卓話


ことばは人をつなげるのか
暮らしのことば、オバマのことば、そして希少言語

2009年3月18日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

NPO法人地球ことば村
副理事長
慶應義塾大学 教授 
井上 逸兵氏 

 大学教員,社会言語学の研究者と,NP0法人「地球ことば村」の代表という二つの立場から,その二つがうまくかみ合うように,私どもが考え,行っていることをお話ししたいと思います。

 実は,私は,大学の体育会水泳部の部長も務めております。水泳部の創部は1902年で,関係の会合では,かなり年配の0B・OGの先輩にお目にかかる機会があります。

 体育会系の会合は,どんな大会でも,まず部長の挨拶から始まります。体育会系のOB・OGは「私は昭和何年卒の某でございます…」という自己紹介から始めるのが習わしですが,私はいつも「私は昭和36年生まれの井上…」と申しあげることにしています。

 すると,先輩方は急に打ち解けて「なんだ,お前は息子と同じ歳じゃないか…」と,突然口調が変わったりします。肩を叩いて笑ってくださる先輩もいたりします。

 「言葉のもっている力」を身をもって感じるわけです。つまり,言葉には,自分の印象を操作したり,人との関係を作り上げたりする働きがあります。私たちは,ある内容の事実を告げることで,人との関係を作り出したり,同じ内容でも異なった表現の仕方で,異なった受け止められ方をするように,戦略的に言葉を用いたりします。

 これは,私が専門としている社会言語学の基本的な認識ですが,言葉がどうしてこういう作用を持っているか。それは「言葉は文法と語彙だけでは成り立ってはいない」ということの証しだと思います。 言葉には,多くの文化的背景とか暗黙の前提,副次的に,人と人の関係を構築する力があります。あるいは,その言語を用いる人達の世界観を表しているのだと思います。

 「地球ことば村」のキャッチフレーズの一つに「暮らしの言葉から希少言語まで」がありますが,暮らしの言葉の例として,最近の若者の日常の言葉を取り上げてみます。
 若者の敬語の使い方は,社会言語学からみると,いろいろなことを表しています。結論的に言うと,敬語が特に乱れているという状況にはありません。

 かつて「言語生活」という雑誌がありました。言葉の風俗を取り上げて評論する雑誌でしたが,1970年に「最近の若いお母さんたちの言葉遣いは変だ」という特集を組みました。

 その座談会記事で,「子供にお菓子を『買ってあげる』」とか「犬に『餌をあげる』という言葉遣いをするのはおかしい」と言っています。「あげる」ではなく「やる」が正しい言葉遣いだ。この場合の敬語は過剰な敬語表現であるというのが当時の考えでした。

 言葉遣いは必ず常に変わっていきます。敬語でも,それは同じことです。我々からみて興味深いのは,その時々の「人間関係に対する考え方」が反映されているところです。

 敬語は,上下関係を表す敬語が廃れ,粗密の関係を表す手段になる傾向にあります。上の世代の人からみると奇異に感じられるのは自然なことです。いつの時代にも,古今東西,「最近の若者の言葉」は乱れています。

 私自身も違和感がある若者言葉に「ヤバイ」があります。ある学生に「先生の話はヤバイハヤイ」と言われてびっくりしました。これは「とても早い」という意味で使っています。最近は「ヤバイ」をいい意味に使っているようです。「あの店のケーキはヤバイ」というのは,ケーキの味を褒めているのです。

 「ビミョウ」は「微妙」ではなく「ノー」なのです。否定的に使います。

 「かなり」も,我々が使う韻律(prosody)と異なっています。「か」にアクセントを付けて使うと「おじさん言葉」です。「かなり」を平板に言うと若者言葉になります。

 これらは,言葉の持つ力の本質の一面をよく表しています。若者言葉は「内輪の言葉」です。自分たちだけが使っている言葉として内にいる者の結束を強め,他の者を排除する働きがあります。例えば,女子高生は面白い言葉を生み出しますが,段々広がって中学生も使うようになると肝心の女子高生は使うのを止めます。つまり,自分たちは自分たちだという,人と人の関係を強め,同時に,他人を排除する側面が現れているわけです。

