卓話


「その時歴史が動いた」から

2009年12月9日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

螢フィス・マツダイラ
エグゼクティブ・アナウンサー
松平定知氏

 松平でございます。本日はこんなに多くの皆様方を前にお話しすることが出来,大変光栄に存じます。まず,自己紹介を兼ねて,と申しましても私のことはどうでもいいのでございまして,今日はあえて家内の話を致すことをお許しいただきとうございます。家内は旧姓を福島と申しますが,彼女の祖父は福島喜三次であります。彼は日本人初のロータリアンで,当時の会長から日本にRCを創ることを薦められた男,と聞いております。彼は「自分はまだアメリカに滞在しなくてはならず,年齢も若かったので,三井の御大(米山梅吉氏)に会長になっていただいた」と言っていたそうです。故郷の佐賀県有田の町には,喜三次の功績を顕彰して『日本ロータリークラブ発祥の地』という碑が建てられています。つまり,RCは私にとりましても因縁浅からぬ所でございまして,その意味でも今日,こうしてお話しする機会を頂き,大変感激しているところでございます。

 さて,本日は演題にもありますように,私が担当した番組に関連して,少し歴史のお話を,と思っております。歴史の資料,「史料」についてでございます。

 私どもは「今」に生きておりますから,歴史上のことどもの「結果」についてはみんな知りうる立場にあります。しかし,同時に我々はだれ一人,「当時の現場」に立ち会うことは出来ません。「本当のところそれはどういう経緯でそうなったのか」は誰にも分からないのが実情であります。そういう「空白」を埋めるのが「史料」でありますが,この「史料」はいつでもどこでも「正しいか」というと,必ずしもそうではないのです。と,今日はそんなことをこれから,二十数分間お話しさせていただこうと思っております。

 歴史は往々にして勝者の口から語られがちです。歴史上,数々の戦いがありましたが,その戦いに負けた者は歴史から消えてしまう。勝った者だけが自分の正義を後世に伝えていくことができるという仕組みです。その過程の中で,特に「家譜」のようなものは,「おらが家の大将の話」と,その一人の勝者をよりグレードアップするために,後世の作家がフィクションを交えて書いた部分もたくさんございます。それを金科玉条のように掲げて,「ほら,ここにこうして書いてあるじゃないか」と,それを元に「あの歴史の流れはこういうことで推移していったのである」と思ってしまうことは必ずしも正しい姿勢ではないと思います。もちろん,その「史料」が今日まで伝わっていることについては大いなる敬意をもって接しなければなりませんが,そのことと,「ここにこうして存在するのだから,この史料は唯一無二の絶対的正しいもの」と捉えることは本来別問題でございます。勝敗は時の運であります。勝者に正義があるのなら,敗者にだって正義はあるはずです。勝者同様,敗者にも言い分はあったろう,という観点に立たなければ,それは不公平,というものでございます。

 二,三実例をあげます。たとえば,私たちはこれまで「蘇我一族は,稲目,馬子,蝦夷,入鹿と,権勢をほしいままにし,天皇の上を狙っていた野心家一家」という風に教わりませんでしたでしょうか。しかし,その後,発見された遺構などの研究が進みますと,そうとばかりは言えないと思われる事実が出てきたりします。要するに,「蘇我氏の横暴」説は,次の時代の,藤原氏が自分たち一族の繁栄のために是非必要なプロパガンダだったかもしれないのです。中大兄皇子と中臣鎌足が皇極女帝の前で入鹿の首を斬った事件が大化の改新に繋がっていくのですが,その鎌足の子の不比等は,自ら外戚になり,息子たちにそれぞれ「藤原四家」を創らせ,藤原家は平安時代の主役になっていきます。そのためには,不比等のお父さんが殺した蘇我入鹿は悪者でなくてはならなかったのでしょうし,また,関ヶ原で対峙した石田三成に,「彼は権力者の秀吉にはゴマを摺りまくり,それでいて,他の人には横柄で冷酷な悪代官」といったイメージを植え付けさせたのは,「家康史観・徳川史観」であったでしょう。幕末の幕臣・小栗上野介が横須賀に製鉄所を作り日本の近代化に大いに寄与したことには触れずに,「金塊を隠した大泥棒,フランスに国を売った売国奴」という「言いがかり」をつけられたのも,次の明治新政府には「徳川幕府の悪」を喧伝する具体例としての生贄が必要だったのでありましょう。

 幕末,といえば,昭和史の重鎮・半藤一利さんはこのほど「幕末史」を上梓されましたが,これは,明治時代の「薩長史観」にモノ申す,といった姿勢で描かれています。といっても,徳川幕府擁護論ではありません。そうではなくて,明治維新前後の「薩長正義」という考え方はいかがなものか,というものです。半藤さんは新潟・長岡ゆかりの方です。長岡で新政府軍が,あれだけ人々を殺し,その余勢を駆って会津藩になだれ込み,白虎隊の悲劇を現出させた,あの戦いは何だったのか,鳥羽伏見に始まる戊辰戦争は,新しい時代を迎えるために本当に必要な戦争だったのか,という問題提起です。
 
