卓話


「地域雑誌『谷根千』26年』

2010年2月10日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

ノンフィクション作家・エッセイスト
森 まゆみ 氏

 私は1954年に文京区動坂という所で生まれました。私の育った地域は,関東大震災の時にも,珍しく,あまり焼けなかった所です。そして空襲の戦災からも免れた地域でした。

 思えば,昭和30年代の,私の子供の頃は,まだ原っぱがあって,夕ぐれになると赤トンボが飛び回っていました。子供たちは,空き地で三角ベースの野球をしたり,めんこをやったり,ベーゴマで遊んだりして,過ごしてきました。

 1964年,私が10歳の時に東京オリンピックがありました。東京は大きく変わりました。東京中の道がどんどん立派になりビルも建っていくのに,どうして私の町だけが相変わらず瓦屋根のすすけた下見張の家並みなのかと,非常に悔しかったのを覚えています。

 時が経ち,出産を機に会社を辞めて自分の町に戻って,そこで子育てをしました。思えば,その時に町に根を下ろした…というよりは,町に縛り付けられてしまったという感じで…,幼子を連れて不平たらたらの散歩に時を過ごしたりしていました。

 そんな時,ふと見渡すと子供の時にあった古いものが残っていることに気づきました。それは,木の電柱であったり,古い天水桶であったり,板でできた古いゴミ箱であったり,小さな祠であったりお寺であったり。

 何で,こんな所に,こんな古いものが残っているのだろうという,非常に新鮮な感じを覚えました。そこで,子育ての傍ら,自分の町のことを調べてみようと思ったのが,病み付きになりました。

 近所の主婦に,私の思いを伝えますと,「私も一緒に歩きたい」とか「自分でも調べたい」という声が上がりました。

 私たちの地域は古いものが残っているだけではなく,昔から町として栄えていた所です。

 上野に寛永寺が創建されたことによって,その門前に寺町が形成されました。谷中には今も百余のお寺があります。

 1868年に,幕府恩顧の者が寛永寺に立てこもり,半日とはいえ市街戦が行われました。その時にかなり焼けた部分はあるのですが,その後,上野の山は文化の森になりました。

 私たちの町は調べれば調べる程,明治以降の学問と文化の集積地といってもいいわけです。文学者だけでも,森鴎外,夏目漱石,幸田露伴,樋口一葉,島崎藤村,高村光太郎,宮本百合子など,みんな,私たちの町に住んでいました。

 1984年10月,地域雑誌「谷中・根津・千駄木」という,お見せするのも恥ずかしい,小さな雑誌を創刊しました。

 最初は地域に無料で配っていたのですが,売れたら,その分のマージンが入るようにして,そして,次の号ができたら売れ残った本は引き取る形にしました。

 私たちの地域雑誌は,捨てられないことを目指した特集方式をとっています。特集のパターンの一つは,「そこに普通に暮らしている人たちの生き死にを記録する」ことです。例えば「お風呂屋さん特集」をやって,それぞれのお風呂屋さんに話を聞き,初代から今までの苦労を聞き,それを特集するわけです。

 もう一つは,みんなが大事に思っている,誰もが知っているランドマークに注目して,例えば「団子坂特集」とか「不忍池特集」とかを掲載する特集です。

 最後の柱は,文人や絵かきさんなど,芸術家の足跡をきちっと記録するものです。私が,この仕事を始めた頃は,明治20年代の方が元気においでになりました。日清戦争の凱旋行列を見た話とか,実際に樋口一葉さんと話をしたとか,大杉栄氏の葬式で弔辞を述べた男性の話などもありました。

 今になると,明治の話や大正の震災を覚えておられる方もほとんどありません。せいぜい,学童疎開の聞き取りとか空襲の聞き取りが,やっとできるといった状態です。

 創刊の時,私たちは「菊まつり」というお祭りを企画して谷中の大円寺というお寺の境内で,たった8ページの本を売りました。

 「谷根千」は1千部からスタートして,64ページ・1万部の雑誌に成長しました。年4回の発行です。年間売上は,スタッフ4名で1,300万円を越えたことはありません。

 原稿依頼は,主として「聞き書き」取材です。聞き書きは歴史の研究になじまないとお叱りを受けたこともありますが,普通に生きている人の歴史は聞き取らないと残らないということを感じています。子供や女性,いわゆる弱者といわれる人達の歴史は「聞き書き」が必要だと思っています。最近では「オーラル・ヒストリー」という概念も肯定されているようです。

