卓話


お天道様に恥じない経営

2006年10月25日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

一橋大学大学院 商学研究科
教授 伊丹敬之氏 

「お天道様に恥じない経営」               

 日本経済調査会の委員会で約1年にわたって議論したテーマは「日本企業のガバナンスと社会的責任」というものでした。

 ガバナンスと社会的責任をつきつめて考えていくと「経営者はお天道様に恥じない経営をする」というシンプルな表現になるのが本筋だという結論になりました。

 実はこれから申し上げる話のミソは,社会的責任の一番の中心はコンプライアンスにもなく倫理でもない。社会に有用な企業活動をきちんと行い,しかも時には長期的利益を犠牲にしてもやるというのが,企業の社会的責任の一番の中心だということです。

 ガバナンスとか社会的責任とかが議論の対象になるようになった理由は次のようなことです。企業は社会の経済活動の中心であり,さまざまな製品やサービスを提供し,一方では雇用を作り出し仕事と所得を与える存在である。しかも企業は単独で存在するものではなく,社会の中で存在が許されていると思うべきである。さまざまな社会基盤の恩恵を受けている存在であるから,当然に社会に対してそれ相応のお返しをする義務がある。そのお返しは利益という形で返せばいいだけかという問題をここで問いたいということです。
 
 お話しする前に,我々が使おうとしている言葉の意味をご説明します。
「ガバナンス」はシンプルに,「経営者の権力の乱用を防ぐモニターとチェックのメカニズムのこと」と定義します。
「企業の社会的責任」は三つに整理しました。
1 社会的有用性責任 社会の公器として有用な活動をたくさん行う責任。
2 社会規範責任 社会の安定に寄与する責任。社会規範の典型的なものは法律です。コ
ンプライアンスは社会規範責任の範疇です。
3 市民責任 社会の市民として社会に何らかのお返しをする責任。企業活動とは直接関
係のない非経済的なところで貢献する責任。フィランソロピーといわれているものは,す
べてこれに属します。

 1の社会的有用性責任では,よりよい製品やサービスの提供。雇用や納税も社会的貢献です。さらに地球環境の維持に対して企業の経済活動,事業活動を通して責任を果たすこともあります。これは大きな部分です。

 このように企業の社会的責任を三つに分類したのはなぜか。我々が大切だと考える社会的責任にスポットライトを当てずに,それ以外のことをして社会的責任を果たしているという言葉を使う企業が,時にあるからです。

 私どもの委員会では,時には利益を犠牲にしても社会的有用性を優先する事業経営をすることが,企業の社会的責任の一番の本質であると定義しています。

 なぜ「時には利益を犠牲にしても」ということにならざるを得ないのか。それは利益をあげる行動と社会的有用性を貫く行動が,時に矛盾する危険があるからです。

 たとえば,安い値段で短期的にはコスト割れで,新商品を世に出した企業の目的が「長期的な利益を大きくするために,今の社会的評価を高めておこう」ということであれば,それは決して社会的責任を果たしていることにはならないという側面があるからです。

 我々が,「時には利益を犠牲にしても」ということを強調したほうがよいと考えた理由は二つあります。

 一つは,社会に有用なさまざまな製品やサービスを提供できる能力をもっているのは企業だけである。企業には間尺に合わないことがたくさんあるけれども,その責任をもつことを自覚してほしい。

 もう一つは,コンプライアンスやフィランソロピーをやっているから,我が社は社会的責任を果たしているというのは間違っていないかということを指摘したかったからです。

 「時には利益を犠牲にしても」という行為は所有者の私的財産権を侵害することにならないかという議論もありました。

 憲法に,私的財産権は公的目的のために,時に制限されることがあるという趣旨の文言があるのだから,私的財産権は絶対に犯すべからざるものであるとは思わなくてもよいという議論になりました。

 事は私的財産権の若干の制限ということになりかねないことですから,経営者がその種の社会的責任を果たす場合には,大きな説明責任を生じるでしょうし,何よりも高いモラルをもった経営者でなければ考えられないことであります。

