卓話


PCAT(Primary Care for All Team)の活動とこれからの課題−東北復興へ

2011年8月24日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

日本プライマリ・ケア連合学会 東日本大震災支援プロジェクト(PCAT)
チーフコーディネーター,元ロータリー財団奨学生
救命救急医師 林健太郎氏

 私は山形県の酒田市出身ですが,育ったのは東京の江戸川区です。琉球大学医学部で麻酔科を研修し,その後,日本医科大学の救命救急科で学びました。

 2004年から「国境なき医師団」に参加して,ミャンマー,スリランカ,ナイジェリア,イラクで医療活動に従事しました。

 2007年にロータリー財団奨学生として,オランダの王立熱帯開発政策研究所で熱帯医学と開発学を学び,さらに,ドイツのハイデルベルクで災害医学を,デンマークのコペンハーゲンで人道医療学を学びました。ここで国際保健修士課程を終えて,2009年に日本に戻って来ました。

 2008年,ミャンマーにサイクロン「ナルギス」がきました。15メートルの高潮が大地をのみ込み,14万人近くの死者・行方不明者が出ました。私は就学中でしたが,救援活動に行くことになりました。現地には外国人の医療者は入れないということで,現地の研修医を集めて,災害医療,移動診療,熱帯医療の方法をクイックに指導して派遣しました。地元のもともと地元にいた医師や病院の支援や,台風で流された病院を復興するお手伝いをしました。孤児になった子供たちを支援する活動は,昨年の12月から今年の1月まで行っていました。

 3月11日の東日本大地震では,救命のデッドラインである72時間を経過しても,医療班が現地に辿りつけず,現地に行っても,怪我人や救急の患者さんと会うことができないという状況でした。

 大災害の時には,患者さんの容体を診て「緑・黄・赤・黒」のトリアージタッグを着けて救急搬送に備えます。72時間を経過した後の津波の被害では,直ちに処置を行えば救命可能な「赤」や、中等症群の「黄」のタッグは少なく、元気な「緑」の人か,もしくは既に亡くなってしまった「黒」の人がほとんどでした。残念ながら救急医療としての出番は少ないという状態でした。

 「救急期」に次ぐ「亜急性期」の支援は中長期になります。そして,復興が鍵になります。私は,災害の直後に,この時期の支援は被災者に寄り添うタイプの,地元密着型が必要だと思っておりました。

 私は,幾つかの災害援助団体に所属しています。様々な所に顔を出していたお陰で日本プライマリ・ケア連合学会ともご縁ができ,PCATプロジェクトに協力することになりました。

 PCATは昨年,総合診療学会,家庭医療学会,プライマリ・ケア学会,の三つの学会が合同して,新しく「日本プライマリ・ケア連合学会」となって発足した学会です。

 この学会は,総合的に何でも診療します。また,家庭,地域を単位とする視点から,予防医学や身近な医療などのプライマリ・ケアを行うプロ学術集団です。

 この学術集団が立ち上げたのが,Primary Care for All Team、略してPCATです。

 プライマリ・ケア(Primary Care)とは、「身近にあって、なんでも相談にのってくれる総合的な医療」のことです。そして、 「Primary Care for All」は,1970年代のWHOが,全世界の人たちにPrimary Careを提供しようという精神で,アルマ・アタ宣言として発表した言葉です。

 私はミャンマーで救援活動を行いましたが,こういう場合に必要なのは,「何でも診られる」という総合診療的な力です。また初歩的な公衆衛生や感染症に対する予防医学の基礎的な知識が必要です。

 避難所を一つの地域と考える視点も必要です。家族を最小単位の社会として見て,家族ごと診て行く視点です。仮設住宅でのコミュニティー作りにも,身近な医療を施すプライマリ・ケアが鍵となります。

 3月25日の新聞で,PCATの活動が「疲弊医師を支える医師」という見出しで報道されていました。

 気仙沼の「K-wave」という総合体育館に2千人近くの避難者がいました。S医師という整形外科の先生は,自分の家も流され,泳いで体育館に辿り着かれたのですが,その日の夜から診療を始められました。初期の頃は不眠不休の診察でした。最初の数日はお看取りも必要でした。

