卓話


釜の美と製作

2017年6月14日(水)

千家十職
16代釜師 大西 清右衛門氏


 京都の真ん中で仕事をしております。茶の湯釜、茶道具を見ていただける美術館(大西清右衛門美術館)の奥の工房で、鉄を溶かして鋳型に流し込むということをやっています。私どもの三条釜座(かまんざ)というのは、ギルドの職人が住む「座」なのですが、南側には織田信雄が柳の水という名水を使ってお茶を楽しんだという井戸があり、明治までは紀州藩屋敷もありました。

 大西は、最初は古田織部、織田有楽など武家の釜を作っておりまして、私で16代目になります。最初は南山城村から、初代の浄林、二代の浄清、そして弟の浄久の三兄弟で釜座に出てきまして、二代の浄清は江戸に出て江戸大西家というものを打ち立てて、息子の定林と江戸で釜を作っていました。二代浄清は宗旦の四方口釜を作っております。釜だけでなく梵鐘も作っています。品川の品川寺(ほんせんじ)というお寺に二代の浄清が作った梵鐘があります。徳川家三代を祀る、三代の号が書かれた、江戸名所図会にも出ているちょっと珍しい梵鐘なのですが、これを江戸の末にヨーロッパの万国博覧会に持っていきました。しかし、その後行方不明になってしまいます。品川寺の住職は世界を探し回り、大正時代にジュネーブのアリアナ美術館というところで見つかります。梵鐘は返還され、それがきっかけで、品川とジュネーブは友好都市になりました。

 この二代浄清は、大西ではいちばん技術が高いといわれています。
 これはその一つで銀閣寺に伝わる浄清の作った釜です(夜学釜)。大変複雑な形をしています。陶器なら、形を作って焼成すれば壺状のものができるかもしれませんが、私どもは、この逆さまの隙間を作って鐵を流し込んで一体として成形するわけです。わたしが目の前でその釜を見るために相国寺に訪ねてまいりました。私が20代のころに父親が寝込み、自分に仕事ができるかどうかわからないときに、「未熟で作れない」と、しっぽを巻いて逃げ帰りました。通常の釜の作り方とは違うものを二代が作っているのですが、作り方がいっこうにわからない。彫刻の仕方とか、この丸い形と富士山形の型を一つずつ作って、それで試しながらほかの釜を作り、18年後にもう一度見せてもらい、そこから2年かけて復元に成功いたしました(16代作夜学釜)。

 実は、こういう昔のものを復元することも私の得意とするところでして、500年前の九州で使われた中型の作り方や、350年前の二代の作った釜の作り方などを復元しております。

 こちらの釜は初代の浄林が作ったものです(銘「時雨」)。表面はまだら模様。鋳込んだ鉄を真っ赤に焼いて酸化皮膜をつけます。約400年前に、釜に熱処理を施しています。それ以前の釜は、型に流し込んでそのままの状態ですと、歪みが生じてよく割れていたのですが、京釜では、熱処理して割れにくくする、歪みをとるということを行っております。

 利休の釜師の辻与次郎は、利休に「肌をかっかっと荒らせ」と言われ、鋳型に荒らしをつけるだけでなく、熱処理をして、表面の朽ちた表現に変えていっています。初代の大西浄林は、熱処理し酸化皮膜を利用しまだら模様にする技術で笠釜(銘時雨)を使っています。

 正岡子規の「浄林の釜にむかしを時雨けり」という句に詠まれたように、この釜には「時雨」という銘がついているのですが、子規はどうやら浄林の釜に出合ったことがあるようです。

 茶道具というのは、茶人が自身で手作りすることがあります。茶碗や茶杓は自分でひねったり削ったりして作るわけですが、釜は、1300℃を超える溶けた鉄を流し込んだり、その前に鋳型を製作したりと、大変工程が多く、思いどおりにいきにくいかと思います。ところが、お茶の道具の中では、いちばん形の種類、意匠の種類が多いかもしれません。なぜか。大名は、もともと自分の存在を表す、自己主張するような鎧甲を職人に作らせていました。お茶をたしなんでいた大名たち、数寄者たちが、素材的にも武器に近い釜を作ったら——。彼らは、職人を通していろいろなものを作らせ、自分の持つ道具に個性を反映させたのです。