 徳川慶喜は大政を奉還したじゃあないか,江戸ところ払い,江戸から静岡に行くことも承諾したし,七十万石に減じられても,はいはいとそれにも応じたじゃあないか。だからいわゆる「新政府軍」には,これから戦争を仕掛ける大義名分なんて,なかったはずだ。にもかかわらず戦いを無理やり仕掛けたのは,新しい時代における自分たちの「立場」,要するに,自分たちの栄達がかかっていたからではないのか。新しい国の体制の中で,自分たちがヘゲモニーをとるためだけの「戦争」ではなかったのか。こうした薩長の横暴ぶりには,一度,楔を打ち込んでおかなければならぬのではないか,という主張です。まあ,この,今日のこの席にも,薩長関係者はいらっしゃるでしょうから,あまりそこに深く切り込んでいこうとは思いませんが(笑),これはこれで,見識ある考え方,だと思います。

 まあ,こうした,体制の変化に伴って起こる,「現体制に都合のいい史観」からなる「史料」の捉え方には,今さら言うまでもないことですが,史料に接する側の,つまり私たち一人一人の冷静な視点がぜひ必要だと思うのです。

 そうそう,体制の変化の際だけでなく,同じ仲間同士でさえ,それぞれに,いろいろな思惑が交錯するのが歴史です。それに関連して,こんな話も,まあ,ここにいらっしゃる皆様は,よくご存知の話ですけれど,ちょっとご紹介します。坂本龍馬の話です。なぜ龍馬かといえば,NHKの来年(平成二十二年)の大河ドラマが「龍馬伝」だからです(笑)。去年の「篤姫」,今年の「天地人」,皆様にはお世話になりました。来年もよろしくお願い致します(笑)。

 さて,龍馬は今でこそ,こうして「全国区」人気ですが,明治時代には殆ど知られていなかったようです。もちろん,幕末にあれだけの働きをした人ですから,志士や新政府関係者の間では「有名人」でしたが,明治になってからというもの,一般の人の口にのぼることは殆どありませんでした。まあ改元後,次から次へとめまぐるしく世の中変わりましたから,一般の人たちには,二,三年しか経っていなくても幕末は相当昔の話,という感覚があったのではないでしょうか。

 そんな明治も深くなった明治三十七年二月六日。日露の国交が断絶します。大国ロシアと戦って勝てるわけがない,と,当時の日本人の多くは「恐露病」にかかっていました。その日の夜,皇后(昭憲皇太后)は夢をご覧になった。白装の男が夢枕に立って言うには「微臣は維新前,国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候。露国のこと,身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍に留まり,聊かの力を尽くすべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言ってふっと消えたという夢です。皇后は龍馬をご存じなかったので,翌朝,お付きの者に御下問なさった。何故?と思いながらもそのお付きの者は,皇后は御下問の理由をおっしゃらなかったので,龍馬のアウトラインだけを,まあ,ざっと説明した。それでその日は終ったのですが,皇后はその夜も龍馬の夢をご覧になった。二日続きでした。そこで,翌朝,皇后はことの次第をお付きの者に詳しくお話しになった。それを聞いたお付きは上司に連絡します。その上司は田中光顕といい土佐出身の人でした。だからもちろん龍馬とは顔見知り,同郷の中岡慎太郎が隊長の陸援隊の副隊長で,後に宮内大臣になった人物です。で,では写真をお見せしよう,ということになった。皇后はそれをご覧になって「この人である」とおっしゃったというのです。これが「皇后の奇夢」という新聞記事になり,しかも日本海軍はバルチック艦隊に勝利したものですから,龍馬人気は一気に沸騰,今日に至る,ということなのです。

 この話が本当かどうか,わかりません。明治も三十七年経って,日本が薩長中心で動いていることについて,かつて薩長土肥といわれた割にはどうも最近,土佐の影が薄いぞ,と感じていた田中光顕がここで世間の耳目を土佐に集めるために演出した話,とする向きもありますが,田中本人は(彼は昭和十四年まで生きた人ですが),死ぬ瞬間まであれは本当の話だ,と言っていたそうです。ことほど左様,どんなに史料に書いてあっても,本人が言い募っても,真相は藪の中,というのが実情です。逆に,書いてないからそれはなかったと決め付けるのも歴史に対する冒涜です。「そのこと」はわざわざ書きとめる必要もないくらい「当たり前のこと」だからあえて書かなかったということだってありますから。ですから,「史料」に書いてあるから「あったこと。本当のこと」と思うことも,書いてないから「なかったこと」と思うことも,両方,間違いなのだと思います。

 少しでも歴史の真相に近寄るためにも,「史料」に対して,自由な立場でありたい,と私は思っております。本日は,ご静聴ありがとうございました。