卓話


「外交の裏舞台」
 

2006年7月26日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

国際交流基金
理事長 小倉 和夫 氏

第4110回例会

 外交と言いますと、普通、言葉のやりとりでの理論的な交渉術や戦略などを考えますが、この外交にはいろいろな裏舞台があります。今日は、言葉でない手段(non-verbal communication)によって外交的メッセージがどのように伝達されているかを、例を挙げてお話しいたします。

 まず第1は、手を上げたり顔をしかめたりする「仕草」によるメッセージです。

1992年4月、ロシアのクレムリン大宮殿において、エリツィン大統領が各国大使を招き、「国民投票について理解を求める」ための会議を開きました。エリツィン大統領は、ロシアの内政について話した後、外交問題に触れ、「7月のサミットで東京に行くことになっているが、日本の外務大臣は経済協力と領土問題をリンクする立場を取ると言っていて、私は大変困惑している」と言いました。するとこのとき、エリツィン大統領の隣にいたコズィレフ外務大臣が、日本大使の方を見ながら右手の指を一本立てて小さく動かしました。日本大使は「これは『反論があれば発言しなさい』というサインだ」と判断し、手を挙げて発言を求めました。他の大使がびっくり仰天している中で、壇上に上がって反論したのです。

同じようなことが、1956年10月、日ソ国交正常化交渉のために鳩山首相がクレムリンに行った時にも起こりました。ソ連側が主催した午餐会には、フルシチョフ書記長以下政治局のお歴々が参加していました。その席で、フルシチョフ書記長がいきなり立ち上がり、日露戦争からシベリヤ出兵に至るまで、延々と日本を非難し、「ソ連の犠牲において日本は領土を拡張しようとした」と大声でまくし立てました。その時そこにいた日本大使――確か門脇大使だったと思いますが――は「この話は記録しておく必要がある」と思ったのですが、会食の席ですから生憎ノートがありません。やむなくメニューの裏に書き取り始めましたが、余白はあっという間に一杯になってしまいました。さて困ったと思っていると、隣の席に座っていたグロムイコ第一外務次官夫人が、無言のまま、自分のメニューをさっと裏返して大使に渡しました。これには、「フルシチョフはちょっと言い過ぎだけれど、まあ勘弁してね…」というメッセージが込められていたと思います。

第2は「服装」についての話であります。

 1936年11月、これもクレムリンで起こったことです。重光駐ソ連大使が、ソ連の元首に信任状を捧呈した時のこと、革命の後の政権ですから、ソ連側は皆普通の背広姿でした。このことは予め重光大使に伝えられていたのですが、これに対して重光大使は大礼服を着てその場に臨みました。重光さんの回想録によると「これは天皇陛下に対する敬意を表するためである」とあります。しかし、同時に、重光さんは「あなた方のペースにははまりませんよ」という意志を服装で示したのではないかと思われます。

 1875年には、李朝朝鮮に、日本からの使節として森山理事官が派遣されています。このとき森山理事官は、慣例を破って洋服を着て行きました。「これからの朝鮮と日本の付き合いは、西洋諸国との付き合いと同様、西洋式にやりましょう」というメッセージを送ったわけです。ところが、先方はそれに反発して、使節の手紙を受け取りませんでした。服装で強い印象を与えようとしたものの、相手もそれに気付いて反発した例と言えるでしょう。
第3は、食事などの「接待」です。

ニューヨークの国連ソ連代表部に桜内外務大臣が交渉に行った際、グロムイコ外相との1時間半に及ぶ交渉で、一杯のお茶も水も出なかったという話は有名です。

1972年9月に椎名自民党副総裁が台湾を訪ねました。日中国交化が始まる前に、いわば仁義を切りに行ったのですが、あの礼儀に厚い台湾が、3日間の滞在の間に一度も接待や食事会合を開かなかったのです。これは明らかに不快感の表明です。訪問団を受け入れて、話は聞くが、心から歓迎しているわけではないということを示したわけです。

