卓話


江戸の学問と環境問題 

2008年2月6日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

日本郵船(株)顧問
財団法人 徳川記念財団
理事長
川恆孝氏 

 17〜18世紀の西欧は戦乱の時代ですが,日本は江戸時代を迎えて平和な時代でした。

 当時の日本の人口は,約1千2百万人,それが約百年経った元禄時代には3千万人といわれております。17世紀百年間で,2.5倍に増えたことになります。

 ヨーロッパ諸国の国の人口が増えるのは,1750〜1850年代です。それに先駆けて人口爆発を起こした唯一の国であったといえます。

 江戸時代のことで,もうひとつ特記すべきことは高いレベルの教育がいき渡ったことです。幕末になって,来日した外国人が日本に来て驚いたのは,市井の商家の女性たちの社会的地位の高さと,全体の識字率の高さでした。

 当時の教育制度は大別して三つに分かれます。まず,当時,人口の5〜7%だった武士の教育です。武家は藩校や儒学者の学校で儒学を学びました。その中身は,知識の教育ではなく論語の素読に始まる儒教の教育です。 人間としての徳を積み,武士としての義や礼を重んじ,物の値段を話題にするな,女人とは勝手に口をきいてはいけない,人の笑いを誘うような軽佻浮薄な振る舞いを禁ずる,といった教育です。

 お金は汚いという観念でしたから,直接,金子に手を触れることすら嫌いました。武士たちは,お金は大切なものだが,人間の心を惑わすものだという教育を受けていますから,経済政策はあまり上手くなかったといえます。

 武士以外の教育は寺子屋です。学年とか組とかの仕組みは一切なく,師匠はそれぞれの子供に合った教育を施します。子供は千差万別だから,それぞれ子供に適した教育をするというのが寺子屋の基本でした。

子供たちに与える教科書も別々です。幕末の,子供たちの教科書は7千種類あったそうです。商家の子供には商売往来,大工や左官の子供には大工往来,左官往来など,それぞれの家の職業で使う言葉(語彙)を読んだり書いたりできる教育が行われました。進度に個人差があっても一向にかまわない,みんなで一斉にやるのはお習字だけです。

 12〜13歳で,一応寺子屋を終えて,男の子は丁稚か徒弟でどこかの家に入ります。その家で大体9〜10年の修行をします。そうして21〜22歳で社会に出て,もう一人前というのが,一般的な教育制度です。江戸では,12,13歳を過ぎて,両親と一緒に居る者は禄な者にならないというのが社会常識でした。
 
 農家では,寺子屋での教育を受けた後,若衆組という集団に属します。村全体の潅漑工事や行事などには若衆が総出で働きます。

いずれの場合も,12,13歳を過ぎると社会の中で訓練を受けて,20歳で大人扱いされるというのが,日本の教育の体系でした。

昨年の7月,佐賀県で全国の高校生百人を集めて2週間の合宿研修をする「日本の次世代リーダーを育成する塾」に講師として招かれ,話をする機会がありました。

 その時,私は江戸時代での教育体系を話しました。私の気持ちのなかでは,君たちは,家で甘ったれているけれど,昔の子供たちは君たちの年頃にはバシバシやられていたんだよという思いだったのです。

 講演の後の質問で,「先生の話は面白かったし,当時の制度もいいと思う。しかし,いま我々が問題にしているのは,私たちが親離れをしていないという問題ではなく,親が私たちから離れていかないということが問題なのだ。親の子離れをどうしたらいいかについて,先生はどう思うか」と,きました。

百人の生徒が一斉に拍手しました。私は,少し考え違いをしていたと苦笑しました。 もうひとつ余談ですが,いま,国宝のような手に職を持っている職人さんたちが絶えつつあります。

 先般,宮中に親王がお生まれになった時,お祝いの「桧兜(ひのきかぶと)」が献上されました。桧を細工した作者は85歳の職人さんで後継者はいません。浮世絵の技術も失われつつあります。美人画の襟元の細い髪を彫る若い彫師はもういません。いま頑張っている職人さんは85〜86歳です。この人たちは小学校を出て,すぐ家の仕事を継いでいます。やっぱり,12,13歳から始めないと技術はつながらないのです。

