卓話


辛亥革命100周年を迎えて
〜孫文と梅屋庄吉の盟約

2011年4月13日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

日比谷松本楼 常務取締役 企画室長
小坂 文乃氏 

 孫文先生は,国家的行事では,天安門広場に毛沢東先生と肖像画が並ぶ程,中国の方々の尊敬を集めています。その孫文先生と日本人との関わりについては,中国の人もあまりよく知りません。日本でも,辛亥革命は隣の国のこととして,あまり関心を持たれませんでした。

 孫文先生は,革命生活30年のうち10年近くを日本で過ごしておられます。日本には,私の曾祖父の梅屋庄吉を始め,何人かのゆかりの深い人物がいます。

 2008年に胡錦濤国家主席が元首として来日された時,最初に日比谷公園の松本楼にお見えになりました。マスコミは「どんなワインがお好みだったか。何を召し上がったか。」という類いの報道に終始しましたが,実は,百年前の,孫文先生と梅屋庄吉の友情の歴史の資料を,胡錦濤主席と福田首相が共にご覧になるという歴史的な一幕があったのです。

 孫文先生が日本で亡命生活を過ごされている間,3百人近い日本人が先生の周りに出入りしました。しかし,真の親友は,ごく少数であったというのが,中国の見解です。梅屋庄吉は,その少数の親友の一人でした。

 庄吉は,1868年(明治元年)長崎の貿易商の息子として生まれました。当時の長崎は,「江戸に行くには水盃で,上海に行くには下駄履きで」といわれるくらい,上海とは近い距離感をもっていました。

 庄吉少年は生まれながらにして,冒険心が強く義侠心も人一倍でした。14歳の時に,自分の家の持ち船に乗って上海に渡ります。当時の中国は庄吉にとって憧れの地でした。しかし庄吉は上海で,西洋列強に植民地化され,人間としての尊厳を与えられていない中国の人たちの悲惨な状況を目のあたりにしました。

 この様子に庄吉は「このままではいけない。アジアはアジア人の手で,強いアジアにしないといけない」という思いを持ちはじめます。

 同じように,孫文先生も13歳の時に,故郷の広東省からハワイに渡ります。
 二人の共通点は,10代の若い時に,自分の国を出て,外から自分の国を見たことです。外から見つめて,中国に向ける強い思いを胸に抱くようになったのでしょう。

 梅屋庄吉は,香港で写真館を営んでいました。行事があると出向いて行って写真を撮るという,当時としては新しい方法で非常に成功しました。

 そこに,カメラいじりが趣味のイギリス人が,よく出入りしていました。その名をジェームス・カントリーといいます。庄吉はジェームス氏に対しては,中国における西洋の横暴について思うままに直言していました。

 実は,カントリー氏は,孫文先生の医学校での恩師でした。孫文先生は,革命生活をなさる前は医者でした。カントリー氏に「自分は医者であるが,本当に治したいのは,この国である」と,その思いを打ち明けておられました。カントリー氏は,「同じようなことを言う写真館の主で日本人の梅屋庄吉と教え子の孫文を出会わせれば何か事を成すのではないか」と思いました。そこで,孫文先生を連れて写真館に行きました。その時,孫文先生29歳,梅屋庄吉27歳でした。

 二人は,話すほどに意気投合しました。その時の様子を梅屋庄吉は,こう書き残しております。「中日の親善,東洋の交流はたまた人類の平等について全く所見を同じうし殊にこれが実現の道としてまず大中華の革命を遂行せんとする孫文先生の雄図と熱情は甚だしく我が壮心を感激せしめ,一期の誼み,終に堅く将来を誓うに至る。」

 この時,梅屋庄吉は「君は兵を挙げよ。吾は財を以て支援する。」と約束します。梅屋庄吉は,一生この約束を守り抜きます。

 こうして財力の支援を得た孫文先生は広州起義を起こします。これが辛亥革命に至る十一回の決起のうちの最初のものでした。

 孫文先生を応援している庄吉にも,清朝政府の逮捕状が出ます。庄吉はシンガポールに逃れ,そこで,庄吉は映画と出会いました。

 当時,映画は,せいぜい5〜6分のものが普通でした。庄吉は早速,映画ビジネスを始めます。日本に戻った庄吉は東京でMパテー商会という映画会社を設立しました。この会社は既にあった2社を追い越す程の勢いがありました。

 当時ヒットした映画は,白瀬大尉の南極探検です。当時の政府はこの計画に予算を出しませんでした。そこで大隈重信さんが理事長になって寄付を集めます。庄吉は,探検隊に撮影隊を同行させ,現地の様子を撮影させました。これがヒットして大成功を収めます。このフィルムは最古のドキュメンタリーフィルムとして近代フィルムセンター、早稲田大学、白瀬記念館に保存されております。

