卓話


21世紀、柔道の果たすべき役割

2006年6月7日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

東海大学 教授
山下 泰裕 氏

 私は小学4年生の時に柔道を始めました。当時の私はとんでもない暴れん坊で,私がいるから学校に行くのが嫌だと,他の児童が言うくらいの悪ガキでした。その悪ガキが,柔道の「道」の教えを恩師から受けているうちに段々と自分が変わってきました。

 東京オリンピックの時,私はちょうど小学1年生でした。男子体操とか重量挙げとか女子バレーなどの日本選手の活躍が強く印象に残りました。私は自分も強くなってオリンピックで日の丸を揚げたいとの気持ちをもち続けて,目標である世界一を達成しました。

 私は,選手引退の後,全日本のコーチになり,1992年のバルセロナの後の4年間と,シドニーオリンピックまで4年間,合計8年の間,日本代表チームの監督を務めました。

 このように柔道界で生きていくなかで,私の心の中に,大きな疑問がわいてきました。日本の柔道界は,どうも勝ち負けだけにこだわりすぎる。あまりにも勝敗にこだわるが故に,柔道人のマナー,モラル,道徳心,倫理観がおかしくなってきている。これでいいのかという疑問が,私のなかで,段々と大きくなってきました。

 柔道を創設した嘉納治五郎先生は明確にその目的を定められました。「柔道を通して心身を磨き高め,よって世の中に不易する人材を育成する」というのが柔道の目的でした。当時,様々な武道の中で「道」とつくものはなかったそうです。嘉納師範は,柔の術は道場で培ったものを人生に活かしていくべきものであるとの考えから,柔道と呼称し,その道場を道を講ずる館(やかた)、講道館と名づけました。今から120年前のことです。

 「伝統とは形を継承することをいわず,精神を継承することをいう」という言葉があります。我々は,柔道創設者がつくった精神を,本当の柔道を継承してきただろうか。私は勝ち負けだけにこだわり,目に見える見事な一本技だけを目指し,最も大切にしなければいけないその心を見失ってきたのではないか,ということを様々な機会に訴えてきました。

 2001年,日本の柔道界に新しい動きが起こりました。講道館と日本柔道連盟の合同プロジェクトである「柔道ルネッサンス活動」です。もう一度,創設者の理想の原点に立ちかえって,柔道を通して人づくり,人間教育をだいじにしていこうという運動です。

 多くの指導者や選手たちが,柔道は人づくりであるということに賛同するようになりつつありますが,まだまだ道半ばであります。

 このルネッサンス活動で目指しているものが二つございます。

 一つは,子どもたちが柔道に憧れて,柔道着を肩にかついで,道場に行きたがるような柔道界にしたいという思いです。

 柔道はゲームや遊びから始まったものではありません。厳しいところもつらいところもあります。近い将来,人々が柔道について語るとき,「柔道をやっている人は,どこか違う。柔道というのは人づくりだ。人間教育のひとつだ」と思ってもらえるような柔道界にしていきたいと念じているところです。

 もう一つは,目に余る教育の荒廃を,柔道を通して,ほんの僅かでも,なんとかしたいという思いです。今,中学校体育連盟の柔道部会と連絡しながら,次のような運動を進めております。

 中学校で,悪さをしたり人をいじめたり,物を壊したりして,回りが困るのを見て喜んでいるようなグループを,柔道部に招き入れようという運動です。柔道を通して彼らのエネルギーをよい方向に価値ある方向に向けていこうという運動です。自分の反省も含めて,このことはできる筈だと思います。

 学校に行けない子が増えてきています。友達がいない。自信がない。笑顔を忘れて心を閉ざした可哀想な子どもたちがたくさんおります。こういう子どもたちを,招き入れて,そのレベルに応じた柔道を体験させたいと思います。柔道を通して友達ができる,自信がついて笑顔が戻るということもできるのではないかと考えております。

 クラブ活動で強い選手を育てることもすばらしいことですが,同じように,それ以上に価値があるのは,悪さをする子や笑顔を忘れた子に光を与えることだと考えております。私は,この運動では早く成果を挙げたいと思います。少しでも成果が挙がったら,ほかの武道やスポーツと組みたいのです。我々でやれることは僅かですが,一緒に力を合わせれば,さらに成果が挙がると思います。