 先般,オバマ大統領のスピーチ力が脚光を浴びました。しかし,必ずしも技巧に長じたスピーチというわけではありません。むしろ「hope」とか「change」に新しい意味を詰め込んで,分かりいい言葉で訴えたのが勝因だといわれています。

 hope や changeには人を排除するような響きがなかったのかもしれません。

 対して,日本の政治家のスピーチ力を同列に比較すべきではありません。コミュニケーションのなかで,言葉がどういう役割をするかは,それぞれの文化によって違うという側面を知ることが必要です。

 アメリカで,店に行けば店員は「Hi!」と個人的な挨拶をします。日本では「いらっしゃいませ」と非個人的な挨拶をします。コミュニケーションにおける言葉の位置づけが文化によって違う例の一つです。

 日本のスーパーでは,店員が「こんにちは」と言っても客が「こんにちは」と答えることを想定していません。

 「地球ことば村」では日常的な挨拶とか,日常に使う社交的な言葉を集めて「世界のあいさつ集」を作りました。

 あいさつを「こんにちは」と訳すと,みな同じですが,その次に言う言葉がそれぞれの文化によって違います。

 中国圏では「ご飯食べた?」を挨拶がわりに言ったりします。…最近の若者はあまり言わないそうですが…。アフリカのある種族は午後に会うと「昼寝の寝覚めはいかが?」という挨拶をします。

 日本で,挨拶がわりに「お出かけですか」と声をかけることがあります。外国人はびっくりします。プライベートなことを尋ねられるのは不愉快だと感じたりします。

 この場合,重要な点は「言い方」にあります。韻律が異なると違う解釈を引き出します。「お出かけですかあ」とやると,別な意味を含むことはお分かりでしょう。

 関西の言葉で「あほやなあ」という言い方があります。関東出身者がこれを言われるととても馬鹿にされたように感じるそうです。実は,これは愛情のこもった表現なのです。そういう文化を共有していないと,なかなか分かりにくいところです。

 私の知る限りでは,関西で始まった研究会が段々大きくなって学会になるケースが多いようです。私が考えるに,それは関西弁の柔らかい響きのせいだと思っています。

 我々は言葉を辞書的に理解しますが,言葉には,それぞれの地方の文化やコミュニケーションの中での慣習などが大きく関わっています。同じ言葉を共有していても,その使い方が異なっているのは世界の英語についても同じ状況です。World Englishesと複数形にした言い方が一般化しつつあります。

 世界中に多様な英語が生まれています。日本人が英語で仕事をする相手が,英語の母語話者でないアジアの人であるのが日常化しています。こういう場合の英語の多様性は韻律(prosody)や,コミュニケーションのなかでの慣習によって,本来の意味とは別な解釈を引き出したりします。

 日本人は,うなずきながら人の話を聞きますが,英米圏でよく言われるのは「感謝し過ぎ,うなずき過ぎ,あやまり過ぎ」が日本人への総評です。相手に不愉快な印象を与えないだろうという配慮なのですが,そう単純ではありません。

 地球ことば村は,小学校の教育の問題にも取り組んでいます。教育の問題の多くは言葉の問題だと思います。

 品川区のある小学校で,日本語特別授業のプログラムを展開しました。先ず作文を書いて,その作文を「詩」にして,さらに「歌詞」に仕上げて,作曲家に作曲してもらって,最後にプロの声楽家に歌ってもらうという学習です。題して「世界に一つ 私の歌」という授業です。

 テーマは「思い出」です。書いた作文を「詩」にした場合,4行に仕上げたほうが作曲しやすいということも学びます。最後の授業では,それぞれの子どもの「歌詞」を朗読した後,演奏されます。子どもたちの喜びは勿論ですが,先生方にも喜んでもらいました。

 「地球ことば村」は,希少言語という遠い世界から,日常の若者言葉,英語の問題,そして,子どもたちの言葉の教育の問題など,さまざまな事柄に取り組んでいます。

 言語はそれぞれの歴史と世界観を伴って人々に使われてきました。人類が一つの言語を失うことは一つの世界観を失うことです。どの言語も重要な文化遺産であることを信じてこれからの活動に取り組みたいと思います。