 私たちは,S先生に休養を取って頂きその間に私がK-waveで診療をしておりました。
 避難者が2千人にもなると,かなりの人数です。昼間は日本医師会から医師が派遣されているのですが,午後3時〜翌朝9時までは私たちが担当です。

 夜間当直では,インフルエンザの患者さんがあると,その人たちを隔離スペースに集めました。脱水症状を,昼のお医者さんが見つけたあと,3時に交替した後は,原因の発見を含め私たちの仕事となります。

 脱水の原因である下痢の蔓延が,仮設トイレの衛生状態に問題があることを突き止めた私は,元気のよい中学生,高校生を集めて便所掃除をやりました。実はそれが活動の最初でした。

 気仙沼では,他にも小中校と公民館が連合になっている避難所に,1800人近い被災者が避難していました。そこにいたM医師は,自身も被災し逃げてきた一人でした。私たちが代診をするようになったことで,気持ちに余裕が生まれ,在宅患者への訪問診療を再開されました。

 3月19日から約10日間の経験でしたが,いろいろと感じることがあり,コアとなる活動方針を立てました。
1)地元の文化,地元の人材を尊重した底上げ式の医療支援を行っていく。
2)さまざまなニーズに応えるために多職種の人材で編成した包括的な医療支援が必要である。
3)次に起こるかもしれない災害に向けて,記録を取り,学術的な医療保健支援をする。
 これまで,300人近くの医師と300人近くの多職種メンバーを送りました。多職種とは,歯科医師,理学療法士,作業療法士,看護師,助産師,薬剤師,栄養士などの人たちです。

 実際に行ったプロジェクトの仕事は,避難所での被災者や、在宅の被災者を支援することです。ライフラインの途絶えた自宅にそのままいるご老人や要介護の方々への支援も大切です。また、精神疾患を持っておられる方や心身に障害のある方への支援も忘れてはなりません。

 私たちは,公衆衛生的な支援や被災している医療施設を支援することで,継続的な支援ができると考え,活動しています。

 気仙沼,東松島,南三陸,それから福島県の原子力発電による被災者の方もを支援してきました。私自身も、福島の飯館村や南相馬市の方々の健康診断を行っています。

 以上のように,さまざまな活動を行っていますが,活動の柱は避難所支援,在宅被災者支援と特別グループの支援,そして被災医療者の支援です。

 具体的には,一つは気仙沼の巡回療養支援です。ライフラインが途絶え,通常ケアが受けられなくなった結果,床擦れをつくった患者さんを丹念に探し治療する活動です。

 更にもう一つは、石巻の福祉避難所の支援です。石巻では大変広い地域を支援しなければなりません。そこで,在宅各家庭を訪問する在宅診療という形ではなく一カ所に集まってもらい対応しようという支援です。「遊楽館」は,元は文化施設でしたが,今は福祉避難所になっています。

 私は,今後も,PCATのような活動は必要だと思っています。積極的に政府や医療団体に働き掛けをしていこうと思います。

 実際には,元々が医療過疎地域であった所が被災したわけですから,益々の支援が必要なことは言うまでもありません。

 気仙沼と石巻の間にある,本吉地区の医療施設に,3年目から5年目の後期研修医を派遣して,実際に地域医療に触れると同時に,住民にサービスを提供するシステム構築も模索しているところです。

 仮設住宅での在宅支援も考え,実際に活動を始めています。本人でも家族でも,移動の足を失った方が多いのです。ですから訪問診療が必要です。仮設住宅での孤立化にも対応していきたいと思います。

 もう一つ,産婦人科の支援が重要です。今まで7つあった分娩施設が3つしか残っていません。担当の先生も限界です。開業の支援方法も考えてみたいと思っています。

 被災支援者のメンタル・ケアも重要な局面に来ています。今まで6カ月間走り続けてきた現地の医療従事者や警察官,行政関係者など,心に痛手を負った方々への支援です。
 
 これからも,まだまだ,いろいろな場面に出会うと思いますが,頑張ってPCATの活動を続けたいと思っております。