卓話


ロビンソン・クルーソーを探して 

2006年11月8日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

探検家,作家 高橋大輔氏 

 太平洋の孤島に一人きりで漂着したら,自分はどうするだろうというようなことを,誰でも一度は考えたことがあると思います。実際にこのテーマに取り組んだのがダニエル・デフォーという作家で,それが今から300年前に書かれた『ロビンソン漂流記』です。

 この作品は,子供の頃に親しんだ小説だと思いますが,実際にモデルになった人がありました。スコットランドのラルゴという小さい漁村で生まれたアレクサンダー・セルカークという人です。ラルゴには今でも彼の生家が残されており,その家の玄関の上にはアレクサンダー・セルカークの銅像がたっております。それは,小説に書かれている服装と同じように,山羊の毛皮を組み合わせて作った服や帽子をまとっているように刻まれています。手にはマスケット銃という火縄銃を持っています。

 スコットランドには,彼が無人島で生活した証しとして,ココナツの実をくりぬいて作ったカップ,自分の持ち物を入れる長持ち(海員用の木箱),火縄銃の火薬を入れておくスコットランド独特のデザインの火薬入れ,彼が使っていたと思われるナイフの柄の四点が遺品として保存されています。

 セルカークがどんな航海を行ったのかというと…。1704年,今から丁度300年前,当時のイギリスは,スペインに領有されている南米大陸をなんとか切り崩したいと考えていました。そこで,自国の海軍の外に,海の荒くれ者を取り込んで,特許を与えて,王の名の元に南米海域で海賊行為をやっていました。

 その船の船乗りとして,海に出て成功すれば莫大な利益が得られるということで,海を目指した人が大勢いました。ロビンソン・クルーソーのモデルになったアレクサンダー・セルカークもその一人だったわけです。

 彼は1704年に南米大陸の近海まで来て,現在,ロビンソン・クルーソー島といわれる南米チリ領の孤島に漂着します。小説では,ロビンソン一人が漂着するという設定ですが,事実は,セルカークが船長と喧嘩をして,自ら志願して船を捨てて,この島に上陸するという途を選んだということだそうです。彼がそういう行動をとった背景には,また,ほかの海賊船がやってくるだろうと考えたことがあると思います。

 残念ながら,彼の思惑は外れ,4年4カ月の間,この島にいる羽目になりました。

 当時,この島はファンフェルナンデスの島と呼ばれていました。今現在は,サン・フアン・バウチスタという小さな漁村があって無人島ではないのですが,無人島であった当時の自然は,この集落以外の所では開発も進まずに比較的よく残されております。

 現在,この島には500人ほどの漁師さんが住んでいますが,彼らがこの島で生活し始めたのが1750年頃ですので,セルカークの体験から丁度50年後にスペイン人がチリの大陸から渡って来たという歴史があるわけです。

 ロビンソン・クルーソー島のすばらしさは,島に生えている植物の3本に1本が,世界中でもこの島にしかないという固有種で,島全体が植物のガラパゴスともいわれている所です。1935年以来,チリ共和国ではこの島を国立公園に指定して355種類の植物(そのうち154種が原種,94種が固有種)を保護しています。

 意外だったのは,セルカークのことを現地に行って調べた人が誰もいませんでした。私はそれを知った時に,何か運命のようなものを感じました。そこで,私は1994年から13年間かけて,5回この島に渡って,セルカークがどんな生活をしたのかを調べました。

 無人島で生活するにはどんなことが必要でしょうか。小説の『ロビンソン漂流記』には次の5つのことが書かれています。
無人島で生き残る5つの条件
1.水場に近いこと
2.食糧確保が簡単にできること、海に行くことが可能なこと
3.平坦な場所(住まいを建てるための)
4.救出の船を探すために展望台に近いこと
5.予期せぬ敵の侵入に対して隠れる場所があること

