卓話


古地形と地震の震度分布ー東京都市部と大阪府河内平野を例として 

2006年11月15日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

東京大学地震研究所
都司嘉宣氏  

 まず,1703(元禄16)年12月23日午前3時に起きた元禄地震と,1923(大正12)年9月1日の正午に起きた大正関東地震が,江戸・東京にどんな被害をもたらしたかをお話しします。江戸・東京に重大被害をもたらした地震としては、この二つの地震の間に,安政2年10月2日に起きた安政江戸地震がありますが、これは直下型地震だったので,法則性が掴みにくい地震です。

 関東地方の東方沖には日本海溝が南北に走っており,この海溝上関東地方東南沖に位置する「会合三重点」に向かって伊豆半島の根元から東に相模トラフという海溝線が走っています。その南にはフィリピン海プレートがあり,1年に4〜5センチのスピードで北上しています。関東平野は北アメリカプレートに載っており、この下にフィリピン海プレートの下にもぐりこもうとするわけですが,いつもずるずる滑っているのではなく,普段は摩擦によってくっつき合っています。それが,例えば2百年も経つと,ついに耐え切れなくなって,二つのプレートの境目がスリップを起こします。これが大正関東地震あるいは元禄地震です。二つの地震の震源地はほとんど重なりあっています。しかも,元禄地震が兄貴で大正関東地震が弟ということがいえます。

 5年ほど前,鹿島建設小堀研究室の武村博士が,大正12年当時の市町村ごとの,木造家屋の全壊戸数を警察資料から丹念に拾いあげて,全壊率と震源域との関係を調べました。

 全壊率30%の地域を震度7,全壊率30%から10%の地域を震度6強,全壊率10%から1%を震度6弱,全壊率1%から0.1%を震度5強として,地域を塗りわけてみると,いろいろなことが分かってきました。

 震源域の真上は強く揺れたことは当然ですが,震源域から離れた所にも震度6強の強い揺れを示した場所が見つかりました。

 利根川は現在は千葉県と茨城県の境を流れて銚子で海に流出していますが,実は太田道灌が江戸城を開いた時に,利根川の流れを関宿の所で銚子の方に落としたことが分かっています。それ以前は、利根川の本流は現在の東武日光線に平行にそのすぐ近くを南下して現在の中川に注いでいました。

 詳しい地図では,元の流れの古利根川という川が示されていますが,その流域は幾度も氾濫を起こしたので,太田道灌や徳川家康は利根川の流れを付け替えて洪水が江戸を直撃するのを防いだわけです。

 利根川の流れは変わったのですが,関東震災のような大きな地震が起きると,古い利根川の氾濫源が震度6強の地域として現れました。これは古い時代の川の流れを,非常によく反映したデータだといえます。

 同じく武村博士のデータで「関東震災東京詳細震度図」があります。それを見ますと,現在の日比谷公園,丸の内,司町,神保町,小石川,水道橋までの地域と,少しとんで石神井公園の辺りが,強い地震の筋になっています。溜池も強い所です。対して,中央区の人形町,八丁堀などは震度5強です。

 同じことを古文書から,元禄地震の時の様子を調べてみると,大名屋敷がずらりと並んでいた江戸城の東側からお茶の水にかけて,被害が大きいことが分かっています。それに対して中央区界隈の町人の住んでいる所は震度5強から5弱ぐらいで,ほとんど被害がありません。これらの状況は,大正関東震災の結果と全くよく似ています。

 太田道灌が江戸城を造る前の中世江戸の地勢を見てみますと,丸の内に「日比谷の入江」があります。東京湾の一番奥の入り海です。そこから千鳥が淵への流れと,大池(現在の後楽園球場,小石川の辺り)につながる平川の川筋がありました。これら中世の入り海、川筋、内陸の沼地は、元禄・大正関東の二つの地震の被害の大きい場所にぴったり一致しています。かつて,川か沼であった場所が埋められて3百年経っていても,やはり地盤がゆるく,被害が大きい場所となっていたのです。

 関東地震のような大地震は何年に一回の現象かということを考えてみましょう。

 関東地震によって房総半島の南端が1.6メートルぐらい隆起しました。三浦半島の油壷検潮所でも,1923年に突然,地面が1.2メートル上がったことが記録されています。

