卓話


新聞、いま昔

2015年7月29日(水)

朝日新聞社 顧問
秋山耿太郎君


 「新聞」の歴史をさかのぼると、ローマ時代にカエサルの命令によって元老院の議事録を公示したのが起源という説があります。一般には15世紀のドイツのアウクスブルクという街の豪商フッガー家が、貿易や通商活動に関する情報を「手書き新聞」の形で販売したことが始まりとされているようです。

 日本では、江戸時代に「かわら版」がありました。江戸や京都の町の出来事、火事や地震、浅間山の噴火、巷の噂話などを粘土板や木版で刷った絵入りのビラです。「かわら版売り」が辻つじで読み上げながら売り歩きました。

 定期的に発行する新聞としては、幕末の文久2年(1862年)に徳川幕府が発行した「バタヒヤ新聞」があります。オランダ領ジャワ(バタビア)でオランダ総督府が海外情勢をまとめた「ヤバッシェ・クーラント」という新聞を出していたのを、蛮書調所で日本語に翻訳したものです。開国か、攘夷か、国論が割れる中で、幕府としては要路の人々に海外事情を知ってもらうための手段として「新聞」に目を向けたのでしょう。

 明治維新を迎えると、日本の各地で内外のニュースや商品相場などを載せた新聞の発行が相次ぎます。明治3年創刊の「横浜毎日新聞」は最初の本格的な日刊紙です。読売新聞は明治7年に東京で、朝日新聞は明治12年に大阪で誕生しました。

 新しい時代のうねりを伝える新聞は、人びとの貴重な情報源でもあり、同時に、明治政府が掲げる「文明開化」「富国強兵」という国家目標の担い手という側面もありました。明治7年の台湾出兵に始まって西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と大きな戦争が相次いだことも、戦況を報じる新聞が多くの人々に読まれ、世に広まっていく要因となりました。

 第二2次世界大戦が終わって、「言論の自由」「表現の自由」を手に入れた日本の新聞は、経済の高度成長の波に乗って、読売新聞1000万部、朝日新聞800万部と巨大部数を誇るようになります。「日本語の壁」があって外国の新聞の進出を阻んでいることや、独占禁止法の例外としての「再販売価格維持制度」によって強力な販売網ができたこと、さらに、占領期の1951年(昭和26年)に成立した「日刊新聞紙法」によって新聞社の株式には譲渡制限をつけることができるなど、新聞産業は幾つもの「壁」に守られてきました。「最後の護送船団業種」と言われるゆえんでもあります。

 しかし、高度成長が終わって、人口が減少し、本格的なインターネット社会を迎えると、新聞を取り巻く環境もすっかり変わってきました。インターネットから直接情報を入手し、発信することが出来るようになって、若者は紙の新聞から離れていきました。大幅な部数の減少、広告収入の減少が、新聞社の経営を苦しめています。

 新聞ジャーナリズムの先進国でもある米国では、日本よりも先にネット時代の大波が新聞界を直撃しました。全米各地で新聞社の身売りや廃業、記者を減らす大幅リストラが相次ぎました。その結果、新聞記者が取材に来なくなった地方の町では、市の幹部たちがお手盛りで給与を引き上げてオバマ大統領を上回る高給を取っていたという事例も報告されています。

 デジタル時代をどう生き抜いていけばよいのか。紙の新聞をどこまで残し、インターネットによる情報発信をどのように育てていくのか、どの新聞社も必死で検討しているのですが、総体としてはまだ、明確な方向性を定めかねている状況です。

 新聞の役割は、歴史を記録し、真実を追究すること、権力を監視することです。新聞の退潮が続いて、権力を監視する機能が弱体化していくと、世の中がおかしな方向に進みかねません。言論や報道という名の商品を扱う新聞社の仕事は、なかなか一口には尽くせないものがあります。皆様方には現在購読しておられる新聞を、どうか末永くご愛読いただきますよう、心からお願いいたします。


国宝の井戸茶碗

2015年7月29日(水)