 「谷根千」は全部手作りです。企画,取材,執筆,広告とり,カットの絵柄づくりまで,すべて自分たちでやっています。できた本は自分たちで3百店のお店に自転車で配達します。その時に前の本代を回収します。

 読者の6割は地元の方々です。残りの4割は前に谷中に住んでいた方々です。

 現在,私達の「谷根千」は世界中に発送しています。世界各地で活躍する日本人の方々にも楽しんでもらっています。

 雑誌以外の活動としては,歩く人が増えてきましたので「歩きやすい地図」を作っています。これはドル箱になっています。絵葉書とか,保存のための調査報告書づくりも大切です。

 去年の8月で,地域雑誌「谷根千」は94号をもって終刊になりました。

 現在の活動は,インターネットのホームページでの「谷根千」で報告しておりますので,「やねせん」と入れてご覧ください。

 他の活動は,講演会,展覧会,映画会,ワークショップなど,たくさんのイベントと,「谷根千の生活を記録する会」という愛好者の団体を作って,既に何百回も地域を歩いています。

 私自身のことを言えば,26年間で大体3千人ぐらいの方々から,ライフ・ヒストリーの聞き取りを致しました。そういった活動の中で,多くの時間を割いてやっていることは,町の中の「建物の保存・活用」です。

 東京には,もし壊したら,かけがえのない貴重な建物がたくさんあります。そのような建物を残す活動もやってきました。

 最初に取り組んだのは上野の奏楽堂。東京音楽学校に明治23年に建てられた,日本最古のコンサートホールの保存でした。

 次に取り組んだのは,赤レンガの東京駅です。バブル期には超高層ビルに作り替える構想で模型までできていましたが,毎日の陳情が功を奏して,大正3年当初の形に復元する方向で工事が進められています。

 これらの建物は,黙っていたら壊されるところでしたが,今は重要文化財に指定されて保存が決まっています。

 地域の中にも大事な文化財が眠っています。そういうものを一つ一つ保存していかねばなりません。最近では,保存よりむしろ活用・再生に関心が集まっています。

 1980年代には,改造や改築に目が向いていましたが,現在は,歴史のある日本建築や文化に興味をもった若者が多く,そういう所に住みたいという希望も届いています。

 3月から日本に住む留学生から,蔵や,長屋に住みたいというファックスが来ていますので,できるだけ,そのような希望をかなえてあげたいと思います。

 今,安田財閥の千駄木の安田邸が大正時代のままに残っています。6百坪の広さです。ご遺族が日本ナショナルトラストに寄付してくださるという話を聞いています。これからの各種行事に利用できると喜んでいます。

 私たちが,やってきたことの結果はどうであったか。

 「谷根千」というブランドが私たちの知らないところで一人歩きしています。

 若い人たちの住みたい所に「谷根千」が浮かんできました。「谷根千」は文化人の愛した町というプラス評価も出てきました。

 4畳半のアパートに住みながら,いろんな活動をしている若者がいます。「谷中芸工展」は,町のモルタルやブロック塀を使って展覧会をやっているグループです。本の好きな人たちが集まる古本市は,日本中に飛び火しました。

 私たちは,これからも,若い人たちを支援しながら,集めた資料を整理して,後世の為に整えていく「記憶の蔵」というプロジェクトにつなげたいと考えています。文字記録で残した資料を,再度,映像や音声に変換して記録する対策も立てています。

 かつて,土地の古老が「情報とは,情(なさけ)で報(むく)いると書くのだ」と私に言いました。「相手の立場や困っていることを察しながら,自分がそれに対してできることを,そっと手を差し伸べることが情報だ」とおっしゃるのです。私も,それ以上によい定義はないように思っています。これからも,そういう温かい情報をつくって,皆さんに届けられたらいいと思っています。