卓話


COVID-19と共に生きる日本社会の医療・福祉建築

2020年11月25日(水)

工学院大学特任教授・共生工学研究センター長
東京大学・工学院大学名誉教授 長澤 泰氏


 私は1970年代にイギリスに留学した時、病院の歴史について学びました。20世紀までに5つの波があります。

 第一の波が古代ギリシャのアスクレピウス神殿です。アスクレピウスは医療の神で、神殿が病院でした。家族と一緒に転地療法し、夢治療を中心にラジウム泉浴や屋外劇場を楽しむ、ゆったりとした場でした。

 第二波は中世のヨーロッパです。キリスト教支配のため肉体よりも精神が重要視され、あまり医学は発展しませんでした。修道院の脇に施療院を建て、病気になった人をそこに収容する。日本の悲田院・施薬院と同様、宗教施設が医療の場でした。ブルゴーニュにあった施療院では、病人はキュービクルと呼ばれるカーテンで仕切られた個室に入り、修道女が看護をしていました。領主が建物と共にぶどう園を寄進し、修道士がそこで作ったワインの収入で病人を無料で治療したそうです。

 さて、感染症の世界的パンデミックやペストの大流行は歴史的に3回記録されています。

 第一期は6世紀。東ローマ帝国と地中海に広がり、死者1億人。第二期が1346年から7年間、クリミア半島からコンスタンチノープルを中心に中東とヨーロッパに蔓延し、検疫制度も開始されました。この病気は黒死病と呼ばれて有名です。ヨーロッパの人口の3分の1が亡くなりました。

 第三期は19世紀末の中央アジアから発生したとされ、中国広東省、香港に蔓延。明治政府は北里柴三郎先生と青山胤通先生を派遣し、ペスト菌を発見。滅菌法を確立して、日本への伝染を防御しました。

 病院の歴史に戻ると、第3波はルネッサンス以降の隔離転用病院です。感染症流行時には、宮殿や刑務所などを転用したり、郊外に1万人ぐらい収容できる隔離所を作ったりしました。感染症に対する医療が確立していなかったため、罹患者を隔離して社会を保全するしかなかったのです。パリのシテ島のオテル・デューは欧州最大の病院で、生きて退院できないことで有名でした。

 19世紀になるとフローレンス・ナイチンゲールが現れます。私のイギリス留学の最大の収穫はナイチンゲールの建築面での貢献をつぶさに研究することができたことです。彼女の本『Notes on Hospitals』の冒頭に、「病院建築の第一の条件は患者に害を与えないことだ」、「良い病棟とは外観の見事な事ではなく患者に常時、新鮮な空気と陽光、適切な室温を供給できるものである。」とあり、病院の機能を明確にしたのです。これが第4波です。

 ナイチンゲールの出現により、病院の建築環境の向上が図られ、病院に入れば病気が治ると世間が認めるようになりました。病原体がまだ見つかっていない時代でしたが、彼女は看護の経験から、1ベッドごとに縦3.6m、横2.4m、高さ4.8mのスペースを取って、窓からの換気で40㎥の新鮮な空気量を確保し、咳をしても隣の患者に届かない距離を保ちました。9月に『ナイチンゲールと建築「ナイチンゲール病棟はなぜ日本では流行らなかったのか?」』という本を出しましたので、ご興味がありましたら読んでいただければと思います。

 その後、20世紀半ばまでに全身麻酔手術が成功し、破傷風菌やX線が発見され、滅菌・麻酔・止血の技術等が開発されて、西洋医学は飛躍的な発展を遂げます。

 しかし、結核は撲滅できませんでした。肺を半分切除する大変な手術が行われ、「大気、安静、栄養」というスローガンで各地に結核療養所が建てられました。20世紀半ばになると、抗生物質が発見され結核が治療可能になります。それ以降、感染症対策は過去のものとみなされて来ました。しかし21世紀の今、COVID-19という感染症が猛威をふるっています。

 戦後、日本はアメリカの病院管理学を取り入れて、機能と効率を重視して病院内の各部門を中央化しました。その結果、多くの生命が助けられました。建築は人工照明・機械換気・空調を基盤にし、人工的な環境の中で医療が行われる、いわば大規模な身体治療工場といった形態になりました。

 患者さんはそれまで、ある病棟なり、診療科に行けば、そこで治療が全部済んでいたのですが、今度は院内で長い距離を歩かなければならなくなった。診察後に、X線を撮る、検査をする、最後は会計をする、薬をもらう。患者さんを歩かせて、各部門で待ってもらう。これが20世紀後半の病院の姿で、第5波です。

 さて、21世紀の第6波はどうなるのか。COVID-19により自粛中でしたが、最悪の状態が最高のチャンスであると思い、一生懸命、英文論文の「COVID-19以降の日本社会における医療・福祉建築」をまとめて、投稿しました。

 昔は住居の周りですべてのことが行われていました。例えば、農家の方々は周りの畑で働いて、お爺ちゃんお婆ちゃんが孫の面倒を見て色々なことを教え、冠婚葬祭は大広間で行われました。その後、近代的な都市生活になると、それらは色々な施設に移ります。教育は学校で、医療は病院で、娯楽は遊園地等で、といった具合です。