蠹貮霽寛濺后ー萃役会長
根津公一君


 本日は国宝の指定を受けている唯一の井戸茶碗の話をしたいと思います。  これからお話する内容は、全て史実に基づいているということを、先ず、お断りしておきます。

 井戸茶碗は、高麗茶碗の一種で、茶道のお茶会での特に濃茶席における主茶碗としては最も格式の高い茶碗であると言われています。今から450年程前、室町時代末期の戦国時代から安土桃山時代にかけて、織田信長を筆頭に当時の戦国武将が競って優れた井戸茶碗を所持、愛玩しておりました。今でも「信長井戸」、「柴田井戸」と言ったように大名家の名がついた井戸茶碗が多く残っております。

 井戸茶碗というのは非常に不思議な茶碗で、解っていない事が多いのです。例えば、朝鮮半島の何処で焼成されたものか、誰が何時、この茶碗を持ち込んだのか、そして、何故、井戸茶碗と呼ぶようになったのかも諸説あり現在も調査中です。

 我が国には国宝の指定を受けた茶碗が8碗あります。和物が2碗、唐物が5碗、高麗茶碗が1碗です。

 今日の本題は、この井戸茶碗の中で唯一国宝に指定されている、現在、京都の大徳寺の塔頭、孤蓬庵にある大井戸茶碗 銘 喜左衛門と言う茶碗です。

 この銘は、江戸時代初期慶長年間の頃、大阪に竹田喜左衛門という裕福な町人が持っていたところからきています。竹田喜左衛門は沢山の名物茶器を集め有名な茶人でしたが、茶の湯道楽が過ぎたのか、身代を潰し、家族まで失う羽目になってしまいました。しかし、唯一この茶碗だけは手放しませんでした。

 数年後に、賀茂川の河川敷に、大きな箱をぶらさげて体中に腫れ物ができて死んでいる竹田喜左衛門が見つかります。町奉行がそれを検めると、中には立派な井戸茶碗が出てきたそうです。この後もこの井戸茶碗は、多くの大名や商人が欲しがり、大名である本多能登守忠義のものとなり、そしてその後の100年間のあいだに二人の裕福な茶人の所有となりますが、本多能登守もその後の二人も腫れ物が原因で亡くなっています。

 時は移って安永年間1770年代の終わりごろ、松江藩第7代藩主に松平治郷という人がおりました。

 茶の湯が好きで沢山の名物茶道具を集め雲州蔵帳という本を出し、雅号は不昧、お茶の世界では大変に有名なかたです。この松平不昧公が奥方様や家臣達の猛反対を押し切って、大井戸茶碗銘喜左衛門を大金をはたいて購入してしまいますが、何年か経つと、噂どおりお殿様に腫れ物が取り付いてしまいます。その後一計を案じ、自分が所有しなければ良いのだと、息子にこれを譲りました。

 しかし何年か経つと、やはりその息子に腫れ物が取り付いてしまいます。事ここに至って、文政5年1822年にこの井戸茶碗を京都大徳寺の塔頭、孤蓬庵へ寄進してしまいます。それ以来ほぼ200年近く、京都の大徳寺にあり、犠牲者は出ていないようです。

 そして、現代の話です。
 今から四年前、有名な月刊誌に私の良く存じあげている二人の著名なお茶の先生が、京都大徳寺の塔頭孤蓬菴でこの井戸茶碗についての対談が特集され、そのお二人の間に濃茶の入ったこの茶碗が写っていました。

 それから2年経った頃、その内の1人の先生に、「あの時、喜左衛門井戸で濃茶を飲まれたのですか?」とお尋ねしてみました。すると、「実は、もう一人の先生が、こんな機会は二度とないから、飲もうとおっしゃったんです。私も躊躇しましたし、何より、御住職が、お止めになった方が良いのでは、と言って下さったのですが…。もう一人の先生が、私はもう80歳を過ぎている、冥土のみやげに、どうしても飲みたい、との事で結局二人で飲んだんです。」 と。

 その時、私ははたと思い出したことがあります。2年半前に、その80歳を過ぎた先生を病院へ御見舞いに行ったことがあります。その時の病名は肺癌でした。手術後、今もお元気でいらっしゃるのは喜ばしい事です。

 そして、そのもう一人の先生に、あなたは、大丈夫だったんですか?と聞いたところ。  「実は、誰にも言わなかったのですが、あれから一年後ぐらいしたら、背中に大きな腫れ物が出来て、手術して取りました。」ということでした。

 それを聞いて、やはり、この国宝の井戸茶碗には、何か在るのでは、と思わざるを得ませんでした。