的に出ていました。主役の李香蘭は,バイロンの言葉のように「一夜が明けてみると有名人になっていた」のです。

 山口淑子・李香蘭は,その時,スターとして有名人になったのだ,社会的な人間になったのだということを自覚したそうです。

 李香蘭は,まさに昭和史の申し子であり,戦争と平和を最も雄弁に語れる語り部です。彼女は旧満洲の奉天の近くの撫順に生まれました。お父さんは,満鉄の高級官僚に中国(北京)語を教える一等通訳官でした。彼女の父親は佐賀,母親は福岡の出身です。淑子さんは日本人の夫婦の間に生まれた純然たる日本人として,撫順で育ちました。

 撫順から奉天,奉天から北京の高等女学校に留学するという経路を辿るのですが,奉天にいた時に,風邪をひいて,それを治すために声楽の勉強をします。奉天には,帝政ロシアから革命を逃れてきた,モスクワ・オペラ座のプリマドンナが住んでいましたので,その人に声楽を学びます。淑子さんを教えたマダム・ボトレソフは,彼女のすばらしい音楽的才能を開花させます。

 こうして,奉天でのリサイタルは山口淑子さんが前座を務めるまでになりました。

 その姿が,当時,中国の人たちに日本の満洲政策は正しいことなのだと宣伝しようとしていた関東軍報道官の山家少佐の目に留まり,開局したばかりの奉天の放送局で歌手としてデビューします。

 その時の芸名が「李香蘭」です。淑子さんのお父さんには,中国の習慣に従って義兄弟の縁を結ぶほどの親友に李際春という人がいました。義理のお父さんの姓をもらって「李」とし,実のお父さんの俳号である「香蘭」を名として「李香蘭」となったのです。

 その後,北京の女学校に留学するのですが,そこで満洲映画協会に入る話が持ち上がります。再び関東軍報道官の山家中佐(昇進していました)が,新京にできた満洲映画協会のスターにスカウトします。

 実は日本人であることを隠して,奉天市長の娘だなどの噂を流して,中国人の女優としてのデビューです。それは,日本の政策を映画でプロパガンダする広報の一環だったのです。彼女自身は操り人形として使われることなど露知らず,歌の吹き替えだけの役だと説得されての出演でした。彼女は,なし崩しに映画スターの道を歩むわけです。

 彼女の存在は昭和史そのものだと言いましたが,戦前の昭和史は,中国と日本の確執の歴史であることは,ご存じのとおりです。勿論,昭和史の後半は太平洋戦争にシフトしますが,それも中国との泥沼のような戦争から脱出できないがゆえの対応だったと言えます。 15年戦争といわれるように,昭和6年に奉天郊外で起きた柳条湖事件以来,中国との確執は続いています。昭和史を学ぶのは,中国との確執の歴史を学べばいいということは分かっているのですが,身を入れて勉強を進める方法が見つからずに悩んでいるところに,山口淑子さんから,自伝を書いてほしいとの依頼がありました。

 最初は,芸能人のゴーストライターのような仕事は勘弁してほしいなと思ったのですが,山口さんは「中国時代のことを書いてほしい」と言いました。私は,中国の日本との確執の歴史を勉強したいと思っていましたから,そういうことなら先ずは話を聞いてみましょうかと,彼女の話を聞いてみました。

 一回,二回,三回と話を聞いて,私は,彼女の伝記を書くことを引き受けました。彼女は昭和6年の9月18日に起きた柳条湖事件(満洲事変)の起こった時に,起こったその場所に生活していて,当時の空気や状況を身体で感じながら多感な少女時代を送っていたのだということが分かったからです。

 彼女は,その一年後の昭和7年9月18日の夜,撫順の空が真っ赤に染まり,ただならぬ騒ぎが起こったことを覚えていました。次の日の朝,中国人のクーリー(労働者)が柳の木に高手小手にくくられて,憲兵から拷問を受けているシーンが目に飛び込んできました。この事件が,最初のショッキングな記憶であると語ってくれました。

 私は中国の文献『東北抗日義勇軍史』を調べました。その事件は,石原莞爾のシナリオによって,鉄道を爆破して,それを中国のゲリラ隊の仕業と見せかけ,それを奇禍として満鉄沿線を守るという名目で,奉天の国民党軍の大兵舎を砲撃した満洲事変への報復として,中国のゲリラ隊が撫順炭坑を攻撃した事件でした。それが,彼女が前夜に見た紅蓮の夜空だったのです。

 その後,彼女は中国人として北京の高等女学校に留学しますが,昭和12年,関東軍は万里の長城を越えて中国本土にまで攻め入ります。その発端になったのは,北京郊外の蘆溝橋を挟んで対峙していた国民党政府軍と日本の北支那派遣軍との衝突でした。昭和12年7月7日のことです。その時,彼女は,学生たちから抗日デモへの参加を誘われます。そこから,中国人を装う彼女の悩みは始まるわけです。

 昭和の,日本と中国の,不幸な歴史の中の,象徴的な二つの出来事,柳条湖事件,満州事変,と蘆溝橋事件が起きた時に,その場所にいて風雲急を告げた空気を吸いながら育った彼女は,まさに昭和史の申し子でなくてなんでしょうか。

 昭和12年蘆溝橋事件の後,日本軍はすぐさま南京を攻略します。国民党政府軍は重慶に逃げ泥沼の戦争だけは続いて日本は昭和20年に向かっての悲劇の道を進んでいきます。

 彼女のパーソナルストーリーは,私にいろんな昭和史を教えてくれました。

 彼女は祖国を裏切った罪で.上海の軍事法廷で裁かれて死刑の判決を受けます。しかし彼女は,戸籍謄本を証拠として提出して,死刑を免れます。彼女の親友である,同じ「ヨシコ」という名前をもらった愛新覚羅顕シ,日本人「川島芳子」は清朝の王女として,漢奸裁判では反逆罪として死刑になります。その運命の違いはまことに対照的です。

 そのことから,彼女は,自分は「identity」をもっていなかったという考えに至ります。

 日本に帰国した山口淑子は,すぐさま映画界で才能を発揮して,identityを示します。日本人として初めてハリウッドやブロードウエイで活躍するキャリアを積んでいきます。

 彼女の知識と運命を切り開いていく力,インターナショナルな感覚は,彼女をジャーナリストに仕立てます。ベトナム戦争や中東戦争の取材にも出掛けます。二度の結婚も経験します。そんなところを田中角栄さんに認められ,自民党から立候補して参議院議員を2期務める政治家にも変身します。彼女は自民党アジア・アフリカ問題研究会の事務局長を長く務めて,日中国交正常化を推進するなど,様々な仕事に従事しました。

 彼女は一人で,五つも六つものドラマの主人公を演じました。憧れのスターが昭和史を彼女なりに懸命に生きて,歴史を駆け抜けて,今日の私たちに様々のレッスンを残してくれたことに,感謝の念を抱くところです。