 大正関東地震について,木更津から館山,野島崎までの6カ所で,隆起を比較したデータによると,館山,野島崎の辺りで1.6メートルほど,木更津で30センチほど地面が上がったことが分かります。
 
 いっぽう、元禄地震について古文書などで調べた結果と比較すると,館山,野島崎の辺りは4.5メートル上がっています。よく似ているのですが,先端部分では元禄の方が大きく上がっています。

 実際に房総半島南端の千倉に行ってみますと,元禄地震を含む巨大地震によって隆起した4段の海岸段丘を見ることができます。

 段丘面上に残された貝殻やサンゴの化石などを炭素14法で調べた結果,一番内陸側の第1段丘は5500年前に形成されたことが分かりました。同様に第2段丘は3600年前,第3段丘は2900年前,第4段丘は300年前とでました。いうまでもなく、第4段丘は,1703年の元禄地震によって形成されたものです。

 このように房総半島先端部分の段丘を分析すると,隆起は6000年間に大体4回起きていることがわかりました。さらに,関東震災に相当する小さな1メートル程度の隆起を丹念に調べてみると,それは200年から250年に1回の現象であると判断できます。

 つまりは,兄貴の元禄地震は6000年間に大体4回,平均すれば1500年に1回の現象である。弟の関東震災は200年から250年に1回の現象であるといえます。

 この200年間隔は,元禄地震1703年から関東震災1923年まで,ちょうど220年です。大正関東震災から現在までまだ83年しかたっていませんから、関東震災のような海溝型の巨大地震が東京を襲うのはまだ120年以上先のことだと言うことになります。

 続いて大阪平野の話をいたします。

 大阪平野では,1707年に宝永地震,1854年に安政南海地震が起きています。

 東海地震と南海地震はペアで起きています。1946(昭和21)年の南海地震と1944(昭和19)年の東南海地震がそうです。1854年12月24日の安政南海地震の前日の,12月23日に安政東海地震が起きています。

 『古事記』の中に,「神武天皇は吉備(岡山県)の高島の宮から浪速に向かい,長髄彦と戦った。白肩の津まで船が入ってきて,そこで盾を立てたので,そこを盾津とよぶ。神武天皇は,戦に負けて,南方(みなみがた)から血沼海(大阪湾)に出て和歌山に向かった」という記述があります。この神武天皇が上陸した盾津というのは、河内平野の東端、生駒山系の麓にあたります。近鉄奈良線の生駒トンネルの入り口に近いところです。その頃は,盾津も南方も海に面していたことが分かります。

 大阪府の古い地形の研究によると,弥生時代の河内湖は縄文時代には河内湾という大きな湾になっていました。このことが,宝永地震,安政地震の震度分布に反映しただろうかということを古文書で調べてみました。

 1854年の安政東海・南海地震の大阪府の詳細震度は,今の布施・盾津の辺りに被害が集中しています。現在の東大阪市の近鉄奈良線布施駅、河内小阪駅、八戸ノ里駅を中心として、西暦200〜400年の頃の地図で河内湖であった場所が,いちばん被害が多かったということが確かめられました。

 今のJR大阪環状線の内側での,1854年の安政東海・南海地震の詳細震度を調べてみると,被害がいちばん大きかったのは,西横堀の西側、とくに阿波座付近,それから堂島から梅田です。

 1707年の宝永地震は,布施から弓削,河内長野まで被害が拡大しています。東海・南海地震より大きな地震だったのです。その被害地域はほぼ縄文時代の河内湾の領域に一致します。

 大阪市内の西横堀の西側は平安時代まで海でした。鎌倉・室町時代になって木津川の辺りまで陸になりました。江戸時代はほとんど現在と同じ所までが陸になりました。

 宝永の地震の震度は,やっぱり西横堀の西側の阿波座を中心にした辺りが大きく,堂島,中の島辺りも大きかったことが分かっています。西横堀の東に当たる上本町や大阪城の付近,あるいは天満の辺りは全く助かっているようです。

 西横堀の西側は平安時代に陸になったのですが,大きな地震がくると,海であったときの海岸線の様子が現れてしまうということがいえるわけです。

 以上のように,古事記や江戸時代の古文書からも,かって水面であった場所は、遙か後世に起きた地震のさい揺れが強く現れる、という現代の地震学の法則が、実証的に解明されてくるということがご理解いただけたと思います。