卓話


日本経済の現状と課題

2013年10月9日(水)

東京大学大学院経営学研究科
教授 吉川 洋氏

 「日本経済の現状と課題」というたいへん大袈裟なタイトルを掲げましたが、きょうは限られた時間の中でいくつかの数字を見ていただきながら、私の話が皆様方にとって何かのご参考になればと思っております。昨年暮れに発足しました安倍政権のもと、いわゆるアベノミクスによって日本経済もだいぶ雰囲気が変わってきたとよく耳にします。幸い昨年の11月あたりから、確かに状況は良い方向に向かっておりまして、取り敢えず景気は上向いていると言えるでしょう。

 しかしそのこととは別に、きょう私がお話ししたいことの一つが、閉塞感についてです。つまり足元では景気が良くなっているはずですが、国民の不安は解消されず依然として日本経済に閉塞感が漂っている。これをどうにかしなければいけません。そこで結論を先に申し上げますと、要点は二つあると私は思っています。キーワードは「社会保障」と「イノベーション」、この2点であると私自身は考えているわけです。

 ある意味で社会保障というのはディフェンシブであり、イノベーションの方はより積極的な手段であると言えますが、この二つで日本経済を立て直し、あるいは社会の困難を乗り越えていくしかないと思っております。しかし社会保障はご承知の通りファイナンスの面で非常に厳しく、この点も解決するために非常に難しい問題に対峙しなければなりません。そこで、あたかも玉葱の皮を一枚一枚むくようにして、最後の最後に行き着くところはやはりイノベーションであると、これが最後のキーワードとして残るのではないかと考えているわけです。

 そこでまず経済社会の閉塞感ということですが、一つは少子高齢化でありまして、これはもうさんざん言われているところです。こうした中で格差が拡大しているのは事実ですが、その理由としては高齢化の問題があります。なぜかと言いますと若い人に比べ、高齢者の方々はバラつきが大きいわけです。ですから人口に対して高齢者の占める割合が高くなれば、社会全体での格差も広がってくるという単純な理屈になります。

 それと家族の変容、経済の長期停滞といった問題もあるでしょう。前者は老若ともに単身住まいが増えていて、家族が面倒を見なくなったことなどが挙げられます。また経済の停滞は、ご存知のように日本がバブルの崩壊以降ずっと抱えている問題であります。

 格差について少し国際的に視野を広げてみたいと思います。日本でもかつて勝ち組、負け組という言葉がよく使われましたが、経済を語るうえで欠かせない数字の統計を改めて眺めてみますと、意外な事実が浮かび上がってきます。

 例えば主要先進国の所得ランキング最上位0.1%、つまり1000人に一人の大金持ちの人が、社会全体の所得のうちどれだけのシェアを占めているのか、それを100年間ほど調べてグラフにしたものがあります。それを見ると興味深いことに第2次世界大戦前までは、どの先進国にも大金持ちがいたことが分かります。1930年前後、アメリカならフォード1世とかモルガン、ロックフェラーなどの時代であり、日本では財閥ということになるでしょう。しかし面白いことに第2次世界大戦後は、戦勝国も敗戦国もすべて大金持ちがなくなり、その意味では平等化が進んだと言えます。

 ところが1980年代以降、これが大きく変わってきました。一番極端な国がアメリカで、同国では豊かな人がますます豊かになるという傾向が一段と顕著になっています。ですからアメリカで所得の分配について、様々な議論がされるようになったのは、ある意味で当然のことと言えるでしょう。しかし日本ではそうした傾向が見られず、これは大陸ヨーロッパつまりイギリスを除くフランス、ドイツ、スウェーデンなどでも同様です。

 もう一つ所得分布の変化というグラフもありまして、それを見ますとバブル崩壊後、日本は所得分布全体が下方に移動していることが分かります。これは全般的な貧困化傾向で、いわば日本は勝ち組、負け組という以前に、すべて負け組になっているという見方もできるわけです。もちろんこれは私が少し誇張して言っていますが、要するにこれが日本経済全体の大きな負荷になっていて、それはやはり否定できない点だと思います。

 いずれにしても今の日本は格差、高齢化、経済停滞など、閉塞感とともに諸々の課題を抱えています。またそれを一つの答えで、すべて解決できるというような単純な問題でないことも確かです。しかし社会全体としてそうした問題を緩和する、いわゆる解決に向けて取り組むべき施策、制度といったものが私は社会保障だろうと考えています。