 400年続いている中で私がどういうふうに考えて仕事をしているのかと申しますと、まずは先祖を抜くことを常に考えております。これは初代浄林の霰(あられ)釜です。霰の粒は、鋳型に釘のような棒状のへらで一粒ずつ押しつけていって、くぼみを作って溶けた鉄を流し込んで作ります。大西の霰は、大変粒の間隔が狭く、小さい霰から徐々に大きくしていってきれいに並べるのが特徴です。ただしよく見ていただくと、人間のすることですので、丸であって、丸でないとか、歪みはあります。そういうところの手作り感が面白いのです。数百年使われた釜の底が熱疲労で薄くなっているところから金槌で割っていきます。割った姿が面白いと、一回り、二回り小さい底を作って接着しています。これは漆と鉄粉を混ぜた接着剤で、釜師に何度も修復されながら、数百年後の現在も使われ続けられているわけです。今まで大事にしてきた道具が朽ちてしまった。それをなんとか使えないかと——私の作った霰覆垂釜はその技法を参考にして垂れた部分を実際に割り作っています。

 西洋には、現代美術で、フォンタナという、キャンパスをナイフで切り裂いたような作品を作る人がいます。でも日本では、400年以上前にものを割って破面に力強さを感じたり、割れた趣を楽しんでいるのです。完全なものではなくて、割った破面から力強さを感じたり、不完全なところにも面白さがあるということを東洋の日本人は楽しんでいました。千利休は新しい釜を作らせるときに、「肌をかっかっと荒らせ」という指導をしています。新しいものに朽ちた表現をしろという指導の下、釜を作っていくわけです。

 こちらは私どもの工房です。弥生時代のような、銅鐸を作るような泥で鋳型を作っています。このように、砂混じりの泥砂で鋳型の表面を「荒らして」いきます。右下には桐の模様の彫刻がありますが、耳かきのへらのようなもので鋳型が乾かないうちに彫刻をしていきます。このように、釜屋というのは、いつもできあがりを想像して逆さまの作業ばかりをしているのです。

 20代で父親が寝込んで、さて、私は何を作ったらいいのかと考えました。父親から教えてもらったのはほんの少しで、そのことからは、三代前までの仕事はわかるのですが、四代以上前の仕事にはどうも合点がいかない。そこで、中から底から、よくよく釜を観察して、昔の職人ならどういうふうに作ったのか考えました。そしてまずは試してみます。頭で考えていてもなかなか進みません。手を動かしてしてみると、失敗します。失敗したら、その代わりに糸口が見つかっていきます。それを直していく。そうするとうまくいくかもしれないし、また失敗するかもしれない。そこでまた違う糸口を見つけていく。その繰り返しで古い技術を復元していっています。

 これは400年前の伏見桃山城の蝶番(ちょうつがい)と門の飾り金具です。あるお寺から、これを溶かして釜を作ってくれという依頼があったのですが、溶かしたら鉄は新しくなりますよ、ちょっと考えましょうということになりました。そこで、耳の部分は蝶番と蓋は飾り金具と昔の400年前の鉄で、真ん中の部分は新しい鉄を流し込み合体させて釜を作りました。お寺で400年間守り続けてきた門の金具を釜の形に合体させ移し替えて、また数百年使ってもらおうと考えました。

 また以前、施主とアフリカのプリミティブな仮面などと一緒に、普通とは違うお茶会を体験させていただくことがありました。その時の施主との接点をイメージを釜に出せるか、雰囲気を表せないかと考えたものです。麻ひもをつけた釜を作ったのです。釜というのは、茶道具の中で製作期間がいちばん長くかかり、工程もいちばん多いかと思います。その中でいろんな種類の釜ができていますので、アーティストのように、いくつか作って表現を見せていくには間に合わないのです。私は30代から、施主を見つけて、その人の要望に応えるような釜を作ろうという方向に転換しました。そうしましたところ、人に恵まれて、いろいろな釜を作らせてもらえる機会をいただきました。

 失われた技術の再現と、オーダーメードと、今後も両方を進めていこうと思っています。