 1800年ごろに描かれた「日本橋」という絵で,当時の様子をみてみると,魚河岸に急ぐ和船は,片側4本の櫓がついた八丁櫓の船です。当時,飛ぶがごとく速いといわれた船が,江戸湾でとれた新鮮な魚を載せて日本橋の魚河岸に急ぐ様子を描いています。

 前後に盥を下げた天秤棒を担いで駆けている一心太助の孫みたいな人は,魚の流通を表しています。冷凍も冷蔵もない時代に,魚の鮮度を守るにはスピードが必要です。何がなんでも走りまわって売りに出る様子です。

 天秤棒を担いで商売をする人は,物流の末端で活躍している人ですが,物を売る方が7割,買う方が3割といわれています。

 売る方は,魚類,野菜,食品など,生活に必要な品々の物売り屋さんです。

 買う方は,ぼろ布,紙くず,割れた下駄,破れた傘,かまどの灰,髪結床の床に落ちた髪の毛,ろうそく立てに残った僅かな蝋,何から何まで買っていく人たちです。当時は,不要になればどんな物でも売れたのです。

 これらの物は全部再生されて使われます。リサイクルで見事なのは糞尿です。汲み取られた糞尿は農家の手に渡り,肥溜めで発酵させて肥料となり,それに育てられた野菜が再び人々の口に入るというサイクルでした。下駄の木片は風呂屋さんの燃料となりました。 常時,買い手は「くずー,お払い」と声を掛けて町を歩いていますから,人々は呼び止めて売りました。そして,あらゆる物がリサイクルされ,再利用されました。

 最後に残った生ごみのような物まで集める人がいました。永代島は江戸の生ごみの捨て場です。運ばれた生ごみは,長い年月の間に土に変わり,島の土地は段々と増えました。その土地はごみ屋さんの財産になりました。そういう訳で,江戸から出るごみはほとんどありませんでした。

ロンドンやパリでは排泄物は下水を通って,テームズ川,セーヌ川に流されましたから,悪臭に満ちた街であったといわれています。

 世界がそんな状態の時に,日本の隅田川では,人々は投網で白魚を取って,おどりで食べていました。

 日本は,元々,きれいに田畑を作り,よく手入れをし,水を大切にして,山の森を守ることなどして,自然の生態系の動きをよく理解し,それを阻害しないように環境対策を,それぞれの立場で立てていました。

 日本の人口を調べた最初の人は八代将軍吉宗ですが,島国である日本には国内に持っている自分の資源と人口のバランスを非常に意識して生活する文化が育っていたと思います。

 ペリーがやって来るということは,その前年に,幕府はオランダから言われて知っていました。ペリーが捕鯨の基地がほしい,通商も開きたいと要求することも知っていました。気くばりの利いた役人を長崎に派遣して,オランダ商館のクロチュウス館長と事前の打ち合わせをしました。

 その時に,「我々は豊かに暮らしている。しかし余裕のある生活はしていない。資源と人口がぴったりとバランスしているので,人様に差し上げる物もたくさんはない。これ以上欲しいものもない。貴方たちが捕鯨の基地がいるのなら,水も薪も食料もあげましょう。しかし,貴方たちが何かを多量に買うと,その品物が不足して困るので,大掛かりな貿易はしたくない」という説明でアメリカ側が理解してくれるかと相談しました。

 クロチュウス館長は,「言う通りだが,お金が入ったら,それで,貴方も外国から物を買えばいいではないか」と応えたそうです。

 日本人は外国から物を買うという概念が全くないものですから,取られることばかり考えて困惑したということですが,資源と人間のバランスを保つことについて非常によく理解していたことを示す話だと思います。

 今日の日本の食料自給率は40%を切っていることはご承知の通りです。日本人はお金があれば大丈夫だろうと考えているようですが,その考えには疑問を感じます。

 最近,私はWWFの会長をお受けして国際大会などで各国の方々の話を聞いておりますが,環境対策では,日本は先進国の中で最も遅れつつある国です。アメリカは州の単位で,すさまじい勢いで省エネ対策が進んでいます。イギリス,ドイツ,オランダも京都議定書で決めたことは必ず守ると言っています。

 環境問題は今や新しい世界の宗教と考えていいでしょう。ヨーロッパでは,子供たちのために,いい地球をつくることが役目だと信じる人が80%を占めました。日本は情緒的なエコ対策に終始しています。このままでは環境問題でも再び世界の孤児のようになっていく可能性を率直に心配しています。