 梅屋庄吉は,3つの会社を統合して,日本活動写真株式会社を設立します。いわゆる日活です。庄吉は,もう一つ貴重なものを記録しています。実は,辛亥革命そのものを記録したフィルムです。歴史的には,辛亥革命を行ったのは孫文先生とされていますが実は,孫文先生はアメリカや日本,ヨーロッパにいて,中国にはいませんでした。庄吉は,孫文先生に革命の様子を見せたい一心で,湖北省武漢に撮影隊を送り込んで,その実際を撮影しました。そのフィルムの実物は現在,めぐりめぐって北京のCCTVに保管されています。

 革命軍への庄吉の支援は,武器,弾薬を送ることでした。孫文先生は日本政府にも援助を要請しましたが,政府は使い物にならないような古い武器を革命軍に送っていたそうです。

 袁世凱を倒す第3次革命時代には,飛行機が戦争に使われるようになっていました。孫文先生が梅屋庄吉に,革命に飛行機を使いたいと言ったところ,庄吉は,滋賀県八日市に飛行訓練学校を作ってパイロットを養成しました。当時の写真を見ると,中国の留学生が自転車を持って並んでいる場面が写されています。まず自転車に乗れる訓練をして,平衡感覚を養うことから始めたそうです。

 少しロマンチックな話をいたします。
 中国には有名な宋家の三姉妹の話があります。一人は財を愛し,一人は国を愛し,一人は権力を愛した三姉妹といわれ,長女宋靄齢さんは中国一の財閥,孔祥煕氏と結婚,次女宋慶齢さんは孫文先生と結婚,三女宋美齢さんは蒋介石氏と結婚します。

 宋慶齢さんはアメリカで教育を受けた後,父上と一緒に日本に亡命していました。当時,宋慶齢さんは庄吉の家にあるピアノを弾くのが楽しみで,時々通っておられました。1915年当時,孫文先生は非常に苦しい状況で日本に亡命しておられました。袁世凱に対する革命もうまくいかない,同志も離れて行く,資金もないという辛い状況の時に,英語の秘書として,美しい宋慶齢さんが仕えるようになりました。この時,孫文先生は48歳,宋慶齢さんは22歳でした。

 孫文先生には奥さんと3人のお子様がいましたが,二人は恋仲になります。周りは大反対でした。お父様は宋慶齢さんを連れて国に帰ってしまいます。

 身の回りのお世話をしていた庄吉の妻トク夫人は,意気消沈する孫文先生に,年が釣り合わないのは不幸だと諭しますが,反対に孫文先生の熱意にほだされ,人を介して宋慶齢さんを上海から連れ戻します。その間に,孫文先生は前の奥様とのことを整理しました。晴れて結婚した時の披露宴は梅屋庄吉の家で行われました。

 宋慶齢さんは,後に副国家主席として名誉国家主席になられる方です。国父と名誉国家主席を結びつけたのが日本人だったことはたいへん意義のあることだと思っております。

 孫文先生を支えた日本人というと,例えば宮崎滔天とかを思い浮かべますが,彼らの生活資金,渡航費用などの多くを梅屋庄吉が立て替えています。

 孫文先生は1925年3月12日に亡くなりますが,その3カ月前に,梅屋庄吉宛に「貴国滞在中のご好意感謝す。今後も全アジア民族復興のためご協力を切望し,あわせてご健康を祈る」と電報を打っています。

 孫文先生亡き後,多くの同志は日中戦争に加担していきます。しかし,庄吉の考えや行動は少しも変わりませんでした。

 庄吉は,孫文先生の銅像4体を造って中国に贈ります。この銅像は文化大革命の時に倒される危険に遭いますが,当時の周恩来首相が倒してはならないと命令を発し,事なきを得て現存しています。

 風雲急を告げる時期,庄吉は,当時の廣田外相に「蒋介石とのパイプがある」と説いて2回の面談をしています。その後,3回目の面談の為に外出した時,駅頭で倒れました。僅かに残っていた,民間人の日中の懸け橋はなくなりました。新聞は「革命の恩人」「現支那要人の慈父」などと,庄吉を讃えました。

 庄吉は「人の世は持ちつ持たれつ,もろともに助けることこそ人の道なれ」とか「富貴在心」などの言葉を信条として,日記などにもその言葉を書き残しています。

 戦後,国交が回復した時,中華人民共和国の副国家主席になられた宋慶齢さんから,梅屋庄吉の子孫に会いたいと連絡があり,私の祖母,梅屋庄吉の娘が北京に招かれました。

 その後,孫文先生と庄吉の友情の話は,江沢民氏や温家宝氏に語りつがれて,2008年の胡錦濤国家主席の日本訪問は,歴史の資料をご覧になることから始まったわけです。

 日中にはいろいろな歴史がありますが,私は,こういう助け合った歴史もあることを伝えていきたいと思っております。