 このように都市では生活の様々な機能を効率的に行うための施設が建てられました。日本の場合は江戸時代以降に施設が多くなりました。その結果、今問題になっている3密(密閉・密集・密接)の状態が発生したのです。

 19世紀以降、イギリスでは都市への人口集中が起きましたが、公衆衛生学が発達して交通や上下水道などの整備が行われて、都市生活環境の改善がみられました。

 ところが、1961年にI.ゴフマンが「トータルインスティテューション」という表現を用いて、警告しました。睡眠、遊び、仕事という生活の三要素が限られた場所で一斉に行われるような所では、職員と利用者が完全に別れており、職員が全体をコントロールする。例えば認知症の高齢者の方が、自宅から介護施設に移ると症状がひどくなることをインスティテューショナリズム(施設病)と呼びますが、施設が元々果たそうとしている目的を阻害してしまうのです。

 私は1980〜2010年代に東京大学医学部附属病院の全体計画に関与しました。世界に冠たる大病院で、機能的に優れ、環境も良くしたつもりになっていましたが、ひょっとしたら、これは「トータルインスティテューション」的ではなかったかなと気付いたのです。

 20世紀の病院は、院内で患者を歩かせて効率を図り、救命のためには痛くても我慢して「侵襲」を受け入れるという本人・家族の合意の下で医療行為がなされる場所であることを当たり前だと思っていますが、これでは「病気の館」じゃないのか。

 1980年代に、私の友人で、建築と医学に詳しい、テキサスA&M 大学教授のロジャー・ウルリッチ先生が、毎日、病室の外に緑が見えた患者達と、レンガの壁しか見えない患者達の過去10年間のカルテを調べました。手術後の在院日数で、統計的有意差をもって、緑が見えた患者達のほうが早く退院していました。痛み止めの処方量も少なく、看護師への苦情も少なかったため、環境を良くすることは医療に貢献できる証明になりました。そこで、私も1989年頃から、これからは「病気の館」ではなく「健康の館」すなわち「健院」という言葉を提唱しています。そこに行くと半分治るのが本当の病院の姿だと思ったからです。

 さて、COVID-19 の蔓延により、医療現場では隔離できる個室不足が大きな問題になっています。

 日本で全個室の病院の最初は1992年の聖路加国際病院です。その後、足利赤十字病院、県立下呂温泉病院、北九州総合病院、加賀市民医療センターと増えています。足利赤十字病院は、以前私が会長を務めていた国際病院設備連盟の2016年開催の国際会議で、国際医療福祉建築賞の金賞を獲得しました。一部の病室では差額料金を取っていますが、占床率は100%以上で、今回のCOVID-19で周りの病院から患者さんが転院してくるそうです。

 今後の病院はICU化した個室になると思います。アメリカでは10年程前から特殊な機械を使う手術以外は、入院から退院まで同じ病室での処置が可能になっており、病室移動の労力と危険性をなくす方向に向かっています。

 今般、COVID-19の感染の疑いがある方や症状が軽い方は住宅やホテルで頑張りました。病院は重症の方が飛び込む所で、そこに行けば必ず命が助かる保証があれば、病院ではない所に安心していることができます。今、ICTやIOTが発達していますので、病人・高齢者は動かなくても様々なケアサービスが供給される時代です。

 過去から現在になるにつれ、生活の場所は住居から都市の各施設に移りました。しかし将来は住居に戻っていく。病院を含めた地域包括ケアの中心は住居や周辺の社会環境自体になると思います。19世紀半ば、ナイチンゲールは100年後に病院がなくなることを既に予見していました。

 今後は、病院の機能はICU化し救命をしっかりと行う。しかし、医療機関で働く方々が安全で、安心して働く意欲がわかなければまずい。病院治療の前後で頑張れる場所、これも「健院」のひとつですが、を作ろうということで、実は1週間前に、私が理事長を務めるハピネスライフ財団を設立しました。

 各空港・港湾エリアのホテルに医療・看護サービス付きで安心して滞在でき、病院に行かずに済む場所を作ります。海外の方、またはGO TOトラベルの方はいざとなれば病院に直結できる場所で過ごせます。COVID-19のパンデミックが終わった時には最先端技術を用いた検診等に利用し、今後の生活習慣の改善を考えてもらう場所にしようと考えています。

 COVID-19の蔓延は20世紀の100年間に培った人と物の世界的な交通と物流技術を背景にして起きました。9.11の事件を見て、私の先輩建築家の故・林昌二さんは、「20世紀の文明を象徴するジェット機と超高層ビルが衝突した。この事件は、我々が20世紀の産物を手放すことはできないが、20世紀100年かけて作った文明を、21世紀の100年かけて方向を転換する道を見つけ始めた時であったことを将来知ることになるであろう。」と言いました。  それから20年、今回のCOVID-19蔓延は、我々に「まだぐずぐずしているのか」と、輪をかけて問いかけたのではないでしょうか。20世紀文明を22世紀に向かってどうやって良い方向に転回していくか。ぜひ皆さんと考えていきたいと思います。

   ※2020年11月25日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。