卓話


ロータリー財団月間例会
日常を生き抜く新地町の人々
−その驚くべき「強さ」と「しなやかさ」の記録−

2012年11月7日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

2011-13年度ロタリー平和フェロー
国際基督教大学院
アリソン・クウエッセル氏 

 新地町は,福島県相馬市のすぐ北にある町です。福島の原発からは50キロぐらいの場所にありますが,風向きが幸いして,他の地域より放射線量は低く,その点では幸運でした。しかし,津波の被害が甚大で,福島を代表するほど不運な地域になってしまいました。

 私の調査では,新地町の人口は8,093人でしたが,109人の人が津波で亡くなりました。現在,新地町には,8つの異なった仮設住宅があります。新地町で家を失った人たち,相馬,南相馬,大隅,双葉,浪江,小高,原町区などから,放射線からの避難民の方々がこの仮設住宅に暮らしています。

 私が初めて新地町を訪ねたのは,昨年の10月でした。ここで知り合ったある婦人は「この町は『忘れられた町』と言われるようになってしまったのですよ」と言っていました。この婦人は,今では,私にとって母親のような存在になっています。

 新地町は山の中にある町で,豊かな緑と青い空で有名です。海と山,海とたんぼ,海と森の町なのです。

 新地町は,3月11日の震災後も特に目立った報道がされるということはありませんでしたが,強烈な津波によって列車が真っ二つに破壊された映像や,倒壊寸前にまで破壊された駅舎の映像で有名になりました。

 新地町が有名になった理由はそれだけではありません。この町の人たちは,津波に立ち向かって,それを乗り越えたのです。海に避難した36隻の勇気ある船舶を忘れてはなりません。彼らは外海で一泊し,翌日,津波で破壊されてしまった町に戻って来たのです。

 昨年10月,初めて新地町を訪ねた時,私は「ここは何かが違う」と感じました。

 私はそれまでも,ボランティアとして,また仕事の取材で,東北の数多くの市町村を見てきました。強靭な東北の人々の精神も感じてきました。それは歴史的にも長く語り継がれた東北の精神です。

 でも新地町で感じたのは,それとは異なった「何か」だったのです。私は,この日だけで終わることはなく,これからもこの町を何回となく訪ねることになるだろうと直感しました。

 私は新地町に対して即座に親しみを感じました。いっぺんに好きになりました。

 私が母親のように思っている大須賀美穂さんが,私と私の同僚に「ここは『忘れられた町』として知られているのですよ」と言った時に,私は写真家として,新地町に関心を集めることが役目であると感じました。

 私こそが,自分の技術,気持ち,教育,また,ロータリーの奨学生としての確かなネットワークを活かして,この人たちの為に何かしなくてはならないと強く決意しました。

 この一年で,私の「相馬郡新地町についてどのように報告できるか」ということが,私の心の中でさらに強化され,維持され,成長してきました。

 私は,新地町に興味を持ち始めた時から,多くの人たちに「福島に対する視点を変えていくことが大事だ」と言うようになっています。今でも,そう信じています。

 昨年の10月にこの仕事を始めた時は,分からないことが沢山ありました。だから,この村のことを取材したいと思いました。

 私は,住民の方々が恐怖の中で生活していると思っていました。その頃は,先の見えない不確定な要素が多い毎日であり,恐怖をもたらすことが十分にありましたから。

 しばらくして,新地町の人々に対する私の考えや関心は変わってきました。一年前に訪ねた時に感じた福島に対する親しみの情がなぜ起きたか,それが自分に分かるような気がしてきたのです。

 新地町の人たちは,勇敢な人たちです。とても強い精神力の持ち主です。正直で,おもてなしの心を持っています。自分たちの住んでいる地域,故郷に対する考えは,地域の指導者であろうと各個人であろうと,決して単純素朴なものではありません。