第4に、実は、ワインが重大な外交的な意味を持つという話をいたします。

1994年1月6日、フランス・ノルマンディーのカン(Caen)というところで,ノルマンディー上陸作戦50周年記念夕食会が開かれました。この時のメニューは、入手にしにくいノルマンディー産フォアグラとモン・サン・ミシェルの小羊 ――ここの羊は、潮風にあたった草を食べて育っているので格別においしいと有名です。―― の肉、デザートにノルマンディーの林檎、と、料理はすべてノルマンディー産に統一していました。ワインは、1945年にできたシャトー・ラ・ミッスィョン・オ・ブリョンという有名なボルドーのお酒、これはまさにノルマンディー作戦が行われた年に作られたワインです。お客さん全員の量が調達できず、グラスに半分ずつ注いで回ったという話ですが、こうした演出は、1945年を思い出そうという連帯感を醸し出したと思います。政治的メッセージを食事にこめた例として記憶してよいでしょう。

日本でも同じようなことがあります。1990年9月7日に、ソ連のシュワルナゼ外務大臣が来日した際、東京で晩餐会が開かれました。その時に出したワインが、グルジア産赤ワインと日本の甲州白ワインでした。 料理はフランス料理ですから、そこにフランスのワインを出せば全体に西洋料理ということになります。そこで、「我々は西洋の秩序だけで結ばれているのではありませんよ」というメッセージを伝えるため、飲み物はソ連と日本のものを出したのだと思います。かつて、松岡洋右外務大臣が日ソ中立条約を結んでカザン駅を発つ時、スターリンがわざわざ見送りに来て「我々はアジア人である」と言ったという、世紀のシーンがありました。日本とソ連の関係をアジアという次元で考えることは重要なことです。日ソのワインには、友好親善以上の微妙なシグナルが込められていたということだと思います。

第5に、「タバコ」をご紹介します。

1922年のワシントン海軍軍縮条約で、主力艦艇の保有比率は、英米日で5:5:3と定められました。その後、1930年のロンドン海軍軍縮条約で決められた補助艦艇の保有率が、対米7割、正確には6割9分7厘5毛となっています。そして、1935年12月に開かれた第2次ロンドン海軍軍縮会議は大軍縮会議となり、攻撃的主力艦(空母、戦艦、重装備巡洋艦)の廃止すら議論されました。ここで平等比率の採用を主張していた日本の代表団は、ホテルにおける記者会見の席で何をしたでしょうか。当時イギリスで非常に人気のあったタバコ「555」を記者団全員に配ったのです。日本が記者団に巧妙にメッセージを送った例です。

次に「贈り物」の話をしたいと思います。

1992年、私が海部総理に随行してモンゴルに行った時、お土産として馬をいただき、後のことを考えて少々困ったことがあります。その地で生かしてやりたいという気持ちを込めて、止むなくモンゴルに置いてまいりました。

贈り物外交で最も有名なケースは,1972年9月27日に北京で起きた例でしょう。毛沢東主席が田中首相にお土産として『楚辞集註』という本を贈りました。『楚辞』は屈原の物語と連動しています。楚の国の首相であった屈原は、強国、秦に対抗するため、小国による連合を進言しましたが、これは採用されません。滅びんとする楚の国の姿を見るに忍びなかった屈原は、汨羅(べきら)の淵に入水します。いわば諌死です。中国でも愛国の忠臣と評価されており、後に宋の朱熹が、詩人屈原の文学に注釈を付けて書いたのが、『楚辞集註』です。もともと中国には水神に粽(ちまき)を捧げる風習がありましたが、楚の人たちが汨羅江に投身した屈原を哀れみ、命日の5月5日になると粽を水中に投げて屈原を祀るという屈原伝説に変わったと言われています。

なぜ毛沢東が『楚辞集註』を土産にくれたかということにはいろいろな説があります。「屈原の物語は日本人全員が知っているだろう。5月の節句は日本も中国もやっている。日本と中国は同じ伝統と歴史を共有して一緒に仲良くしよう」というメッセージではなかったか、というのが私の解釈であります。

最後に、全く別な話題ではございますがが,一言だけ、国際交流基金について触れさせていただきます。国際交流基金も民間的な力強さを導入しなければいけないと考え、商品開発をしたり、世界各国の理解講座はじめいろいろな啓蒙活動を行ったりしております。どうか今後ともご理解とご協力をよろしくお願いいたします。