 停滞感ということでは、もう一つデフレーションが問題でして、とりわけ金融政策との関係が課題になっています。とにかくデフレは続いているわけですが、このデフレをどうするかというテーマは、私ども経済学をやっている関係者の間では大論争がございます。そうした中で、デフレもインフレと同じ貨幣的な現象だから、とにかくマネーを出せばいいという考え方もあるようですが私は懐疑的な立場です。

 ではデフレの原因はいったい何なのか、ということになりますが、私は賃金が下がってきているのが最大の要因だろうと考えています。日米欧の名目賃金の比較グラフを見ますと、アメリカとユーロ圏は右肩上がりを示していますが、日本はずっと下がっているのでその差はますます広がっています。

 すでにご存じの通り第2次世界大戦後、先進国でデフレがあまりなかったのは、賃金が下がりにくいという背景がありました。つまり賃金がなかなか下がらないのが、どこの国でもデフレストッパーになっていたわけです。ところが日本では、その肝心なデフレストッパーが外れてしまった状態です。そこに日本だけがデフレの問題を抱えている原因があると、私自身は考えている次第です。

 これまで色々述べてきましたが、私がここでお話できる時間も限られています。それで予定していた為替レート、財政赤字、社会保障制度などのテーマは、この際はしょらせていただき、きょう私が一番強調したかったイノベーションの話に移りたいと思います。

 日本では人口減少化で右肩下がりになっているから経済は駄目だと、まあ良くてもゼロ成長だろうという声をよく聞きますが、これについて私はまったく同意できません。どういうことかと言いますと、先進国の経済成長は基本的に人口と関係ないからです。それが正しいステートメントだろうと考えています。

 例えば日本の人口と実質GDPについて、1870年頃つまり明治の初期から1990年位までの推移を比較してみますと、GDPは極端な右肩上がりの動きで、人口と経済が関係ないということは歴然としています。

 ではなぜ人口、人口ということが言われるのか。これは恐らく一人ひとりがシャベルやツルハシを持って道路工事をしている、そんなイメージを多くの方が持たれているのではないでしょうか。だから働き手が当初100人であったところ、80人になると当然アウトプットも減るだろう。いうなれば良くてゼロ成長だろうと、そういうとらえ方をされていると思います。

 しかし先進国の経済成長は、決してそういうものではありません。一人ひとりがシャベルでやっていたところにクレーンが出てくる、ブルドーザーが登場してくるという話であるわけです。あるいはこういう表現もできると思います。もし人口と経済がほとんどパラレルであったとしたら、当然ですが定義によって一人当たりの所得はほぼ変わらないということになります。どうでしょう、そうであれば明治の初めと現在の私たちは物質的に豊かさがほとんど同じだという理屈になります。しかし現実は、もちろんそうなっていません。経済において先進国と呼ばれるようになったのは、一人当たりの所得が伸びたからに外ならないのです。

 もう一つ成長率の数字を挙げてみたいと思います。高度経済成長期でちょうど前回の東京オリンピックの頃、日本の経済成長率は実質ベースで年10%位であったと、これはきょうこの会場にお見えになる方々はほとんどご存知だと思います。では当時の労働力人口がどれくらい伸びていたか、その数値を正確にご存知の方はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか。答えは1.2%、平均して年々1%強です。

 つまり労働力人口は1%ちょっと、しかし経済は10%伸びていたということです。その差9%は何か。これを経済学的に言えば「労働生産性が伸びる」ということになりますが、ただこの言葉をいわゆる「ガンバリズム」と勘違いされている向きもあります。しかしガンバリズムとはまったく関係ありません。要するに資本や機械が入り、イノベーションが実現されるという、それに尽きると思っています。あと各国の人口減少ランキングも見ておきますと、ドイツは日本以上に人口が減っている国であることも注目されます。

 さて、これまで私は人口と経済は関係ないと述べてきましたが、誤解があるといけませんので補足しますと、人口減少に問題はないと申し上げているのではありません。日本にとって人口減少は、政策を講じても早急に何とかしないといけない、非常に大きな問題であると私も考えています。しかし繰り返しますが、それと経済は別物です。経済の伸びは人口で決まるものではなくて、どこまでもイノベーションであると、これが皆様方にきょう最もお伝えしたかった私のメッセージであります。


         ※2013年10月9日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。