 実は,今年の1月に,「子どもたちの未来のためにスポーツ界は何ができるか」というシンポジュームがありました。日本サッカー協会の川渕キャプテンもパネラーでおられました。私は壇上で「柔道を通して人づくり」の話をして,川渕キャプテンにサッカー界にも是非協力をお願いしますと申しました。

 翌月の2月,サッカー協会常務理事会の席で,川渕会長の提案で少年少女の人間形成に資する「サッカー心のプロジェクト」を立ちあげたのには,びっくりいたしました。

 私は,サッカー界からも学び,将来は,各種の競技団体と組みながら,僅かであっても微力であっても,青少年の健全な育成に一定の役割を果たしたいと思っております。

 2003年から,国際柔道連盟の教育コーチング理事になりました。世界の国々を回る機会が増えました。「柔道ルネッサンス活動」を世界に発信していきたいと思っております。世界の柔道界がネットワークを作って,できることを導入しながら,実施しながら,それぞれの国の青少年健全育成に寄与できればいいと考えております。

 国際柔道連盟の理事として,世界の国々に柔道を普及させることと,柔道のもつ教育的価値を広めることが,今の私の,もう一つの活動になっております。

 2003年の5月に,サンクトペテルブルクの建都300周年記念式典がありました。私は,小泉首相に随行してプーチン大統領にお目にかかりました。プーチン大統領は「私はいろいろなスポーツをやったが,最後に柔道に行き着いた。私にとって柔道はスポーツではない。柔道は私の哲学である。柔道がなかったら今の私はない」と言われました。プーチン大統領の自宅には柔道場もあり,リビングルームには嘉納治五郎師範の銅像が飾ってあるそうです。その後,大統領とは数度の出会いがあり、柔道が日露交流の一助になったことを喜んでおります。

 柔道を普及させるということは,日本の心を柔道をとおして伝えることです。そうすれば,20年後,30年後には柔道をとおして日本に対して,世界の興味,関心,理解や信頼の輪が広がっていくのではないかと思います。

 様々な活動のなかで,たいへん幸運なことが起きました。プーチン大統領とのご縁で私は「日露賢人会議」のメンバーに選ばれ、その会議のメンバーである経団連の奥田会長とご一緒できました。たまたま朝食会の席で、柔道ルネッサンス活動の話をいたしました。実は奥田会長もかつては柔道をなさっています。そのご縁で昨年の4月,奥田会長と共著の『武士道とともに生きる』が出版されたこともありがたく思っております。

 幅広い方々のご協力を仰ぐために設立した「柔道教育ソリダリティ」というNPO法人が今年の4月に認可されました。ソリダリティは「連帯」と訳します。柔道の教育的価値を日本国内だけでなく,世界に広めていきながら,日本の心を伝えていくことにつないでいきたいとの思いで活動しております。

 オリンピックで日本が勝ち続けることも非常にだいじですが,スポーツを通して,いろいろな国の人たちと手を組んで,スポーツを通した青少年の健全育成と日本の心を伝えるために積極的に行動するのが,日本の柔道界の役割ではないかと思っております。

 私は5回か6回の人生を生きたいと思っております。選手としての人生,指導者としての人生を終えて,今は第3の人生に入っていると思います。

 第3,第4は見えません。しかし最後だけは,はっきり見えています。

 何歳まで生きるかは分かりませんけれど,この世での役割を終えた時に,お二人の方々に迎えていただきたい。一人は未だお会いしたことのない嘉納治五郎師範です。「お前が山下か。よく柔道の道を極めたな」という一言をいただきたいものだと念じています。

 もうお一人は東海大学創設者の松前重義博士です。同郷の熊本県人です。松前先生は「柔道を通して世界の若人と友好親善を深めてほしい。スポーツを通して世界の平和に貢献できる人間になってほしい」とおっしゃいました。松前先生には「よく頑張った」と褒めていただきたいと思います。これが私の人生最大の,そして最後の夢でございます。