 私は,アレクサンダー・セルカークも,この5つの条件を満たす場所に実際に住んでいた筈だと推論を立て調査を始めました。

 一つだけ手がかりがありまして,現在も島の中央に,セルカークの見張り台と呼ばれる高台があります。標高565メートルですが,島自体が断崖絶壁に囲まれている険しい島ですので,簡単には登れないのですが,実際に行ってみると,四方がよく見渡せて,救いの船を探すには理想的な場所でした。

 私は,残りの4つの条件を満たす場所を探すべく,島の中を探検しました。

 一カ月ほど生活しましたが,国立公園ですから,たき火はできません。ロビンソンのように家を建てることもできません。私はロビンソン・クルーソーの家を探すという設定で島に渡ったのですが,自分自身がロビンソンになりきらねば,5つの条件を満たす場所ないしはセルカークの住んでいた所にたどり着けないだろうと考えました。

 私が持参したものは,米2キロ,カレー粉,コンソメスープの素,塩,チョコレート,ビタミン剤だけです。他の食料は自給自足という考えです。

 人間の食料調達は,最初は動物に手が行かず,植物の採集から入ります。木の実を少しずつ,おっかなびっくりで少しずつ口に入れまして,体を使って,その植物が食べられるかどうかを試験しつつ,食べ物を探します。

 小鳥が鳴いている茂みを見つけて,そこへ行くと果実があるということも教えられました。木の実だけでは十分ではありませんので,地図に書かれた川を辿ってみましたが,魚がとれるような流れはありません。せいぜいオタマジャクシを見つける程度です。

 断崖絶壁から釣り糸を垂らして魚を釣ろうとしても,用意していた毛針が川で使うものだったので,まったく釣れません。

 腹が減るばかりで弱っている時に「魚を釣りたければ,その魚が食べているものを餌に使え」という釣師の教えを思い出しました。

 海の魚は何を食べているのだろうと考えて海岸を見ながら蟹を追いかけてみたりしましたが足場が悪いので思うように動けません。

 ある風の強い日に,バッタが風にあおられて海に落ちている光景が目にとまりました。ひょっとして,このバッタは魚が食べるのではないかと想像して,試しにバッタを釣り餌にしてみたら,これが大成功でした。

 アジがおもしろいように釣れまして,刺し身,塩焼き,フィッシュカレーなどを堪能しました。

 ともあれ,最初に出かけた1994年は失敗に終わりました。第3回目では,茂みの中に家のある場所を知っているという老人に会い,その案内で行ってみましたら,石組みの住居跡がありました。

 この場所がセルカークの見張り台から非常に近い所にあるので,間違いないと自信を深めました。そこで,発掘調査を考え,ニューヨークの探検クラブに支援を求めました。

 探検には資金が必要です。資金を得るためワシントンのナショナル・ジオグラフィック協会にも支援を求めました。

 探検クラブというのは,世界各地にいる探検家に旗を提供して,探検家はその旗を持って探検に出かけるという伝統があります。私も,ロビンソン・クルーソー島探検の旗をいただき,ナショナル・ジオグラフィック協会からは約2万ドルの資金をいただいて,チリ・イギリス・日本の国際発掘チームを編成して,2005年1月6日から2月28日までの間,発掘を行いました。

 石積みの住居の発掘で出土したのは,屋根瓦,ドア用の釘,壷の陶片など,セルカークと関係ないものばかりが出てきました。後で判ったことなのですけれど,この建物は火薬庫の遺跡でした。1750年にスペイン人が作ったということも明らかでしたので,この下を掘れば,セルカークの遺跡を発見できると考え,さらに発掘を続けました。そして,原始的なたき火の跡を2カ所,たき火の跡を囲むような柱の穴も幾つか発見しました。

 さらに驚くべきことは,航海用のコンパスのピン先がフルイにかかりました。わずか16ミリのピン先です。セルカークは航海士だったという記録もあるし,この道具を持っていたという古文書の記録もあります。こうしてセルカークの家の跡にたどり着きました。

 これからのミッションは,貴重な国立公園の中にある,有名な『ロビンソン漂流記』のモデルだったセルカークの住居遺跡を保護し,自然のなかで一人の人間が如何にして生き延びたかを学べるサンクチュアリを作りたいという夢をふくらませております。