 新地町の人たちは,自分の置かれている状況をよく理解しています。そこに留まることの将来的な不安についてもよく理解しています。それでも,あらゆることに前向きに取り組んでいます。

 亡くなった方たちへの哀悼と敬意を表す機会をつくることを強く念じている反面,新たな世代の台頭に備えて,新しい,より良い町を建設しようと,頑張っておられます。

 今年の5月に「弘前アップルRC」のチャーターナイトのイベントに合わせて,私の写真の展示会がありました。この時の私の講演の演題は「変わりつつある視点」でした。

 私は,世界の人たちが,あるいは,震災の後の日本の人たちさえも,新地町や福島に対する視点を変えて行く必要があると信じています。私は,この地域の家族の毎日の生活を描いていきたいと考えています。そのことによって,単に災害が起きた土地として記憶に留めるのではなく,そこに住む家族に思いを馳せてもらいたいと思っています。

 私が震災の後,新地町で見た地域の連携と力強さは,今までに見たこともない人間性の美しさを感じさせるものでした。

 世界の人たちが,福島を被災地として心に留めるのではなく,多くの「美しさ」と「強さ」また「しなやかな強さ」がある大地として認めてほしいと思います。

 私は,戦争も自然災害も見てきました。多くの「死」も見てきました。また一方で,多くの「支援」を見てきました。

 私は,PTSD(心的外傷後ストレス障害)の状態で苦しんだことがあります。非常に苛酷な現場の取材の後,その映像が繰り返し現れて,すっかり疲弊してしまいました。夜間の睡眠が十分にとれるように,その後,心理カウンセラーと面談を重ねました。

 新地町の人たちは,ささやかな事から大きな事まで,お互いに助け合って,心の傷を治していくことができると確信できました。このような事は,今までどこにいても経験したことがありませんでした。

 新地町の人たちは,住む家とともに,あらゆるものを失った後でも,毎朝,目が覚めると,海底の清掃に励み,田畑の瓦礫を回収し,美容師さんは美容室の営業をします。こうしたことこそ,勇気がいることなのです。遠方から移って来た人を受け入れ,お祭りをしたりバーベキューをしたり,毎週の会合を開いたり,おばさんたちが集まって,一緒に歩きに行ったり編み物グループを作ったりして,地域組織が外部から来た人を受け入れて,互いに支え合うことを確認しながら暮らしています。

 「亡くなった方々には申し訳ないけれど,被災した人は皆さんで元気で笑おう」ということにしています。「悲しんでも振り返っても駄目だから,前を向いて進もう」と励まし合っているという話もありました。

 私が目にした新地町の人たちは,「思慮深く,勇気ある,正直な人たち」です。支え合うこと,分かち合うことができる人たちです。

 私は,できれば一生かけて,新地町の取材を続けていきたいと思っています。
 研究者として理解を深めたいことは,何がそれ程までに新地町の人たちの心の傷を癒し,力づけたかということです。それを調べるために調査をします。写真も撮ります。

 私は,一昨年ハイチで経験した恐怖から立ち直る努力をしてきました。日本で過ごし,新地町で仕事をすることが,私の回復を早めてくれています。多くの方々が恐怖に満ちた災害地と思っている福島から,私は生きることの素晴らしさ,美しさを学んでいます。

 私は新地町に「特別なもの」を見つけました。私はこの「特別なもの」のある新地町を,世界の人々に知らせたいのです。

 生命に対する畏敬の念が,地域を支え合う中で,平穏な日々からもたらされています。その「葛藤」,その「底力」と「しなやかな強さ」を世界の人に学んでほしいのです。

 皆様のご支援のお陰で,「忘れられた町」と考えられていた小さな町が,実は,思わぬ希望に満ちていて,決して忘れ去られたままではいけないのだということを,世界中に知らせることができるようになりました。このことを皆様に感謝しています。

 最後に,ロータリーの奨学生としてご支援を頂いていることにお礼を申し上げます。