卓話


痛みの不思議(心療内科の立場から)

2012年7月11日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

平木クリニック
院長 平木英人氏

○痛みの定義
 国際疼痛学会では「痛みとは組織の実質的あるいは潜在的な障害に結びつくか,このような障害をあらわす言葉をつかって述べられる不快な感覚・情動体験である」と「痛み」を定義しています。

 この定義で大切なことは,痛みを単なる感覚の異常ではなく,情動すなわち精神心理的なものが伴っていると考えている点です。
 痛みを大別して,急性疼痛と慢性疼痛に分けます。急性疼痛は原因が取り除かれればすぐに治る疼痛です。一方,3ケ月〜6ケ月以上続く疼痛を慢性疼痛といっております。

○疫学
 慢性疼痛を抱えている人がどれくらいいるかという詳しい調査は,実は行われておりません。2006年に,大分大学医学部麻酔科の服部政治医師が3万人を対象にインターネット調査を行い,研究結果を発表しました。

 その資料の一部を引用させていただいて申しますと,慢性の痛みに悩まされている方々は全国で約1,700万人と推定されます。痛みの部位は,多い順に腰・肩・頭です。

 受診先は,整形,内科,整体マッサージ,整骨院ですが,治療は理学療法が多く選ばれていると推測されます。治療効果はあまり芳しくありません。治療を受けても痛みが変わらない人や治療に満足していない人を合わせると77.6%に及んでいます。

○心因性疼痛
 慢性疼痛のなかでも特に厄介なのは心因性疼痛です。慢性の痛みに悩まされている方々のなかには,ご自分の痛みが心因性によるものだという可能性をご存じない方が殆どです。

 このことが医療関係者にも十分に認識されているとは言い難いのが現況です。
 心因性疼痛の特徴は次のようなものです。

1)6ケ月以上続く慢性の痛み
2)少なくとも二か所以上の医療機関での精密検査で,病変がみあたらない
3)一般的な鎮痛剤が効かない
4)痛み方が独特で理解されにくい
 勿論,初めから心因性と決めつけるわけではなく,十分な検査を行い,患者さんの訴える症状に見合うだけの異常所見が見い出せないというエビデンスがあることが前提です。

○治療
 心因性疼痛に対する治療法は残念ながら,現在はまだ確立しておりません。ごく限られた専門医たちが,試行錯誤しながら治療にあたっているのが現況です。治療法は大別して薬物療法と心理療法があります。

1)薬物療法
 心因性疼痛に対する特効薬はありません。現在,日本で認可承認されている薬,約1万5千種程の中で鎮痛効果を有すると認められている薬は約270種類です。しかし,心因性疼痛に有効と認められている薬は一つもありません。一般的な鎮痛剤は,麻薬を含めて,殆ど無効です。

 心因性疼痛に薬物療法は全く行わないというわけではありません。経験的に,ある種の抗うつ薬と精神安定剤が有効なことが分かっています。ただし,何らかの薬物が功を奏したとしても心理療法を行うことが必要だと思います。心理療法と薬物療法は車の両輪です。

2)心理療法
 心因性の痛みは,その人の性格や心理機制が深くかかわっています。その人の考え方やものの見方が変わらないと,再発を繰り返すという可能性が高くなってきます。

 心理療法には「認知療法」や「カウンセリング」,「森田療法」など,いろいろなものがありますが,いずれを選ぶにしても,大切なことは,患者さんに与える影響は薬物だけでなく,指導する医師そのものが大きく関わっているということです。

 今から約80年前,1930年に英国の医師マイクル・バリントが「バリント療法」を提唱して,「医師という名の薬」という言葉を示しました。

 薬には効能書きが付いています。そこには副作用も詳しく記載されています。ところが「医師という薬」は,その効能はともかく,副作用について殆ど知られていません。バリントはこれを問題と取り上げ,「医師は自分の不用意な言動が患者さんに与えるマイナスの影響,すなわち副作用に留意すべきだ」と提言したわけです。