 その高いモラルのことを,江戸時代の商家以来,日本で古くからいわれてきた「お天道様に恥じない」という言葉で表現しようというのが我々の意図です。「お天道様」というのは高いモラルの象徴的表現です。

 社会的責任を以上のように理解したとして,コーポレート・ガバナンスとの関係をどう考えるかという具体的問題になります。

 企業は,コトとしての企業,モノとしての企業,ヒトとしての企業という三面を同時にもっています。

 コトとしての企業は,事業活動そのものが企業の中心と考える面です。モノとしての企業とは財産の集まりとしての企業です。金の集まりとしての企業と表現してもよいでしょう。ヒトとしての企業は働く人の集団です。経営者も含めて働いているという側面です。

 企業の社会的責任のほとんどが,実はコトとしての企業に関連しています。これをコーポレート・ガバナンスの側面からみると,どうアプローチできるか。

 コーポレート・ガバナンスの仕組みは圧倒的に,モノとしての企業という側面から作られた法制度,慣行が多い。会社法などは典型的なものです。株式会社法という法制度が始まった歴史的根源が,モノとしての企業をどういうふうに成立させるか,法人として成立させるかという法制ですから,株主中心,株式中心に整備されているものが多い。そこで,その仕組みに企業の社会的責任のガバナンスあるいはヒトとしての企業のガバナンスを任せていいかという問題が出てきます。

 「社会的責任投資」という言葉があります。社会に対して責任を果たすような,いい投資をしているかという面からの評価を企業評価の一つにしようという動きです。

 これは,あくまで株式市場のメカニズムのなかでのことで,必ずしも悪いことではないと思います。

 しかしそれだけに任せていいのかという問題が生じます。申し上げているように「時には利益を犠牲にしても」というキーフレーズを考えると,当然の結論として,モノとしての企業では,この考え方が出てきてはいけないのです。そういったガバナンスのメカニズムに社会的責任のガバナンスを任せるのは不十分だということになります。

 さらに,ヒトとしての企業という側面では権力をモニターしチェックするということであれば,そこに働く人たちの意見をどう入れるのかというのは,大変な大問題です。

 このようにガバナンスは二重の課題をもっています。社会的責任を果たしているかというガバナンスが一方にあり,他方,人の集まりとしての企業の権力をチェックするガバナンスがあります。二重の課題をガバナンスが抱えざるをえないのです。これからは,企業のコトの側面とヒトの側面が一番分かっている筈の,企業で働く人たちがガバナンスの中心になってこないと機能しないだろうという論理的推測は十分にできると思います。

 先程「お天道様に恥じない」という言葉に象徴されるような,高いモラルが経営者に求められるとすると,そのモラルに従った経営をやっているかをチェックするのは,人でしかあり得ない。ヒト中心のガバナンスが企業には重要であろうという結論になります。

 これには株主を加えたガバナンスが当然に必要ですが,株主だけのガバナンスでは,恐らく具合が悪かろうということです。

 お天道様に恥じない経営とは,経営者が高いモラルをもってお天道様に問いかけ続ける経営です。社会的規範は絶対に守る。社会的有用性責任を遂行する。自らの権力の乱用を慎んで働く人々の声に耳を傾ける。働く人々は企業の内なるお天道様かもしれません。

 モノ中心のガバナンスとヒト中心のガバナンスの共存は決して容易なことではありません。私は特に日本だけの問題だとは思いません。古来いろいろな国でも悩んだことです。 私は,この問題について世界的貢献を日本企業から発信できるという希望的観測をもっております。日本の企業が江戸時代以来,連綿としてもっていたヒト中心のガバナンスにたいするこだわりがあるからです。現行の会社法という枠を守りつつ,大胆にさまざまな工夫をして,日本の経営者の方々が思想的基盤にまで思いを致して,江戸時代以来もってきた良さを,世界に分かる言語で,制度改革を語っていただきたいと思います。