3)治療目標
 治療で大事なことは,患者さんと医師が治療目標を共有することです。殆どの患者さんは痛みがゼロになることを目標にしておられます。我々も勿論,痛みゼロを目指しますが,それにこだわり過ぎますと治療がうまくいきません。

 患者さんは「いつ治るだろうか。今度の薬はいつ頃効いてくるだろうか」と,朝,目が覚めたときからずっと痛みのことを考え続けています。僅かな痛みでもキャッチして脳に送ります。意識はまた,痛んでいる部位に集中します。神経は益々過敏になるという悪循環が形成されます。

 一般的に,患者さんは痛みがなくなったら仕事をすると言います。しかし,痛みゼロを追い求めていると,なかなか社会復帰ができません。現在,アメリカの最前線の整形外科医たちは「ステイ・アクティブ」という観点を掲げています。「活動的な状態を維持する」ことですが,これを治療の目標としています。

 今から約90年前,日本で初めて確立された心理療法である「森田療法」でも,一貫して「あるがまま」ということを指導します。症状に振り回されず,痛みを痛みとして受け止めながら生活するという姿勢,考え方です。

 「ステイ・アクティブ」と「あるがまま」は表現こそ違いますが,示されている心構えには双方に合い通ずるものがあると思っています。

○症例
 日本を代表するミステリー作家の夏樹静子さんは,激しい腰痛に苦しみ,様々な治療を試みてこられたのですが効果がなく,ご縁があって私が担当しました。驚いたことに,夏樹さんほどの知識人でありながら,心と体の関係,いわゆる心身相関について全く無理解でありました。

 夏樹さんは「こんなにひどい痛みが心理的なものから起こるはずがない」と,はなから心因性を否定しておられました。しかし,私の目から見れば,心因性疼痛であることは疑いの余地のないものでした。

 治療は「絶食療法」を行いました。個室で,社会から隔離して10日間の絶食をしていただき,その間に心理指導を行う治療法です。薬は一切使いません。幸いにして,すっかり元気になられ,その後再発もなく,前にも増してご活躍いただいています。

 夏樹さんは,退院に際して「先生は薬を一切使わず,私に指一本ふれずに治してくれた」と述べられた言葉が印象的でした。

○腰痛革命
 腰痛治療の最前線では,革命的といわれる知見がみられるようになっています。

 スタンフォード大学のユージン・カレギー博士は,軽い痛みを抱えている人100人を5年間追跡して,気分が沈みがちな人や不安でじっとしていられない人,いわゆる心理的に不安定な人たちは,安定している人の30倍も重い腰痛に罹りやすいと発表しています。

 ノースウエスタン大学のバニア・アプカリアン博士は,脳生理学の立場から,激痛を訴える慢性疼痛の患者が脳のどの部分で痛みを感じているかを,MRIを使って調べています。

 通常,痛みや刺激を与えられた場合,刺激は脊髄を経て視床に至り,そこから脳全体に広がります。しかし,慢性化した激しい痛みの患者さんのルートはそれとは異なっていて,視床を経ずに前頭葉が活動しています。

 その後の研究で,前頭葉の前部がストレスや不安など,ネガティブな感情を司ることに関与していることも分かってきました。

 日本では,福島県立医科大学の学長であり,国際腰痛学会の会長でもある菊地臣一先生が「きちんと診断のつく腰痛は15%で,後の85%は原因がはっきりしない非特異的腰痛である」と述べられておられます。

○まとめ
 何かあれば痛みます。しかし,何にもなくても痛みます。心因による痛みというものがあるのだということをご理解いただければと存じます。痛みに苦しんでいる方たちには,痛みゼロを目標にするのではなく「あるがまま」と「ステイ・アクティブ」という,洋の東西に共通する考え方で痛みに対応していただきたいと思っております。

 現代社会は激しく変わっていますが,人の心は何十年経ってもそんなに変わっていません。心は確かに,皆様お一人お一人のものですが,自分のものでありながらどうにも扱いにくいものでもあります。「痛みの不思議」はすなわち「心の不思議」です。

 最後に,アーノルド・トゥインビーの言葉をご紹介して終わります。「現代人はなんでも知っている。知らないのは自分自身のことだけだ。」